金曜、22時48分。
マウスを握る右手はとっくに冷え切り、モニターの光がドライアイに染みる。
『【至急】28日納品分資料 不足箇所について』
画面の端で明滅する業務チャットの通知が、私、佐倉詩織(さくらしおり・27歳)のけなげなHPを着実に削っていく。
「……むりぃ……私の精神はとうに退勤済みです……」
うわごとのように呟いて、私はショートカットキーを叩いた。会社の共有フォルダが最小化され、デスクトップに鎮座する、たった一つの聖域への入り口が現れる。
青と白のグラデーションが印象的なアイコン。その名は――『Neopage』。
アイコンをダブルクリックした瞬間、世界は音を立てて反転する。
ううん、反転なんて生易しいものじゃない。私の意識は肉体(アバター)から一度引き剥がされ、光の素粒子に分解されると、超高速のデータ回線(エーテルライン)を駆け巡り――そして、再構築されるのだ。
キラキラキラ……ッ!!
目を開けば、そこはもう殺風景なワンルームではなかった。
「……はぁ〜〜〜……やっぱり最高……」
目の前に広がるのは、天空に浮かぶ巨大な白亜の都市。超次元大陸『ネオページア』の中心地にして、すべての『探訪者(トラベラー)』と『創造主(クリエイター)』が集うセントラル・ハブだ。
足元は透明なクリスタルでできており、はるか下には雲海がたゆたう。空には色とりどりのオーロラがカーテンのように揺らめき、巨大なホログラムディスプレイが、この世界の真理を映し出していた。
『週間 神格序列盤(ウィークリー・ランキングボード)』
そう、ここは数多の物語(ワールド)が生まれ、消費されていくウェブ小説サイト――を観測し、具現化した異世界。
私みたいな『探訪者(=読者)』は、お気に入りの物語を求めてこの大陸を旅する冒険者で、同時に『創造主(=作家)』の活動を支える敬虔な信仰者でもある。
「うわっ、今週もすごいことになってる……!」
巨大な神格序列盤を見上げると、最上位が凄まじい光量を放っている。
【総合人気序列 第1位】
『追放された聖女ですが、隣国の神官騎士様(超絶イケメン)に溺愛されて幸せになったので、今さら国に戻れと言われても絶対に無理です! ~ざまぁする気も起きないくらい、もう手遅れです~』
創造主:キラ☆姫宮麗子
タイトルの文字一つ一つがゴールドに輝き、虹色のエフェクトを撒き散らしている。周囲には「すごーい!」「麗子様、神!」「更新はよ!」といった他の探訪者たちの賞賛の声(チャットログ)が、光の蝶のように乱舞していた。
都市の中心部では、巨大なネオンサインさながら、今この瞬間、世界で最も求められている法則――『運命の聖句(タグ)』がきらめいている。
《#悪役令嬢》《#追放》《#ざまぁ》《#溺愛》《#最強ヒーロー》
眩しい。あまりに、眩しすぎる。
流行りの物語(ワールド)は光の洪水だ。探訪者たちの熱狂が渦を巻き、莫大な『信仰(アクセス)』となってトップ創造主たちの『神殿(マイページ)』へと流れ込んでいく。その信仰が彼らの『神格(ランキング)』をさらに押し上げ、また新たな探訪者を引き寄せる。まさに最強のスパイラル。
もちろん、私も流行りの作品を読むことはある。シンデレラストーリーは心ときめくし、スカッとする『ざまぁ』展開は月曜朝の憂鬱を吹き飛ばしてくれるから。
だけど……。
「……ちょっと、お腹いっぱい、かも」
毎日フルコースのディナーばかりじゃ疲れてしまう。私が心から欲しているのは、派手さはないけれど、一口味わえば忘れられなくなる、路地裏のパン屋さんのような物語。
私はきらびやかなメインストリートからそっと外れ、細い路地へと足を踏み入れた。ランキング上位の神殿へ向かう光の奔流に逆らい、人影もまばらな静寂のただ中へ。
目的地は決まっている。
私の、たった一人の『神様』が住まう神殿に。
セントラル・ハブの最も寂れた区画。そこに、忘れられたように古びた小さな『転移門(ゲート)』がぽつんと佇んでいる。門の上に掲げられたプレートは、ただ一文字。
『創造主:K』
