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第11話 報われない気持ち

 俺は思いきって、扉へ向かう太田さんに後ろから声をかけた。


「俺、トイレに寄ってからいきます。お二人とも、先にデスクへ戻ってもらっててもいいですか」


 太田さんは一瞬足を止め、俺の顔をジッと見つめた。

 そして不意に「あ、そうだ」と、急になにか思い出したように口を開いた。


「そういや別件で片瀬さんに話があったんだ……千野さん、打ち合わせの続きは、その後でもいいですか?」

「え? はい、それは、もちろん……」

「じゃ、三十分後に」


 太田さんがそう提案した瞬間、俺はハッと気づいた。


(わざわざ三十分、休む時間をくれたんだ)


 きっと、俺の体調不良を察したのだろう。

 ふと金曜日の夜に、トイレで鉢合わせたときのことを思い出した。


「……ありがとうございます」


 俺は、太田さんに耳打ちするようにそっとお礼を告げた。

 すると太田さんは、めずらしく一瞬フワリと口元をゆるませた。


 ちょうどそのとき、俺たちと入れかわりに、次の会議の出席者たちが部屋に入ってきた。その中には、相川さんの姿もあった。

 相川さんは、なんとも言えない表情で、俺と太田さんを見ていた。

 なにかに驚いたような、ショックを受けたような……俺はただ、太田さんにお礼を言っただけなのに。


 そのときふと、金森さんに言われた言葉が頭をよぎった。


『相川さんの一方通行なんですよ』


 相川さんの、太田さんに対する好意は、俺と津和の間にあるものと同じ種類かわからない。

 しかし、あの相川さんですら報われない気持ちもあるのだと、あらためて気づかされた。


 どんなに完璧そうに見える奴でも、必ずしも報われるとはかぎらない。

 そして報われなくても、あきらめきれないこともある。


 俺も、津和について誤解をしていた。

 彼のように完璧な男は、その気になればなんだって望みどおり手に入れられると、勝手に思いこんでいた。


 ――そんなわけ、あるかよ。


 コンプレックスなんてなさそうな容姿に恵まれ、アメリカ帰りの華やかな経歴を持ち、仕事も出来る男……だから俺みたいに、いちいち悩んだり葛藤したり、そういう負の要素には無縁だろうと思いこんでいた。


(今日は、早めに帰って夕飯作ろうかな……)


 トイレでこっそり薬を飲んだ俺は、そっと廊下に出ると非常階段へと向かった。

 腰を下ろした階段は、ジーンズ越しにも冷たかったが、掃除がいきとどいていて埃っぽくもなく安心して休める。


 ついこの間まで、非常階段の掃除していた俺は、使う立場になってあらためて気づく。

 綺麗なのは、誰かが掃除をしているから。こんな当たり前ことをにすら、気づけないときもある。


(津和だって、完璧に見えるけど……これまで生きてきて、苦労話の一つや二つあるはずだ。それに今だって、なにかに悩んだり困ったりしてるかもしれない)


 ただ、それを人に見せないだけ。

 たとえば俺が夕食を作って『仕事お疲れ様、たまにはゆっくり休めよ』とか言ったらどうだろう。

 少しは、あの完璧な男の仮面を外して、リラックスしてくれるかもしれない。


 俺はかっこいい津和ばかりじゃなくて、もっと素に近い表情も見てみたいと思った。

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