春の空は澄みわたり、淡い桜色がまだ校門の周囲に残っていた。
新学期、制服のブレザーは少し大きい。俺――佐藤
高校に入学して三日目。知っている顔もほとんどいないこの新しい世界で、「俺は何者になれるんだろう」なんて、そんなことを考えていた。
人より目立つこともない。地味で、特技もない。ただ、心のどこかで「変わりたい」と思っている自分がいた。
「なあ、佐藤。部活、どうするんだ?」
クラスメイトの坂井が声をかけてくる。教室で隣の席になっただけの、まだ友達と呼ぶには早い存在だ。
「うーん、何も決めてない。サッカー部とかは経験者が多そうだしな……」
俺は返事をしながら、廊下にずらりと並ぶ部活の勧誘ポスターをぼんやり眺めた。
華やかなイラストの美術部、ポップな吹奏楽部、どこも楽しそうには見えるけれど、なぜか俺の心には響かなかった。
「おい、これ見ろよ!」
坂井が指さしたのは、手書きの文字が目立つポスターだった。
『【個性部】部員募集中! 自分のキャラで世界を変えろ!』
「なにこれ、『個性部』?」
「なんか怪しいな……」
「でも、ちょっと面白そうじゃね?」
周囲の生徒たちもひそひそ声で話している。
俺はポスターの前で立ち止まった。どうせ無理だろうと思いつつも、もし、本当に自分を変えることができるなら……。なんとなく、ひきつけられている自分がいた。
「……見学、行ってみるかな」
放課後、思い切ってポスターの下に書かれていた場所――部室棟の一番奥へと向かった。窓の外にはまだ淡い光が残り、薄暗い廊下の先に、その部屋はあった。
「失礼します……」
そっとドアを開けると、中には四人の先輩たちがいた。
部屋の壁には「個性部」の手作りポスター。机の上には分厚い小道具の山、コスプレ衣装らしきものまで転がっている。まるで、テーマパークのバックヤードのようだ。
「いらっしゃい。新入生くんね?」
優しい声に振り向くと、そこには長い黒髪を柔らかく揺らす先輩がいた。制服のリボンはひとまわり大きく、他の誰よりも落ち着いた雰囲気。どこか母性的で、でも、いたずらっぽい微笑を浮かべている。
「私は部長の白石ましろ。個性部へようこそ。君の個性を、一緒に探してみない?」
「えっと、あの……どんな部活なんですか?」
「うちの部はね、あえて極端なキャラクターを演じることで、自分の個性を見つけていくの。どんな自分になりたいか、悩んでる子にもぴったりよ?」
ましろ先輩の柔らかな声に、不思議と緊張が解ける。
「ちょっとアンタ、そこでボーっとしてないで、ちゃんと挨拶くらいしなさいよっ!」
今度は鋭い声。見ると、短く整えた栗色の髪の少女が腕を組んでこちらを睨んでいる。だけど、その頬はほんのり赤い。
「高坂ひなた、ツンデレ担当、二年。べ、別にアンタに興味があるわけじゃないんだから! ただ、部に迷惑かけないか心配なだけで!」
口調は強気、でもどこか照れ隠し。思わず、こういうキャラって本当にいるんだな……と感心してしまう。
「ひなた、あんまりおどかさないであげて。最初は誰だって緊張するんだから」
ましろ先輩がくすりと笑うと、ひなたはぷいっと横を向いた。
「……興味があるなら、君も演じてみたい自分を決めてごらん?」
「そんな急に言われても……」
戸惑っていると、次に声をかけてきたのは、窓際で静かに本を読んでいた少女だった。透けるような長い髪、薄幸そうな美貌。制服の袖から覗く手は分厚い文庫本を握っている。
「東雲ゆかり……です。文学少女属性……です。詩を読むのが好きです。あなたは、どんな言葉で世界を見ていますか?」
低く静かな声だが、不思議と耳に残る。
思わず、「えっ……」と答えに詰まる。
「大丈夫よ、ゆかりは人見知りなの。こう見えて、部の副部長さんなのよ」