装飾も何もない、無機質な一文字。
この門の先に広がる『神聖領域(マイページ)』も、驚くほどに簡素だ。
背景は光を一切反射しない漆黒の闇。メニューの文字は、細く儚げな銀色の線。BGMもなく、耳を澄ませば微かに雨音か風の音か、そんな環境音が聞こえるだけ。『創造主』だけが行使できるという『世界創造魔法(カスタマイズ)』の、ひとつの極致がそこにあった。
この『K』という創造主は、何もかもが謎に包まれている。
性別、年齢、現実世界(リアル)での素性さえ、一切が不明。
投稿されている物語も、ただ一つだけだ。
タイトル:『灰色のアルカディア』
聖句(タグ):《#世界の片隅》《#灰色の英雄》《#静かな終末》
流行りの聖句とは真逆の、ダウナー系オンパレード。
当然、『神格序列』はいつも圏外。『ピックアップ作品』や『絶対に読んでほしい人気作』に選ばれたことなど一度もない。
「引退したのでは?」と噂されるほど、『創世活性序列(アクティブランク)』――すなわち更新頻度も絶望的に低い。最後の更新は、もう半年前のことだ。
それでも。
それでも、私はこの物語を愛してやまなかった。
派手な魔法も、無双する主人公も、甘いロマンスもない。
滅びゆく世界で、人々が失われた『色』を探して静かに旅をする物語。Kの紡ぐ言葉は美しい詩のようだった。悲しいのに温かくて、寂しいのにどこか救いがある。私のささくれた心を、そっと撫でる毛布のように。
他の探訪者の『祈りの言葉(感想コメント)』も、熱量が高いものばかり。
『K様、あなたの物語は私の人生の光です』
『この世界で生きていたい。更新、いつまでもお待ちしています』
そう。この神殿はあらゆる『神格序列』で圏外なのに、『献身序列(サポートランク)』――熱心な信徒(ファン)からの『聖なる供物(応援チケット)』の奉納量を示すランキングだけが、異常なほど高い。細々と、しかし確かに、Kの世界は深く愛されているのだ。
「Kさん、今日も来ましたよ……」
私は神殿の奥、物語へと繋がるゲートの前で祈るように手を合わせた。ゲートは光を失い、今はただの石の扉と化している。
「……更新、ないかなあ」
期待するだけ無駄なのは分かっている。
Kさんはもう、この『ネオページア』から去ってしまったのかもしれない。新しい物語を紡ぐ『魔力(マナ)』が、尽きてしまったのかもしれない。
それでも毎日ここに来てしまうのは、ほとんど日課のお参りに近かった。
私はため息をついて、自分のステータスウィンドウを開く。ログインボーナスやミニクエストで貯めた、なけなしの『聖なる供物(チケット)』が五枚、キラリと光った。
更新の止まった物語に応援を捧げるのは、無意味かもしれない。でも万が一、Kさんがまだこの世界を見ているなら、「待っている人がいる」と伝えたかった。
「えいっ」
チケットを、光のないゲートに向かって投げる。
フワッ……。
五枚のチケットは淡い光の粒子となり、ゲートに吸い込まれるように消えていった。
いつもと同じ。変化はない。
……そう、思うはずだった。
その、瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
「――え?」
静寂に包まれていた神殿が、地鳴りのような振動に揺れる。
何? 何が起きたの?
驚いて顔を上げると、信じられない光景がそこにあった。
光を失っていた石のゲートが、まばゆい白銀の輝きを放ち始めたのだ。
ゲート表面に刻まれた『灰色のアルカディア』のタイトルが脈動し、見たこともない紋様が浮かび上がる。
【――SYSTEM MESSAGE――】
【創造主『K』により、物語『灰色のアルカディア』が更新されました】
【新たな章への『転移門(ゲート)』が開門します】
「………………う、そ」
声が震えた。
半年。半年に及ぶ沈黙を破って、私の神様が、帰ってきた。
「こ、更新……更新されてる……ッ!!!」
我を忘れて歓喜の声を上げる。視界が滲むほどの涙が次々と溢れ、止まらない。
間違いない。これは夢じゃない!
