その夜、日付も変わろうかという頃のことである。吉保は夢うつつに琴の音を聞いた。最初は空耳かと思ったが、やはり隣の部屋から琴の音が響いてくる。
「一体何者の仕業だ? 夜分に迷惑なことだ」
しかも不思議は、これほどはっきりと聞こえているはずなのに、隣の左馬之助は変わらず熟睡している。まったく聞こえていない様子である。
吉保は寝間着のまま起き上がり、隣の部屋の障子を開けた。するとどうだろう。そこで琴を弾いていたのは、先ほどの由希だった。
吉保は怒りよりも先に、その装束に強い関心をもった。薄い紗の織物の装束を着ており、他に襦袢などは付けていなかった。おかげで半ば胸がすけて見えている。
今時このような姿を恥ずかしくもなく、している者はいない。明らかに平安貴族のいでたちではないか。いかに夏の暑いさかりとはいえ、まるで源氏物語の中から抜け出してきたようである。
「何用でございますか? このような夜分に」
「それはこちらの申すことじゃ。そなた笛だけでなく、琴の腕も中々じゃのう」
「ほほほ、つまり私の琴の音が耳障りだと?」
と由希はすました顔でいう。
「何故わしの着る物をうばった。いかにおなごとて、返答次第では許さんぞ!」
「軽い戯れにござりまする」
「戯れですまぬ時もあるぞ。もしそなたが同じことを客人に繰り返しているなら、世の中には、おなごとて斬る者がいるやもしれぬ」
と吉保は刀の鍔に手をかけた。
「私を斬ると? かようなことはできぬと、先ほど和尚が申したはず」
「和尚は、そなたがすでにこの世の者ではないなどと、空言を申しおった」
と吉保は、信じがたいことをいった。
「絵空事ではございませぬ。この世のものは全て不確か、今こなたの前にいる私もまた、不確かなものでありまする。この琴も、そしてそなた自身もまた不確か、世に誠などありませぬ。嘘だと思われるなら背後を見てみるがよい。それが世の真じゃ」
吉保の背後には鏡があった。そして、そこにうつし出された光景に、さしもの吉保も顔面蒼白となった。なんと鏡には、由希の姿が存在しなかったのである。
「夜分にすまぬことをした。わしの方こそ無礼を許せ」
まるで吉保自身が幽霊のような顔をして、自らの部屋に戻り、即座に布団をかぶってぶるぶると震えた。恐怖のため、隣にいたはずの左馬之助が、消えたことさえ気付かなかった。
その夜、吉保はなかなか眠れなかった。そしてそこに、妖しい影が迫ろうとしていた。