ましろ先輩が補足すると、ゆかり先輩は少しだけ恥ずかしそうに目をそらした。
「……個性部、変な部活に思うかもしれないけど、本当は――」
そこで、不意に部屋の隅にいた少女がすっと立ち上がる。
銀色のショートボブ、白い肌に青い瞳。何より印象的なのは、その無表情。
「桜井メイ。無感情アンドロイド属性。合理性と自己最適化の追求が主目的。入部理由……情報処理能力の向上」
まったく感情の起伏を見せず、淡々と名乗る。その姿に、俺はつい目を見張ってしまう。
「メイはね、普段からああいう感じだけど……心の中では色んなこと考えてるんだから」
ましろ先輩がフォローすると、メイは無表情のまま小さく頷いた。
「すごいな……なんか、アニメのキャラクターみたいだ」
俺の呟きに、ひなたがすかさずツッコミを入れる。
「な、なによ! 本物のツンデレの迫力、見せてやるわよ! ま、まあ、期待してなさいっ」
「君も、自分だけの個性を見つけてみない?」
再びましろ先輩が優しく問いかけてくる。けれど、俺は即答できなかった。
「正直、自分がどんな人間か……まだよく分からなくて」
「それでいいのよ。最初はみんな、分からないまま始めるんだから」
ましろ先輩はにっこりと微笑んだ。
「とりあえず、仮でいいから入部してみない?」
俺は大きく頷いた。
「よろしくお願いします!」
ましろ先輩が、包み込むような笑顔を見せる。
「今日から、君も私たちの仲間ね」
ドアの外では、いつの間にか夕焼けが差し込んでいた。
新しい生活、新しい仲間――そして、まだ見ぬ個性。
ここから、俺の学園生活が本当に始まるのだ。
◇
けれど、翌日。部活動の時間、俺は新たな試練に直面することになった。
「……で、今日から実践。新入生にはツンデレをやってもらうから!」
放課後の部室で、腕組みしたひなた先輩が高らかに宣言した。
背後では、ましろ部長が「ひなたに任せると楽しそうね」と微笑み、ゆかり先輩は静かに本を閉じ、メイ先輩は淡々と作業用タブレットを操作している。
「ツンデレって……アニメでよく見るあれ、ですか?」
「あれって何よ、あれって!」
ひなた先輩が一歩詰め寄る。その勢いに圧倒されて、思わず椅子ごと後ろへ下がる。
「い、いや、よく分からなくて……」
「……ま、まあ、分からないのは当然かもね。しょうがないから、特別に私が直々に教えてあげる!」
ひなた先輩は威張ってみせるけれど、頬がわずかに赤い。
「まずは基本からいくわよ。ツンデレってのは、ツンツンしてるけど、ホントはデレデレなんだから。素直になれないけど、好きな相手にはつい冷たくしちゃう――」
「それ、結構難しそうですね……」
「な、なによっ! 私だって最初は苦労したんだから! ほら、今から私の見本、よーく見なさいよ!」
そう言うと、ひなた先輩は胸を張り、小さく咳払いをしてから、
「きょ、今日のプリント、忘れてるとか、ほんっとバカなんだから! ……べ、別にアンタのために教えてあげるわけじゃないんだからね! でも、放っとくと成績落ちるでしょ?仕方なく、教えてあげるのよ!」
と、早口でまくしたてる。
……そして一瞬、俺の方をちらりと見て、すぐに視線をそらす。
「……ど、どう? 今のがツンデレのお手本だから!」
俺は思わず拍手してしまった。
「すごい、プロみたいです……!」
「ぷ、プロって何よ! も、もう、褒めたって何も出ないんだから……」
それでも、ちょっとだけうれしそうにしている。
「はい、次はアンタの番! ちゃんとやってみなさいよ!」
ひなた先輩が椅子を引き寄せて、俺の正面に座る。
後ろから、ましろ部長が「ひなた、怖がらせちゃだめよ」と優しく言うが、ひなたはぷいっと横を向いた。
俺は心の準備もないまま、ひなた先輩の真似をしてみる。
