「契約通り、離縁していただけますでしょうか」
問いかけるような台詞だが、言葉尻は断定の響きを伴っていた。どちらにせよ自分に拒否権などないのだ最初から、とアルノーは内心で溜息を吐く。
しかし。
「もう少し日を改めてからでも良いのではないでしょうか? 義父様が亡くなってから半年も経っておりませんが」
「関係ありません。契約は契約です」
きっぱりと答えたアリス。実父が亡くなったのにそれはないのでは? とアルノーは言いたかったが、いつも通り黙っておく。というか、アリス……妻に己の意見が通ったことなど今までに一度もないのだから、議論するだけ無駄だ。めんどくさい。
「サインを」
執務机の上に、書類が差し出された。既にアリスのサインがしてあるそれに、アルノーもまたペンを走らせる。
「……はい」
書類を差し出し返せば、アリスの目は満足そうに細められた。
「では、これは私が提出いたしますので」
吊り上がる口元は、あくまでもこちらを見下している。折角整った顔立ちをしていてもこれでは台無しだとアルノーは思ったが、やはり口には出さず、代わりに「よろしくお願いします」とだけ答えた。
そして。
「ここを出るにあたって一週間の期間を頂けますでしょうか? 引継ぎ事項等を纏めておかないと、『後任』の方がお困りになられるでしょうし」
『後任』と聞いた瞬間、アリスの眉がぴくりと動いたが、ふん、と改めて口角を吊り上げた。
「ええ、そのくらいは差し上げてもよろしくてよ? ただし、一日でも長く居座るつもりなら、強制的に出て行っていただきます」
「分かりました。手早く済ませますので」
そう答えて頭を下げると、アリスはつん、とワザとらしく横を向いてみせてから、執務室を後にしていった。
ドアの音が鳴り終わるのを見計らって頭を上げれば、傍に控えていた執事のイアンが気遣わしげに声をかけてくる。
「旦那様」
「もう私は旦那様ではないよ、イアン殿」
今の自分は上手く笑えているだろうか、と思ったがそうではなかったようで、イアンは沈痛に眉を潜めた。
「ですが、だ……アルノー様はこれでよろしいのですか? 伯爵位はアリス様にありますが、実際に領地を運営なされていたのは」
「もういいよ、私の働きが誰か一人にでも伝わっていれば充分だ」
「私一人だけではありません。他の使用人も、領地に住まう民も本当は……!」
今にも泣きだしそうにそう訴えるイアンの様子に、嘘ではないのだと分かった。アルノーは胸がじわり、と熱くなったのを、ぐっと堪える。
「ありがとう。その言葉で、この2年間は無意味では無かったと分かったよ。さ、引継ぎ書を作らないといけないから、手伝ってくれるかい?」
「……はい」
目尻を擦りながらしっかりと頷いてくれたイアンに、アルノーは「頼もしいね」と微笑んだ。
「貴方を愛することはありません」
初夜。
絶対零度を思わせる視線と声で言われた言葉だ。
どこかで読んだ物語の冒頭の台詞と一緒だな、と妙に冷えた頭の隅で思ったことを覚えている。
それはともかく。
「……そういうことは口に出さない方がいいのではないでしょうか?」
と、答えると、ギロッと睨まれた。結婚式の時の柔和表情が嘘のようだ、女って怖い、とアルノーが思っていると、アリスは口を開いた。
「立場を弁えてくださいな。伯爵位があるのはあくまでも私。貴方はお飾りでしかないの、分かって?」
この結婚自体が政略によるものだし、伯爵位がアリスにあることも充分承知の上でアルノーはこのドルレアン家に婿入りしている。ただ、この婿入りの条件というのは。
(ドルレアン家の借金を肩代わりする、ということなんだが)
書類にきちんと明記してある筈なのに読んでいないのか? と疑ったがまさかな、と思い直す。
(それに私の実家も伯爵位を賜っており、後継ぎは兄がいるからという理由で婿入りを……)
だからアリスが何故こうも高圧的な態度を取ることが出来るのかが分からない。そもそもの借金の理由だって、アリス自身と先代の伯爵である彼女の母親の浪費によるものだ。
(感謝しろ、みたいな態度でいられるのが嫌だから、最初にマウント取って優位に立とうってことか?)
