仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜
多時照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子色不異空空不異色色即
是空空即是色……
時は元禄、徳川幕府の五代将軍綱吉の世である。将軍の母たる桂昌院は、朝の日課となっている仏壇を前にしての般若心経の朗読を終える。そして、ため息をついた。
桂昌院、元の名を玉という。ある意味日本史上、もっとも出世した女性といえるだろう。
出自は市井の八百屋の娘でしかない。三代将軍家光の側室となったお万の方の一使用人として、江戸城大奥に上がったのは十三の時だった。その後、家光の目に止まり自らも側室となる。そして綱吉をもうける。
綱吉が五代将軍となると同時に、当然桂昌院は、将軍生母として江戸城大奥の事実上の支配者になる。ある種の和製シンデレラであり、玉という元の名から「玉の輿」という言葉ができたともいう。
実に信仰心の強い女性で、仏教に傾倒し、毎日仏壇の前で祈りをおろそかにしたことがない。しかし幾度般若心経を唱えたところで、彼女にはわからないことがあった。
「空とは何か?」
桂昌院は、年齢と共に苦悩が深まりつつあった。
「己に信心が足りないから、そして徳がたりぬゆえ、悟りきれぬのじゃ」
と己をせめた。
桂昌院は引出しから琴を取り出し、演奏をはじめた。しかし間もなく弦が切れてしまう。
「これではゆかぬ……なんとかせねば」
かすかに憂いに満ちた表情をうかべた。
まもなく将軍綱吉の寵臣で柳沢吉保が、将軍御休息の間へと呼ばれた。御休息の間は上段、下段それぞれ三十五畳の部屋である。中庭をはさみ御座の間とむかいあっている。
「吉保大事ないか?」
と綱吉は、少し甲高い声でいった。綱吉はこの時すでに五十をこしていたが、当時の成人男子の平均身長からしても、かなり背丈は低かったといわれる。
「昨今、暑さのあまり少し体調をくずしましたが、たいした事ではございませぬ。して、今日はいかなる用向きで?
と、吉保は平伏したままで言う。綱吉は元舘林藩主で、吉保はその頃から綱吉の小姓として仕えていた。綱吉が五代将軍となり、当然のように吉保もまた幕臣となった。御小納戸役からはじまり、今は綱吉の側用人、文字どおり側近くにつかえていた。
「頼みとは他でもない。そなたに京に赴いてほしいのじゃ」
「京にでございますか?」
「実はのう、余と母上でこの国の美しき姿とりもどすため、戦乱で荒れはてた寺院の修復を手がけてきた。なれど昨今都では、突貫工事をおこない、工事負担金を己の懐にしまいこむ者がおるそうじゃ。またそれを見張る者たちの中にも、工事にたずさわる者から賄賂を取り、見て見ぬふりをする者までいるという。
そこでそなたが行って事実を確認して、余に報告してほしいのじゃ。もし明らかに不正を行っている者おれば、厳罰にしてもかまわぬ」
そこまでいうと綱吉は、かすかに表情をやわらげた。
「少しゆるりとしてくるがよい。京のおなごは、江戸とはまた違った色気があるぞ」
と半ば冗談でいう。
主君の命とあらば仕方ない。吉保は旅支度をととのえ、わずかな供の者と一緒に炎暑の中都を目指す。しかし、ようやくたどりついた都はさらに暑かった。そしてこの旅で吉保は、生涯忘れられぬ、思わぬ出会いをはたすこととなるのであった。