「えっと……今日のプリント、忘れてるんじゃないの……。べ、別に、アンタのためじゃないんだけど……」
自分で言いながら顔が熱くなる。
隣のゆかり先輩が小さく笑った。
「新鮮で、いいですね」
「ま、まあ、最初にしては悪くないんじゃない!」
部室はどこか温かい雰囲気に包まれていた。
お互いに「違う自分」をちょっとだけ試してみる場所。
それが、この「個性部」なんだろう。
「ひなた、ありがとね。虹太くん、明日も楽しみにしててね?」
ましろ部長が軽やかに言う。メイ先輩は「次回、詩的表現および内省型思考の実践」とだけ告げて再びタブレットに向かった。
部活動が終わり、帰り道。
ひなた先輩が、靴箱の前でふいに俺に声をかけた。
「あ、あのさ……」
「はい?」
「……今日、ありがと。アンタのこと、ちょっと見直したかも……し、しないかもしれないけど!」
顔を真っ赤にしながら、走り去っていくひなた先輩。
その背中を見送りながら、俺は少しだけ笑ってしまった。
◇
「今日の担当は、ゆかりね」
放課後の個性部。
ましろ部長の明るい声とともに、部室の空気がひときわ静かになる。
ひなた先輩は相変わらずそっぽを向いているし、メイ先輩はいつも通りタブレットを操作している。
そんな中、東雲ゆかり先輩が本を閉じて、こちらを見た。
「きょ、今日は文学少女……やってみませんか」
彼女の声は、昨日までと同じく柔らかいが、どこか緊張がにじむ。
それもそのはずだ。部の新入生に、突然、文学少女を演じろと言うのだから。
「え、文学少女……?」
「うん。私が普段、やっていること。たとえば、詩を書いたり、本を読んだり、好きな作家について語り合ったり……」
部室の隅にある小さな本棚には、色とりどりの文庫本がぎっしりと並んでいる。その背表紙のどれもが、俺にはほとんど馴染みがない名前ばかりだった。
「まずは、この詩を読んでみてください」
ゆかり先輩は、古びた詩集の一ページを開き、俺に手渡す。
「ゆっくりでいいので、自分の声で」
俺は息を整え、一行目から読み始めた。
進めるうちに、なぜだか胸の奥がすうっと静かになっていく。
言葉を声にすることで、景色が頭の中に広がるような不思議な感覚だった。
読み終えると、ゆかり先輩が優しく微笑んだ。
「すごく、いい声ですね。詩を読むとき、私は心の中のもうひとりの自分に語りかけるようにしています」
「心の中の、もうひとりの自分……」
「そう。現実ではうまく言えないことも、言葉にすると伝えられる気がして……。文学少女は、みんな本当の自分を本の中に隠しているものなんです」
ゆかり先輩の目は、ガラス細工のように澄んでいる。
その言葉を聞いて、昨日の自分を思い出した。
何者にもなれない気がして、うずくまっていた自分。
本の中なら、どんな自分にでもなれるのかもしれない――ふと、そんなことを考えた。
「じゃあ、今度は自分で詩を作ってみるのはどうでしょう」
「えっ、いきなり、詩をですか?」
「一行だけでいいです。今の気持ちを一言で」
言われてみれば、今の気持ちなんて、普段はちゃんと考えたことがない。俺はしばらく黙ってから、やっと口を開いた。
「……考えていることはたくさんあるのに、言葉が何も出てきません」
ぽつりとつぶやいた自分の言葉に、部室が静まり返る。
「……いいですね。ちゃんと今の君が詩になってます」
ゆかり先輩が、ほんの少し頬を染めて拍手してくれる。
「えっ、あの、違います。詩のつもりじゃなくて、本当に何も……」
「それでいいんですよ」
その言葉が、まるで魔法の呪文のように響いた。
「私も、ずっと自分を表現するのが苦手で。だから、本を読んだり、詩を書いたりしながら、自分と向き合ってるんです。無理に作ろうとすることはないんですよ。心のままで大丈夫」