顔合わせの時からこの直前に至るまで愁傷だったのは演技か、やっぱり女って怖い、と半ばアルノーが現実逃避をしかけていると。
「とにかく!」
ぴしゃり、とアリスに言われ、アルノーは反射的にびくりと肩を震わせた。その反応に気を良くしたのかアリスは、口角を吊り上げた。
「私が貴方を愛することはありません。そう……2年間、体裁を整えるための『白い結婚』をいたしましょうか」
「……分かりました」
ワザと力のない声で答えれば、アリスはますます気を良くしたようで笑みを深める。
「その間、私の行動を制約するような真似は慎んでいただきます」
「分かりました。……一応言っておきますが、借金はゼロになっただけですよ」
暗に資産を増やさないとお前好き勝手できないよ、と言ってやれば、アリスはぐっ、と言葉に詰まったが、無駄なところに頭は回るようで、すぐに言い返した。
「では、ドルレアン家のためになるような行動をなさってください。怠慢は許しませんわよ」
よし、言質は取った! とアルノーは内心で思いながら、深々と頭を下げる。
「分かりました」
(書類上だけの関係だと、こうもあっさりと終わるものだな)
約束通り一週間後、アルノーはドルレアン家を後にした。イアンの言葉に嘘はなかったようで、馬車に乗る時には屋敷中の使用人たちが見送りに来てくれた。後はよろしく頼む、と代表してイアンに告げれば、彼は涙を溜めた目で何度も何度も頷いてくれた。「お元気でいてくださいね」「寂しくなります」と他の使用人たちに口々に言われて、アルノーも込み上げる何かを堪えるのに必死だった。
2年間、彼ら彼女らには本当に世話になった。領地経営のノウハウは叩きこまれてはいたものの、他人の領地となると話は別で。右も左も分からない自分を支えてくれたのは、イアンを筆頭とした使用人たちと、義理の父親であるダレンだった。
『ドルレアン家がここまで持ち直したのは、君が来てくれたからだ。本当にありがとう、そして申し訳ない』
そう言って深々と彼は頭を下げたのだ。そう、アリスとアルノーの婚約を纏めたのは、彼だ。
アルノーの人生を縛り、娘の不誠実さを嘆いた彼は、自分の持てる限りの力を使って何かと便宜を図ってくれた。使用人たちや領民からの覚えが良くなったのは、ひとえに彼のおかげだ。
だからこそ領地経営、改革がやりやすくなり、資産を増やすことができた。
(亡くなられた時は本当に悲しかったし、ショックだった……しばらく何も手につかなかったな)
他人のアルノーでさえこうだったのに、アリスときたら葬儀の最中はしおらしい態度でいたものの翌日にはいつもの調子に戻っていた。切り替えが早いのではなく、彼女は実母と自分以外は、父親といえど見下して良い対象だったらしい。どうも母親には甘やかされていたようだったから、諫めてくる父親は邪魔でしかなかったのだろう。
(ダレン様が心安らぐ時は、あったのだろうか)
今更そんなことを思っても仕方ないけれど。
馬車が静かに停まった。降りると、懐かしい実家が改めて目に映る。
庭には新しい花が増えたようだ。義姉の趣味だろうか。
「……ただいま戻りました」
「おかえ……アルノー、どうしたんだ!?」
パトリスが慌てて駆け寄って来た。
「こんなに痩せて……ちゃんと食べているのか?」
「顔色も悪いわ、すぐに医者の手配を!」
義姉であるイザリンが、きびきびと使用人に指示を飛ばす。
「そんな、医者なんて大げさで、す……」
断ろうと口を開こうとしたアルノーだったが、言葉がつかえた。頬を熱いものが伝うのを感じる。
「あ……」
そう実感した途端、もう駄目だった。
ダレンとイアンがいてくれたとはいえ、妻であるアリスに存在さえ無視された2年間。支えにしていたダレンがいなくなって間もなく、容赦なく突きつけられた離婚。
そうして大切に育てて来たもの(領地)が奪われた、今。
「あ、あに、うえ、わ、わたし、わたし、は……」
己の心がすり減っていたことに、気付いてしまうなんて。
「……今はゆっくり休みなさい」
「ずっと此処にいていいのよ」
兄夫妻はそう言って、優しく頭を撫でてくれた。
幼い頃そうされたことが嬉しかったのを思い出して、アルノーの瞳からはまた新しい涙が零れた。
「な、なんですの、これは!?」
「何、とはおかしなことを仰いますね。アリス伯爵、貴方が今日中に目を通していただく書類です」
執務室の机に山積みにされた書類に絶句するアリスに、イアンは容赦なく告げた。
「詳細は引継ぎ書をご確認ください。それに則って処理していただければ、しばらくの間は大丈夫かと。質問は私にしてくだされば、何でもお答えします」
「ふ、ふざけないでくださいまし、なぜ私がこのようなことを!?」
「またおかしなことを」
物凄い形相で睨まれるも、それを軽く流してイアンは答える。
「そもそもドルレアン家領主は、貴方なのですよ? 処理を貴方以外どなたがやると言うのでしょうか?」
「あ、貴方がやればいいでしょう?」
「何故私が? 一介の執事である私に、領主権限など持ち合わせておりません。なので出来ることといえば、領主である貴方の補助業務です」
「ぐっ……」
悔しそうに唇を噛みしめるアリス。それに追い打ちをかけるように、イアンは言葉を続けた。
「旦那様……いえ、元旦那様は、これだけの量を一日で片づけていらっしゃいましたが」
出来ないんですか? とトドメとばかりに目線で言ってやれば、アリスはヤケになったかのようにペンを取り上げた。
「……分かったわ。あんなのに出来て私が出来ない筈がないもの」
『あんなの』ねぇ、とイアンは完全に冷めた目でアリスを見やる。
ゼロの状態から他人の領地をここまで立て直した彼の優秀さに、結局最後まで気付こうとしないとは全く愚かなことだ、と。
これの父親であるダレンの義理で仕えてきたが、本人がこの世にいない以上もう潮時だろう。それは他の使用人、そして領民たちも一緒だ。
「全て終わるまで外出は禁止します。食事は運ばせますのでご心配なく」
「なんですって!」
「怒鳴っている暇がありましたら、早く目を通してください」
そう冷たくアリスに告げながら、イアンは胸元に手を触れさせた。そこに入っているのは、アルノーが書いてくれた『紹介状』。
もちろん彼は知っていた。イアン達使用人が、とっくにドルレアン家に見切りを付けていたことを。
だが領民たちに罪はない。
(後はよろしく頼む……心得ました、アルノー様)
イアンはそこでぐっ、と拳を作り、少しだけ息を吐いた。