俺は思いきって、扉へ向かう太田さんに後ろから声をかけた。
「俺、トイレに寄ってからいきます。お二人とも、先にデスクへ戻ってもらっててもいいですか」
太田さんは一瞬足を止め、俺の顔をジッと見つめた。
そして不意に「あ、そうだ」と、急になにか思い出したように口を開いた。
「そういや別件で片瀬さんに話があったんだ……千野さん、打ち合わせの続きは、その後でもいいですか?」
「え? はい、それは、もちろん……」
「じゃ、三十分後に」
太田さんがそう提案した瞬間、俺はハッと気づいた。
(わざわざ三十分、休む時間をくれたんだ)
きっと、俺の体調不良を察したのだろう。
ふと金曜日の夜に、トイレで鉢合わせたときのことを思い出した。
「……ありがとうございます」
俺は、太田さんに耳打ちするようにそっとお礼を告げた。
すると太田さんは、めずらしく一瞬フワリと口元をゆるませた。
ちょうどそのとき、俺たちと入れかわりに、次の会議の出席者たちが部屋に入ってきた。その中には、相川さんの姿もあった。
相川さんは、なんとも言えない表情で、俺と太田さんを見ていた。
なにかに驚いたような、ショックを受けたような……俺はただ、太田さんにお礼を言っただけなのに。
そのときふと、金森さんに言われた言葉が頭をよぎった。
『相川さんの一方通行なんですよ』
相川さんの、太田さんに対する好意は、俺と津和の間にあるものと同じ種類かわからない。
しかし、あの相川さんですら報われない気持ちもあるのだと、あらためて気づかされた。
どんなに完璧そうに見える奴でも、必ずしも報われるとはかぎらない。
そして報われなくても、あきらめきれないこともある。
俺も、津和について誤解をしていた。
彼のように完璧な男は、その気になればなんだって望みどおり手に入れられると、勝手に思いこんでいた。
――そんなわけ、あるかよ。
コンプレックスなんてなさそうな容姿に恵まれ、アメリカ帰りの華やかな経歴を持ち、仕事も出来る男……だから俺みたいに、いちいち悩んだり葛藤したり、そういう負の要素には無縁だろうと思いこんでいた。
(今日は、早めに帰って夕飯作ろうかな……)
トイレでこっそり薬を飲んだ俺は、そっと廊下に出ると非常階段へと向かった。
腰を下ろした階段は、ジーンズ越しにも冷たかったが、掃除がいきとどいていて埃っぽくもなく安心して休める。
ついこの間まで、非常階段の掃除していた俺は、使う立場になってあらためて気づく。
綺麗なのは、誰かが掃除をしているから。こんな当たり前ことをにすら、気づけないときもある。
(津和だって、完璧に見えるけど……これまで生きてきて、苦労話の一つや二つあるはずだ。それに今だって、なにかに悩んだり困ったりしてるかもしれない)
ただ、それを人に見せないだけ。
たとえば俺が夕食を作って『仕事お疲れ様、たまにはゆっくり休めよ』とか言ったらどうだろう。
少しは、あの完璧な男の仮面を外して、リラックスしてくれるかもしれない。
俺はかっこいい津和ばかりじゃなくて、もっと素に近い表情も見てみたいと思った。