あっけにとられる俺に、ましろ部長がやさしく声をかけてきた。
「どうだった? 文学少女体験」
「すごく、不思議な気持ちです。……自分の中に知らない気持ちがあること、少しだけ分かったかも」
「それは素敵なことよ。個性部はなりたい自分に無理に近づこうとする場所じゃないの。なれる自分を、ひとつずつ見つけていく部活だから」
ましろ先輩の言葉に、心が少しだけ軽くなった気がした。
「虹太くん……えっと、また、今度、一緒に詩を読んでみませんか」
ゆかり先輩は、まっすぐ俺の目を見てそう言った。
「はい、ぜひ」
その小さなやりとりが、なんだかとても大切なものに思えた。
誰かと心を通わせるために、言葉を紡ぐ。
文学少女属性は、演じるというより、むしろ「自分自身の心の声」を見つけるためのものかもしれない。
俺は少しだけ、自分というものに近づいたような気がした。
◇
週が明け、個性部の部室にはやわらかな日差しが差し込んでいた。
少しずつこの場所の空気に慣れてきたけれど、今日はなんとなくそわそわしている自分がいる。
「今日の担当は、ましろ部長よ」と、ひなた先輩が嬉しそうに告げると、ましろ部長がにこやかにほほ笑んだ。
「お姉さん属性って、いったい何をするんですか?」
「そうね……まずは困っている人にそっと手を差し伸べることかしら。あとは、みんなの話をじっくり聞いてあげるとか。包容力があって、甘やかすのが得意な人、って感じかしら」
ましろ部長の声はどこか安心感があり、自然と肩の力が抜ける。
隣でひなた先輩が「ましろ部長がいると、部活が保健室みたいになるんだから……」と小声でぼやく。
「虹太くん、困っていることや、悩みがあったら何でも言ってね? 今日は私が特別に、ぜーんぶ受け止めてあげる!」
部長はそう言うと、俺の肩を軽く叩いた。
どこか子ども扱いされている気がして、ちょっと照れくさい。
「じゃあ、今日はみんなでお悩み相談大会をしてみましょうか。私がお姉さん役をやるから、みんなは悩みを打ち明けてくれる?」
「ええっ、なんだか恥ずかしい……」
「いいから、いいから。部長の命令よ?」
お姉さんというより、ちょっとお母さんみたいな押しの強さだ。
最初にひなた先輩が手を挙げる。
「べ、別に困ってなんかないけど……テストの点数をもっと上げたいのよ。どうしたらいいと思う?」
「そうね、ひなたちゃんは頑張り屋さんだけど、無理は禁物よ? 甘いものを食べたりして、ちょっと息抜きしながら勉強してみたら?」
「べ、別に……ありがたくなんかないんだから!」
ひなた先輩が赤面しつつも、なんだか嬉しそうにそっぽを向く。
続いて、ゆかり先輩。
「最近、夜なかなか眠れなくて……」
「ゆかりちゃんは、考えすぎちゃうのね。好きな詩を一編、声に出して読んでみたら? それだけでも、気持ちが落ち着くかもしれないわ」
「……ありがとうございます」
小さな声で、でも本当に安心したような表情を見せるゆかり先輩。
メイ先輩も、ましろ部長に悩みを打ち明ける。
「充電残量、最近不安定。最適化プロセスの効率低下」
「それは大変ね。たまには、何も考えずぼーっとするのも大切よ。メイちゃんも、部活の後で一緒に甘いものでも食べましょ?」
「……了解。最適化、試行」
ロボットのような返事だが、どこかほっとしたような空気が伝わる。
いよいよ俺の番が回ってきた。
「虹太くんは? 最近、悩んでいることある?」
「えっと……やっぱり、自分がどんな人間なのか、いまいち分からなくて。何をしても自信が持てないというか……みんなみたいに個性的な属性もないし……」
そう素直に打ち明けると、ましろ部長はそっと微笑み、俺の手を両手で包み込むように握った。
