呼吸のリズムに合わせて、どこかで機械が「カチッ、カチッ」と音を立てている。
だが、心電図の波形は見えない。
頭が重い。名前が、出てこない。
何者なのか、自分がここにいる理由も、まるで分からなかった。
「……誰か、いますか?」
声を出したのは反射的だった。だが、返事はない。
代わりに、天井のスピーカーから合成音声が降ってきた。
> 「症例R-001、意識レベル:確認。再起動成功。」
「タイムコードE、00:00にリセット。退院処理は未完了です。」
その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが強く拒絶した。
聞いたことがある。いや、それだけじゃない。
……この声を、何度も聞いた気がする。
だが、記憶は白紙のまま、ただ恐怖だけがにじんでいく。
僕はここから出られるのか?
それとも、もう何度も出ようとして、戻されてきたのか――。
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『病棟R:タイムコードE ― 症例R-001 ―』
第1章「朝の回診」
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> 「おはようございます、R-001さん」
声をかけたのは、看護師のような服装の女だった。
淡い水色のナース服、白いマスク、アイコンのように整った髪。
年齢も雰囲気も、まるで量産された人形のようで、違和感があった。
「体調はいかがですか?」
「……覚えてません。というか、何も覚えてないんです」
「はい、それは正常な反応です」
その返答に、思考が止まる。
何が「正常」なのか?
女は淡々とタブレットを操作しながら言った。
「症例R-001、反応チェック:完了。認識再構築フェーズへ移行します」
「あの……ここはどこですか?」
女は微笑んだ。が、その表情に感情はなかった。
「ここは、病棟Rです。あなたの回復と再調整のための特別病棟です」
「退院できますか?」
「はい。必要な条件がすべて満たされれば、可能です」
「条件?」
「本日中にご案内いたします」
それだけを残し、女は部屋を出ていった。
静寂だけが残る。
——足元に、小さな紙切れが落ちていた。
ベッドの金属フレームに引っかかっていたそれは、誰かの手書きメモのようだった。
『次はB棟には行くな』
見覚えはない。でも、この文字を、自分が書いたような気がした。
なぜ「次」と書かれている?
初めてここに来たはずなのに。
……頭の奥で、何かが軋んだ気がした。
小さな違和感が、静かに心の奥に沈んでいく。
> 廊下の突き当たりに、他の区画とは雰囲気の違う鉄扉があった。
表示は消えているが、扉の上にうっすら「B棟」という文字が残っている。
看護師は誰もいない。
カメラの目は、なぜかこの角度だけ死角になっている気がした。
警告のメモを思い出す。
『次はB棟には行くな』
「……“次”って、なんだよ」
鉄扉に手をかける。
開くはずがないと思っていた扉は、鍵がかかっていなかった。
静かに、でも確実に開いていくその先は、廃墟のような病棟だった。
照明は一部しか点いておらず、廊下には剥がれた床材や落書きのような記録が散らばっていた。
一歩、足を踏み入れるたびに靴音が響く。
壁に貼られたボードに、なにか紙が留めてある。
カルテのようなそれには、こう書かれていた。
> 症例R-001
状態:回復傾向
面談記録:2025.06.04/06.04/06.04/06.04
記憶修正試行回数:12
日付がすべて、同じだった。
それも、今朝起きた日付と同じ。
「……冗談だろ」
頭の中に、過去の記憶ではない“何か”がうごめき始める。
足元に目をやると、
小さな紙の切れ端が床に落ちていた。
震える指で拾い上げる。そこには、自分の筆跡で——
> 『次こそ、ちゃんと死ね』
と、書かれていた。
背筋が凍る。
視界の隅で、何かが動いた気がした。
だが振り向いても、そこには誰もいない。
静寂の中、廊下の奥から……なぜか自分の声がした。
> 「……また、ここからかよ……」
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第2章「00:00の既視感」
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> チリ……チリチリ……
微かな電子音と共に、世界がふっと白く染まった。
目を開けると、天井だった。
また。
真っ白な壁、真っ白な天井。
それだけでもう分かる。
戻された。
「……うそだろ」
起き上がると、さっきと同じ配置の点滴。
ベッドの位置、カーテンのシワ。
それらすべてが、さっきと“全く同じ”であることに気づくまで、数秒かからなかった。
天井のスピーカーが、またあの声を落とす。
> 「症例R-001、意識レベル:確認。再起動成功。」
「タイムコードE、00:00にリセット。退院処理は未完了です。」
「同じだ……完全に、同じだ……」
ベッドの金属フレーム。
下を覗き込むと、そこにあるはずの紙が——また、ある。
『次はB棟には行くな』
覚えている。はっきりと。
これは、もう**“最初”ではない。**
鏡を見た。
顔に見覚えはない。
でも、目の奥にうっすらと疲れがにじんでいた。
何度も、何度も、こうして目を覚ましてきた人間のように。
廊下に出ると、またあの看護師が来た。
「おはようございます、R-001さん」
「……体調はいかがですか?」
「それ、さっきも聞きましたよね」
看護師は一瞬だけ動きを止めた。が、すぐに無表情でタブレットに目を落とす。
「症例R-001、錯誤反応:軽度。記録済み」
「おい、待て、俺はさっき——」
その瞬間、彼女の指がピッと画面を押した。
次の瞬間。
世界が、ノイズのようにざらついた。
頭の中に、短く強い電気ショックのような痛みが走る。
そしてまた、
> チリ……チリチリ……
白い天井。
「…………嘘、だろ……」
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第3章「症例002」
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> 昼食後、再びB棟に向かう通路を通った。
今度は、カメラに映らない角度を慎重に選んで。
鉄扉は、やはり開いていた。
奥に進むと、空気が変わる。
廃墟のような廊下。崩れた天井。誰もいない静寂。
「おい、そっちは——」
声がして振り返ると、そこに人影があった。
同じ入院服。痩せた体。
主人公より少し年上に見える男だった。
頭に包帯を巻き、片目に眼帯。
それでも、その目は、妙に**“こちらを見透かしていた”。**
「……お前、症例R-001、だな」
「……誰だ」
「R-002。ずっとここにいる」
男は壁にもたれてしゃがみ込み、静かに笑った。
「最初は俺も001だった」
「……は?」
「ここではみんな、“一番最初”から始まる。
自分が誰かも忘れてな」
主人公の背筋が凍る。
「ループのこと、覚えてるのか?」
「一部だけな。全部は持ち越せない。
でも、“次の奴にヒントを残す”方法だけは、見つけた」
それって——あのメモ。
「“次”って……お前が書いたのか?」
「かもしれないな。あるいは、その前の俺かも」
彼はポケットから何かを取り出す。
それは、小さなICチップのようなものだった。
「これは記録媒体だ。お前が“3回目”を越えたら渡す」
「なんで今じゃダメなんだ」
「1回目と2回目じゃ、“まだ理解できない”情報が含まれてる。
下手に渡すと、逆にループを壊す」
「ループを……壊す?」
男は少しだけ、悲しそうに笑った。
「壊れたループの中で生きるのが、一番辛いんだよ。
俺は……それをもう、30回は味わってる」
「じゃあどうすれば……」
その瞬間、警報が鳴った。
> ピー……ピー……!
「症例R-001、許可区域外侵入確認。初期化処理を開始します。」
世界が、揺れる。
男が何か叫んだ。
「次は、“コードP”を探せ——!」
そして、再び。
> チリ……チリチリ……
白い天井。