柳沢吉保は、遠祖をたどれば甲州武田家の旧臣にゆきつくという。武田家滅亡後、武田家旧臣の多くが徳川家につかえることとなる。吉保の祖父もまた、そのうちの一人だった。
吉保自身は十八で家を継ぐ、そのスタートラインは綱吉の小姓であった。人生の転機は、なんといってもそれより五年後、二十三の時に綱吉が五代将軍になったことだった。もちろん吉保は自動的に幕臣となる。最初は御小納戸役から、有能であったがゆえに加増につぐ加増、二十八歳で従五位出羽守を拝命する。そして三十三にして、側用人まで出世することとなるのである。
さてその吉保はわずかな従者と共に、東海道をひたすら西へ西へと旅している。東海道の西の起点が三条大橋である。
さすが京は千年の都だけあり、橋を行きかう人もまた雑多だった。武士もおれば町人もいる。公家衆もおれば僧侶、さらには遊女らしき者たちもいた。
鴨川を渡ればそこはすでに洛中である。次に起点となるのが四条橋だった。周辺には商家や茶屋が立ち並び、また女郎屋もあった。かと思えば橋のたもとには、生活に困窮した浮浪者の姿もある。
ちなみに、この柳沢吉保という人物は、後世典型的な悪人として語られることが多い。しかし一方で王朝文化に通じており、和歌や漢詩にも秀でた文化人でもあった。その吉保に、初めて見る京は実に刺激的であった。
吉保の京でのつとめは、桂昌院と綱吉の命により、寺社仏閣の修復事業の様子を監督することである。そのため最初に向かったのが、天台宗の山岳寺院で、千手観音を本尊とする善峯寺だった。
ここは平安時代に建立され、歴代天皇の尊崇もあつかったが、応仁の乱以後は荒れ果てていた。桂昌院の命により、幕府が金銀をおしむことなく、寺社仏閣の再建に乗り出したのが去年のことである。
現場では棟梁・人足頭・鍛治などの諸職人がきびきびと動いていた。工事の責任者とも様々なことを話しあい、その日は幕府の手配した小さな寺に宿泊することとなった。
寺の名は円広寺といい、規模として決して大きくはない。吉保が見たところ小坊主が五、六人ほどいる。そのうち、かなり背丈の大きい十九ほどの小坊主の案内で、吉保とその従者は仏間に通された。
やがて寺の和尚が姿をあらわす。和尚は齢七十ほどであろうか。
「おお! 貴方様が今をときめく柳沢様でござりまするな。お待ちしておりました。噂はかねがね聞き及んでおりまする。将軍綱吉公のおぼえめでたく、小姓より加増につぐ加増で幕府側用人にまでのぼりつめたと、京でも昨今はよく噂になりまする」
と和尚は世辞をいう。
間もなく茶がはこばれてきて、菓子もだされた。そして、他愛もない世間話しが続いた。
「上様、そして桂昌院様は、まこと慈悲深い方であられる。戦乱の世においては多くの寺社が破壊を免れなかったが、それを惜しみなく金銀を使い修復し、世に新たな秩序をうみだそうとなされている。まこと上様は、神仏が世につかわされた方にちがいない」
と吉保は、少しおおげさなことをいった。
「神仏は気高く、荘厳で、そして清らかなものであります。なれど人が生きる世は、決して清らかなだけではござりませぬ……」
「何が申したい?」
吉保は怪訝な顔をした。
「その御年での上様のお取立て、幕府の中にはさぞかし貴殿を妬む者、反感をもつ者もおりましょう」
と和尚は、ため息をつきながらいった。
「何、わしは人の妬みなど恐れてはおらぬ。かって武田信玄公は、父を追放し家督を継いだ。義理の弟を殺め、その娘を奪い妾とした。義理の娘の実家を攻め、己の領土としたこともあった。人はそれを、傍若無人のふるまいとさけずむやもしれぬ。なれどわしは、かような生き様も男としてありだと思う。男である以上かように生きてみたいとさえ思う」
と吉保は、眼光を稲妻のように鋭くして言いはなった。
しばし世間話が続いたが、異変は吉保が汁物に手をだした時におこった。突如として、吉保が口にしたものを吐き出したのである。
「これはどうしたことだ! 喉が、喉がやけるようじゃ!」
「殿! いかがいたしました!」
と吉保の側近中の側近、左馬之助が必死に吉保の背中をさする。和尚も驚き真っ青になる中、かすかに障子のむこうから笑い声がする。それは女の笑い声のようだった。
「己! あ奴め!」
和尚が障子を開くと、そこに恐らく十九ほどの若い女がいた。
「こたびという、こたびこそは許さん!」
和尚は、女を追いかけて姿を消した。ようやく戻ってくる頃には、吉保は平素の様にもどっていた。
「申し訳ありませぬ。取り逃がしました。あれはこの寺でその身を預かっている、由希という他に身よりなき女にございます。昨今も来客が連れてきた犬に毒をもるなど、何度申しても悪ふざけがおさまりませぬ」
と和尚は申し訳なさげにいう。
「いや、しょせんは子供の悪ふざけであろう。和尚があやまるほどのことではない」
と吉保は笑ってすませたが、由希の悪ふざけはこれで終わりではなかった。
その夜遅く、吉保は和尚の案内で近くの温泉につかる。ちょうど満月の晩だった。
やがて風が冷たくなる頃、吉保は湯からあがろうとした。そこで信じられないことがおきる。近くに置いてあったはずの着替えがなかったのである。吉保が呆然としていると、背後で笑い声がした。見ると先ほどの由希だった。
「己! 無礼にもほどがある!」
吉保は追いかけようとしたが、全裸ではそれもできない。
いかに暑いさかりとはいえ、やはり全裸では寒い。凍える吉保の耳に、間もなく笛の音が聞こえてきた。
「これは……? もしや先ほどの女が吹いておるのか?」
どこが哀しげで、それでいて人をひきつける不思議な音色だった。思わず吉保は、しばし聞きいった。だがすぐ正気に戻った。
かの武田信玄も、野田城攻めの最中、敵の陣から聞こえてくる笛の音にみせられたという。そして城外へ出たところを狙撃され、その傷が命取りになって死去したという風説がある。
「いかん身をしきしめねば」
と吉保は青ざめた顔ながら、すぐに現実に帰った。
結局、明らかに主君の帰りが遅いことに気付いた左馬之助が出現するまで、吉保はそこから動くことができなかった。
「一体これは何事でござるか! こたびは子供のいたずらではすまされませぬぞ!」
「左馬之助、もうよい」
と吉保は止めるも、なおも左馬之助は和尚を厳しく問いつめた。
「誠に申しわけなきこと、お詫びの言葉もござりませぬ。実を申しますると、由希には深い事情がありまして……」
と和尚が語って聞かせたことは、吉保にとり、にわかに信じられないことであった。