「虹太くんはね、無理に個性をつくろうとしなくてもいいの。誰かを気遣ったり、悩んだり、迷ったり……。そういう優しさも、立派な個性なのよ。私は、そういう子が大好きだな」
その言葉を聞いて、胸がじんわりと温かくなった。
「それに、個性部の一番の役目は、みんなが自分らしくいられる居場所をつくること。虹太くんは、もうちゃんと自分を見つけ始めていると思うな」
ゆかり先輩も「……私も、そう思います」と小さくつぶやく。メイ先輩は「分析結果、個性の本質は多様性」と淡々と補足した。
「というわけで、次は私のお手製のお菓子でおやつタイムよ!」
部長はどこからかタッパーを取り出し、手作りクッキーをみんなに配る。
「な、なによコレ、けっこうおいしいじゃない……!」
「お菓子の味で、心もふんわりしますね」
「糖分補給、最適」
和やかな空気の中で、俺はこの部活に入ってよかったと、心から思った。
放課後、帰り際にましろ部長がそっと声をかけてくる。
「虹太くん、もしつらいことがあったら、いつでも頼ってね。部活のことでも、プライベートなことでも、何でも」
「ありがとうございます……部長って、本当にお姉さんみたいですね」
「ふふ、それが私の属性だから。でもね、時々は弱音も吐きたくなるの。そんなときは、虹太くんが支えてくれる?」
「もちろんです!」
小さな約束のようなやりとり。
温かな夕陽が部室を照らしている――そんな穏やかな時間が、何よりも大切に思えた。
誰かを甘やかすこと、誰かに甘えること。それは、強さでもあり、優しさでもあり、きっと個性のひとつなのだと、俺は思った。
◇
個性部に入ってからというもの、毎日が新しい発見の連続だ。
ツンデレ、文学少女、お姉さんと続いた体験入部も、いよいよ最後の属性に差し掛かった。
「今日の担当は、メイね」
ましろ部長がそう告げると、メイ先輩は静かに立ち上がる。
彼女の動きは機械のように無駄がなく、相変わらず表情ひとつ変えない。
冷たい銀色の瞳が、淡々とこちらを見つめている。
「あなたには、無感情モードの基本を伝授する」
俺はごくりと息を飲む。
メイ先輩の存在は、不思議と部のなかでも異彩を放っている。優しさや温もりを強調する他の先輩たちと比べて、彼女の発言や行動は、どこか人間離れしている気がした。
「まず、感情を表に出さない。顔も声も、変化は最小限。機械的な語尾、淡々とした話し方を心がけること。やってみて」
「えっと……こう、ですか?」
俺は声のトーンを落とし、感情を押し殺した口調でしゃべってみる。
「……今日の天気、晴れ。昼食、焼きそばパン。満足度、標準、です」
「六十点。声の抑揚が不安定。語尾のですますは省略可」
メイ先輩が、まるでAIのフィードバックみたいに的確に指摘する。
「な、なにこれ、全然楽しそうじゃないじゃない!」
「感情は非効率。判断を鈍らせる。……しかし、人間は感情を捨てきれない。そこに個性が生じる」
メイ先輩は、ごく淡々とそう語った。
その瞳の奥には、どこか遠くを見るような、わずかな揺らぎがあった気がした。
「感情が邪魔だと思ったこと、ある?」
ふいに俺はそう尋ねてしまった。
「……ある。感情が高ぶると、処理速度が落ちる。だが、完全に無感情にはなれない。私のアンドロイド属性は、本当は揺れている心を隠すための仮面」
ましろ部長が、そっとフォローを入れる。
「メイちゃんもね、実はすごく悩みやすい子なの。人と違う感情の持ち方や、不安を隠すためにアンドロイドを演じてるんだって、私は思ってる」
「隠すのは、怖いから?」
「正確には、合理的判断。弱みを見せると、他者の評価が変動する可能性がある。……でも本当は、理解されたいという気持ちも、否定できない」
メイ先輩の言葉は、どこか切なく聞こえた。
自分の個性を探しているつもりが、他の誰もが「本当の自分」と「演じている自分」のあいだで揺れている。
