翌日。さっそく松永から連絡があり、その日のうちに新規のクライアントとランチをすることになった。
待ち合わせの場所に向かうと、松永と一緒に現れたのは三十代前半くらいの、いかにもベンチャー企業の社長といった風情の男だった。にこやかに差しだされた名刺を見ると、わりと名の知れた会社で、松永の人脈の広さに舌を巻く。
「はじめまして、
なんでも、松永が新卒採用で就職した先の先輩だったそうだ。二人とも会社を辞めてそれぞれ起業したが、今でも頻繁に連絡を取りあう仲だという。
「松永には、うちでプロジェクトを立ち上げるたびに、いつも応援を何人か派遣してもらうんです。つい先日あなたのことをうかがって、ぜひこのたびの新規プロジェクトに、参加していただけないかと思いましてね」
願ってもない話だが、顧客の個人情報を扱うため、作業の大半は社内で行わなくてはならないらしい。
「あなたは普段、自宅で作業されるそうですね。いかがでしょう、毎日とは言いませんので、弊社まで通っていただけませんか。もちろん、一部の作業は自宅でも行えます。うちの社員の多くは、週の半分はリモートで作業してますし、フレックス制も取り入れてますので、時間の融通もつけやすいですよ」
フレックスが許されても、通勤することに変わりはない。だがセッティングしてくれた松永の手前もあるから、無下に断るのもとまどわれる。
なにより、こんな大口のクライアントの依頼を受ける機会なんて、めったにないチャンスを逃したくはなかった。今回の仕事を引き受けることで、次の仕事に繋がることだって十分あり得る。
「少しだけ、考えさせてもらえませんか」
「もちろんです。いいお返事を期待してますよ」
せっかくだから食事を楽しもうと言われ、松永も『ここのランチは俺持ちだ』と笑った。だが俺は胸が一杯で、とても喉に通りそうになかったので、失礼とは思いつつ早々に退席させてもらった。
平日の昼間の電車にのりこむと、先ほどの話がジワジワと現実味を帯びてきた。車内はそれほど混んでなかったが、スーツ姿のサラリーマンがちらほらいる。きっと毎日、たくさんのクライアント先を訪問してるのだろう。暑い日も寒い日も、外回りは大変だと思うが、誰もがデスクワークが好きなわけではない。実際、前の会社で営業課に配属された同期が、外回りしていた方が性に合うと言ってたのを思い出す。
それに比べて俺は外回りが苦手なくせに、デスクワークにも根を上げるなんて、とてつもなく根性の無い人間に思えてしまう。たしかに偏頭痛に悩まされていたが、世の中には花粉症やアレルギーに苦しむ人たちだっている。埃っぽいオフィスでは発作が起こるからと、年中マスクをつけていた喘息持ちの同僚だっていた。
そんな環境下で、自分は会社を去ることを、皆は会社に残ることを選択した。今振り返っても、当時の自分の選択が正しかったかどうか分からない。いろいろ事情があっても、会社に残り続ける人は多い。だからときどき、無性に自分が情けなく、中途半端な人間に思えてしかたなくなる。
その日の夜。ビルの清掃を終えて帰宅した俺は、先に帰っていた津和に出むかえられた。
飯は食ってきたと嘘をつき、間借りしている部屋に入って鞄を下ろすと、さっそくPCの電源を入れた。そして先に手を洗うため洗面所に向かうと、リビングから出てきた津和と鉢合わせた。
「忙しそうだね、仕事?」
「ああ、うん……まあ」
歯ぎれの悪い俺に対し、津和は特になにも聞いてこなかった。しかし洗面所で手を洗って顔を上げると、鏡越しに扉の前にいた津和と目が合ってドキリとする。
「なにか悩んでいるなら、話しぐらい聞くけど?」
俺の態度や口調から、勘の鋭いこの男はなにかを察したらしい。俺は洗面台に両手をつくと、鏡越しに津和を見つめ返した。
「今日、新規のクライアントに会ったんだ」
津和に話してみたくなった。彼ならなんて言ってくれるか、知りたいと思った。
「でも条件が、向こうの会社に通うってことで……正直迷ってる」
「体調が心配なんだろう? 昔みたいに会社勤めして、偏頭痛がひどくなったりしないかって」
「うん……そんなとこ」
今さら隠す必要もなくて、素直に認めた。
(情けないって言われるかな。あきれられるかもしれない)
津和は同年代なのに、俺よりずっと大人の男で格好良くて、的確なアドバイスをくれる気がした。鏡の中の津和は腕組みして、少し問うような視線を俺に向けている。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「は? 行くってどこに?」
「頭痛外来。どうせ挑戦するなら、万全の準備しておかないとね」
俺が無言でいると、後ろからそっと肩を引きよせられた。
「心配なら、俺も一緒に行こうか? 明日の午前中なら仕事を休めるから、朝食後に車を出すよ」
「……病院なら一人で行く。だから、こんなことのために、仕事を休むなんて言うなよ」
肩を押しのけようとしたのに、かえってギュッと抱きしめられてしまった。そしてクルリと体を反転させられ、向きあう形で顔をのぞきこまれる。
「『こんなこと』じゃない。君にとっては、これまでの生活を一変させる一大事だろう?」
その言葉に、俺は泣きそうになった。そうだ、俺にとっては大ごとだ……きちんと自分の体について、向き合わないといけない。
(だから、自分の足で病院へ行かなきゃ)
俺はそっと津和の手をふりほどくと、まっすぐ津和の顔を見上げた。
「ありがとう。でも一人で行ってくる」
「そうか」
津和は小さくうなずくと、やはりここでもあっさり引いてくれた。むしろ絶対ついてくると言いはられたら、俺は強がりで自分をごまかしながら、反発したかもしれない。でもこうやって、最終的に俺自身の意思を尊重されると、かえって前向きになることができた。
(津和って、すごいな)
彼の、絶妙な力加減で背を押してくれるやさしさに、俺は本当に涙をこぼしそうになってしまい、あわてて顔をそらした。
「……やっぱ腹減ったな。なんか食おうっと……ラーメンでもあったかな」
「それならパンがあるよ。例のホームベーカリーを使って、いくつか焼いてみたんだ」
津和はまるで褒めてもらいたい少年のように、得意げにそう言った。