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夢の中の女

「吉保様、吉保様!」

  遠くで己を呼ぶ声がする。それは次第、次第に近づいてくる。

吉保が薄目をあけると、目の前に左馬之助の顔があった。

「よかった、目を覚まされましたか」

 と安堵した様子をうかべたのは、医師らしき男だった。他に小坊主らしい者が数名いる。

「わしは一体? 何がどうなっておるのじゃ」

「殿は三日前、突如として廊下で倒れ、意識を失っておられたのです」

「なんと! わしとしたことが不覚もいいとこだな。暑さに長旅の疲労が重なったか」

 吉保は力なくいった。

「医師の申すには、とりたてて悪いところもなく、やはりお疲れのご様子」

「そういえば由希、由希はどうなった?」

「何者でございまするか?」

「わしの着る物をことごとく持ち去った、あの小賢しいおなごのことよ!」

 と吉保は、少しいらだった様子でいう。

「はて? 何のことか見当もつきませぬが?」

 左馬之助の様子から、吉保は全てを察した。

「そうか全ては夢であったのか……」

 その時ふと、世に存在するはずもない由希の言葉が、吉保の脳裏にありありと蘇った。

「この世の事は皆不確かなのであります。私が生きていた世も不確かなれば、今の世も不確か、今宵の月でさえ誠とは断言できませぬ」


 それから十日ほど、吉保は京都各地の寺社を調査し、そして江戸への帰路につく。

「道中、無事を祈っておりまする」

 去り際、平伏して寺の和尚が挨拶する。それに対し吉保は近くまで寄っていって、小声で何事かささやいた。

「もしやその方、由希というおなごに心あたりがあるか?」

「さて? それは何者でございましょうか?」

「いや、知らぬならよい。やはり全ては夢であったのだな」

 吉保はつとめて冷静にいう。しかし、この時、明らかに和尚の顔色が変わった。それを吉保は決して見逃さなかった。

「やはり、これは何かあるな」

 吉保は、不吉な何かを感じつつ寺を後にした。



 吉保と左馬之助それに従者数名は、東海道を東へ東へと江戸への帰路を急ぐ。途中疲れたので茶店で一服した。

「殿、先ほどからいかがなされた?」

 何やら物思いにふけっている様子の吉保に、左馬之助が声をかけた。

「いや何、ふと夢の中のおなごのことを思い出しておったのよ」

「夢の中のおなご?」

 吉保はまるで、懐かしい友の思い出話でもするかのように語りだした。

「わしは夢の中で不思議な音色に導かれ、簾ごしに琴を奏でる女を見たのだ。なにやら十二単に身をつつみ、まるで源氏物語の中からでも抜け出してきたようだった。

不覚にもわしは欲情にかられ、その女を押し倒した。そして十二単をはぎとり、その者と激しく情事をかわしたのじゃ。

 ところが逢瀬の間に、いつの間にやら女の化粧がはげ落ちておった。そして思わずのけぞった。女はこの団子のような鼻に浅黒い肌、眼光だけが鋭く、髪はふけだらけじゃったわい。わしは全裸のまま逃げ出し、そこで目が覚めたというわけよ」

「それはまた、とんだ災難でございましたなあ」

 と左馬之助は笑い、吉保も笑った。

「おや?」

 この時、吉保はおかしな事に気づいた。卓の上に己と左馬之助の他に、いま一つ団子の皿が置いてあったのである。

「これは? 恐らく店主が間違えたものと思われますな」 

 店主に問うと、意外な答えがかえってきた。

「そんなはずはありませぬ。確かに若い女の方から、皿を三つ用意するよう頼まれましたぞ」

「若い女じゃと……? 左馬之助そなたが頼んだのではなかったのか?」

「いや、それがしはまた殿が頼んだものとばかり……?」

 両者共に、しばし狐にでも化かされたような顔になった。しかしこれはまだ不吉の前ぶれでしかなかった。



 およそ二十日ほどの旅の後、吉保は江戸への帰途につく。吉保はこの頃、芝に屋敷をかまえていた。ここから徳川の菩提寺である増上寺まで歩いてゆくこともできる。戻ってみると、屋敷の下女たちの様子が騒がしい。

「何かあったのか?」

「恐れながら、定子様にあらせられましては、姫君を出産あそばしました。しかし残念なことに流産で……」

 と正室定子付きの老女が沈痛な顔でいった。

「子を流したと申すか! それで定子はどうじゃ」

「出産の疲労も重なり、寝こんでおりますが、医師によれば命に別状はないとのこと」

 吉保は旅の疲れを癒すまもなく、定子をみまう。

 定子は吉保より二つ年下である。やはり武田遺臣である旗本の曽雌定盛の次女であったと伝えられる。吉保十八、定子が十六の時に結婚した。しかし、なかなか子宝には恵まれなかった。

「申しわけありませぬ。大事な子宝を……」

 と定子は力なくいう。

「体を大事にするがよい。子はいずれまた授かる日がくる。なれどそなたを失いたくはない」

 と吉保は、つとめて冷静にいう。

「流れた子は姫でした。しかし鼻は……そう、まるで団子のようでありました。そして浅黒い肌」

「なんじゃと! そなた何を申しておるのじゃ」

 吉保の背に、瞬時にして冷たいものが走った。

「ほほほ、私はそれほど醜い女でありましたか?」

 吉保は顔面蒼白になった。

「そなた……定子ではないな! どこで、どこで聞いておった」

「申したはずです。私は常にそなたの側近くにおると」

「汝、我が妻に取り憑いたか! 妻を、妻をどうするつもりじゃ! そなたが我が子をも殺めたか!」

 と吉保は震える声でいった。

「子が流れたのは私の責任ではありませぬ。この女の体が、弱かったからにございます。この者をどうするつもりもありませぬ。じきに離れまする。ただし、これだけは申しておきます。私のことを他の誰かにもらした時は、この者をはじめとして、そなたの周囲の者全てに災いが及びまするぞ。覚悟するがよろしい」

 そこまでいうと、定子はぐったりとなった。

 まもなく定子は正気に戻った。由希のことは何も覚えていないという。その代わり、何やら不吉な夢を見たというのである。








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