そう思うと、不思議と安心した。
「俺、昔から普通でいることばかり気にしてた。みんなみたいに特別じゃないとダメなのかなって。でも、誰でも不安とか、隠したいものを持ってるんですね」
「……普通でいること、それも個性。本音を認めれば、機械ではない証拠」
「ありがと、メイ先輩。無感情って難しいけど、ちょっとだけ分かった気がします」
メイ先輩が、初めてほんの少しだけ、口元をゆるめた気がした。
「演じてみて、どうだった?」
ましろ部長が問いかける。
「ちょっとだけ、自分を客観的に見れた気がします。でも、感情がないと、なんだか自分が消えそうで……やっぱり難しいです」
「それでいいのよ。自分の感情を全部コントロールできる人なんて、いないもの」
ゆかり先輩もそっと頷いた。
「誰でも、見せたい自分と、本当の自分がある。迷ったり悩んだりしても、それはちゃんと自分で選んでいる証拠だと思うんです」
メイ先輩は少しだけ目を細めて、「合理的結論。感情を抱えても、前進は可能」とつぶやいた。
放課後、帰りの支度をしていると、メイ先輩が不意に俺に話しかけてきた。
「……今日、私に付き合ってくれて、感謝する。君は、意外と適応力が高い。今後も、自己最適化のために協力を要請」
「はい、ぜひ。……でも、今度はもう少しだけ、感情を込めていいですか?」
「……検討する」
彼女はそう言って、いつものように無表情のまま部室を後にした。
みんな属性という仮面をつけながら、その裏で悩んだり、迷ったりしながら、それでも少しずつ本当の自分を見つけようとしている。
個性部って、そういう場所なんだ。そう思いながら、夕暮れの廊下を歩いた。
◇
春の日差しが、窓ガラスをきらきらと照らしている。校庭にはうっすらと桜色が残り、昼休みの校舎には遠くで誰かの笑い声が反響していた。
俺――佐藤虹太は、個性部の部室の扉をそっと開く。
「おっそいわねー、虹太!」
ひなた先輩が、今日もきつめのツンツンした声で出迎えてくれる。けれど、俺の顔を見ると、少しだけ頬を緩めるのはもうお決まりだ。
「……遅刻、データ取得済み。遅刻率、上昇傾向」
メイ先輩が、タブレット端末を指でなぞりながら、淡々と告げる。彼女の冷静なツッコミに、ひなた先輩がムキになって反論するのも、最近のルーティンだ。
「だからアンタは毎回……!」
「みんな、そんなに虹太くんをいじめちゃだめよ?」
ましろ部長が、ゆるやかな声で微笑みかける。変わらない優しさと、誰よりも大きな包容力。その微笑みに、今もふと救われる瞬間がある。
そして、東雲ゆかり先輩。今日も窓辺で静かに本を読みながら、たまに俺たちのやりとりを見守っている。時折、長い睫毛の奥から、静かなまなざしを向けてくれる。
この日常が、いつまでも続けばいいと思う。
「今日の部活動、始めます」
ましろ部長の声で、個性部の活動が始まる。部室のカレンダーは、入学してからしばらく経った春のまま。日々の部活動は、同じようでいて、どこか少しずつ違う。
「まずは、今日の個性体験から行きましょうか。今日は虹太くんが、やりたい属性を決めていいわよ」
「え、俺が?」
突然の指名に戸惑うが、部長が軽く頷く。ひなた先輩も「どーせ何も思いつかないんでしょ」と軽口を叩くけど、最近はそれすらも心地よく思える。
「じゃあ……今日は、『普通属性』で」
部室の空気が、ふわりと和んだ。ましろ部長が面白そうに目を細める。
「普通属性……?」
「はい。なんでもない日常を大事にして、誰かを助けたり、頼られたりしなくても、そこにいるだけでいいっていうか。個性とか、演じたりしなくても、ただみんなと一緒にいたい。……そういうのも、アリかなって」
ひなた先輩が、あきれたように息をつく。