急いで涙を拭い、光り輝くゲートに駆け寄った。
「行きます、Kさん……!」
光の中へ、飛び込む。
全身が純白の輝きに包まれ、次の瞬間、私は『灰色のアルカディア』の最新話の世界に立っていた。
そこは見覚えのある、物語の中の灰色の荒野。
けれど、何かが違う。
空を見上げると、厚い雲の切れ間から、今まで見たこともない鮮烈な『青色』が覗いている。
そして――。
主人公が探し求めていた伝説の花が、足元で静かに、けれど力強く咲いていた。その花びらの色は、燃えるような『赤色』。
それは、これまでのモノクロームな世界観を根底から覆す、息をのむほど鮮やかな光景だった。
私は、ただ立ち尽くす。
ページをめくるように、Kの紡いだテキストが脳内に直接流れ込んできた。
希望の物語だった。
終末の世界に訪れた、小さな、それでいて決定的な奇跡。
一言一句が私の魂を鷲掴みにし、激しく揺さぶる。
鳥肌が止まらない。これが……Kさんの『言語的破壊力』……!
読み終えた時、私は荒野に膝をついていた。
涙と感動と感謝で、ぐちゃぐちゃだった。
すごい。すごすぎる。
半年待った甲斐があった。いえ、一生待ってでも惜しくない。こんな神回を、奇跡を見せてくれるなんて。
「……伝えなきゃ」
この気持ちを、今すぐ、ありったけ。
意識を集中させ、『祈りの言葉(感想フォーム)』を呼び出す。指が、震える。
『Kさん、おかえりなさい。待っていました。本当に、本当に、待っていました。
今回の物語、言葉になりません。涙が止まりません。
今までで一番、最高の物語でした。
絶望の中で見つけた、あの『色』の美しさは、一生忘れません。
あなたの物語が、退屈な毎日を生きる私の、たった一つの光です。私の世界の、すべてです』
書きながら、また涙が溢れる。
ありったけの想いと祈りを込めて、『奉納』のボタンを押した。
私の祈りが透明なクリスタルに姿を変え、光の軌跡を描きながらKの神殿へと飛んでいく。
「……届いた、かな」
やりきった……。感無量のため息をついた、その時だった。
ギィ……ッ。
背後で、重い扉の開く音。
振り返ると、そこはKの神殿。固く閉ざされていたはずの最も奥の扉――創造主が降臨する『至聖所』のそれが、ゆっくりと開かれていく。
「え……?」
あそこは、トップ創造主でさえ滅多に姿を現さない場所。いわば、神様の玉座だ。
圏外作家のKさんが自ら出てくるなんて……ありえない。絶対に。
混乱する私の前で、扉は完全に開かれ、中から眩いばかりの銀色の光が溢れ出した。
その光の向こうから、すらりとした人影が、静かに歩み出てくる。
逆光で、顔も服装も判然としない。
男の人? それとも女の人?
年齢は? いったい、誰……?
私が呆然と立ち尽くしていると、その人影から、直接心に思念(プライベートメッセージ)が流れ込んできた。
それはこれまで読んできた物語と同じ――静かで優しく、それでいてどこか寂しさを帯びた美しい響き。
『――待たせたね、僕だけの探訪者(トラベラー)』
「…………………………………………え」
僕?
……いま、僕って言った?
僕だけの?
…………え、私のこと?
え? え? え?
待って、状況が理解できない。キャパオーバー。思考回路ショート。
私の平凡な金曜の夜は、私の神様の手によって、人生最大のドキドキとワクワクとハテナマークが乱舞する、とんでもない物語へと、強制的に書き換えられてしまった。
え、えええええええええええええええ!?!?!?