「……なんだそれ。でもまあ、アンタっぽいかもね。ま、いいんじゃないの」
「合理的選択。無理に演じなくても、存在に価値あり」
メイ先輩が、淡々と補足する。ゆかり先輩も、ページをめくる手を止めて、ぽつりと呟いた。
「……私も、最初は自分の個性なんて分からなかった。虹太くんの普通属性、きっと特別なんだと思う」
ましろ部長が、満足そうに微笑む。
「うん、それが個性になることもあるのよ。みんな違って、みんな素敵。個性部の一番大切なところは、そういう居場所づくりだから」
部室の空気が、柔らかく満ちていく。
その日は、みんなで他愛ない話をした。新しく観たアニメの話、昼休みの購買のパンの話、テスト勉強の愚痴。ふざけあい、笑いあい、ときどき沈黙が流れても、その静けさすら愛おしい。
「虹太、明日のプリントちゃんと持ってきなさいよ!」
「忘れたら減点。私が記録する」
「ふたりとも、そんなに虹太くんをいじったらだめよ? 困ったときは、私も力になるからね」
そんなやりとりが続く日々。
何者かになりたくて入った個性部だったけど、「何者でもない」自分を認めてもらえる場所になった。
帰り際、部室の窓から夕焼けが差し込む。今日はひなた先輩と帰り道が一緒になった。
「……アンタさ、最近、なんか変わったよね」
「え?」
「前はすごく不安そうだったけど、今は……なんか、自然体っていうか。ムカつくけど、悪くないって感じ」
頬を赤くしてそっぽを向くひなた先輩。その背中を見ながら、俺はふと立ち止まる。
「みんながいるから、だと思います。……ありがとう」
「べ、別に! 私に感謝なんてしなくていいし! でも、まあ……アンタが変わった分、私も見ててちょっと……いや、なんでもない!」
ひなた先輩は照れ隠しに、全力で前を向いて歩き出す。俺も、それについていく。
小さな日常のやりとり。その一つ一つが、今はとても大切なものだと思える。
◇
週末、みんなで近くの公園にピクニックに行った。
ましろ部長が持ってきた手作りサンドイッチ。ひなた先輩が、まるでツンデレのテンプレートのように「仕方なく」作ってきたクッキー。メイ先輩は、スマホで天気のデータを淡々と読み上げながらも、レジャーシートの端にきちんと座っている。ゆかり先輩は、詩集を読みながら、少しだけはにかんだ笑みを見せてくれた。
「こうやって外で過ごすのも、いいですね」
ゆかり先輩の一言で、みんなの空気がふっと和らぐ。
「虹太くん、個性部に入ってよかった?」
ましろ部長が、優しく問いかける。
「はい。本当によかったです」
「じゃあ、今日の個性部は『ふつうの高校生』属性でいこうか」
「異議なし」
「ツンデレも今日はお休みしてあげる。……べ、別に、疲れたからじゃないんだから!」
そんなふうに、全員が肩の力を抜いてただ「居る」ことを許される時間。
空に風が吹いて、桜の残り香がほのかに漂う。
◇
部活動が終わり、帰り道の坂道を、みんなで並んで歩く。
夕焼けが西の空ににじんでいる。みんなの影が長く伸びて、重なったり、離れたりしながら、校門の先へ続いていく。
きっといつかは、学年が上がって卒業のときが来るだろう。でも今はまだ、誰も卒業しない。部活の仲間たちも、そのままの毎日を過ごしている。
きっとこれから、悩んだり、つまずいたりすることもあるだろう。でも、ここには「何者か」になろうと焦っていた頃の自分も、みんなと一緒に笑っている自分もいる。
そうして今日もまた、個性部の部室に集まって、少しだけ自分を好きになれる日々が続いていく。
どこにでもある普通の高校の、どこにもない「個性部」という場所で。
誰もが自分のまま、ひとつひとつの個性を見つけていく――そんな、かけがえのない毎日が。
そのことが、今はただ嬉しい。