くそっ! 階段なんて使わなきゃよかった!
焦りながら俺は地面に散らばる冊子を拾い集める。A4のコピー用紙を数十枚重ね、半分に折ったそれは、夕立に湿った地面のおかげで印刷された中身が見えるほど濡れている。
「本当に申し訳ない!」
ついさっき激突した相手に声をかけながら、俺は冊子を手に立ち上がる。
ビルの3階で開催された古本市は、雨のせいもあっていつになく盛り上がっていた。行く人、戻る人でエレベーターもエスカレーターも混んでいる。
だから、と、いつもは使わない階段でビルを降りていた。
―― そこで、人にぶつかるなんて。しかも2人同時!
焦りながら頭を下げると、冷静そうな落ち着いた声が降ってくる。
「いえ、気にしないでください」
そんなことを言われても。弁償の方法がない可能性だってあるのに。
「本当に気にしないでよ。それより、もしかして
今度は優し気な、柔らかい声色の声だ。
「え? なんで俺の名前……」
募る申し訳なさに俺は膝を地面についたまま、ぶつかってしまった2人を見上げる。
見覚えのある顔だった。
「ひょっとして、市岡さんと蓮実先輩?」
俺が通う高校で、2人を知らない者はいない。
1人は三郎と同じくらいの背丈の少女。真っすぐに伸ばした黒髪はしなやかで、細身の彼女に良く似合う。
チアリーダー部のエースで、俺と同じクラスの2年生、市岡ミツキだ。
もう1人は、三郎より頭1つは低い小柄な少女。ゆるやかなウェーブがついた茶髪が、顔の周りを彩っている。顔立ちこそ幼いが、長いまつ毛が縁取る黒目勝ちの目はアイシャドウで彩られ、大人っぽくもみえた。
大人に一歩も引かない凛とした3年生の生徒会長、蓮実スミレ先輩だ。
美少女すぎて、見間違いようがない。
「なんでここにいるの?」
思わずそう言うと、彼女たちは目を見開き、動きを止める。
心臓が一気に早鐘を打ち、冷や汗が噴き出すのを感じていた。
(ひょっとしてもしなくても、この俺が汚した冊子……2人のものだよな?)
どうするんだよ。どうしようもないけれど。
「す、すみません、本当に弁償しますから! なんでもしますから許してください!」
俺は必死にそう叫んだが、蓮実先輩は硬い表情のまま。市岡さんは動揺した目で、冊子を受け取る。そして、何も言わずにその場を去っていった。
(終わった……)
呆然と立ち尽くすほか、俺にはできなかった。
翌日。俺の頭の中は良い出来事と悪い出来事の2つで、授業が終わり部活が始まる時間になってもいっぱいのままだ。
良いことは、昨日の古本市。俺は産まれて初めて、自分の作品を人に見せるという体験をしていた。
それは会場で配布されたフリーペーパーのデザインだ。
「このフリーペーパー! 評判いいよ。三郎くんにお願いしてよかった」
スタッフの権藤さんに言われて、めちゃくちゃ嬉しかったのに。そのあとすぐに起きたのが、あの階段での激突事件だ。
2人の何とも言えない表情が脳裏をよぎる。動揺する市岡さんと俺を冷静に見つめる蓮実先輩……。
(あぁあああ……)
頭の中が呆然を通り越して弾け飛んでいる。このまま脳の中身をジュースにしたい。
「大岡くん」
ジュースを絞って飲んだら、多少マトモな話が出てこないだろうか。
「大岡くんったら」
どんっ。
机が跳ねる。眼前に落ちてきた黒髪から、甘酸っぱいグレープフルーツの香りがした。
「え……」
顔をあげると市岡さんが俺を見つめている。教室内はついさっきまでの騒がしさを保ちつつ、こっちを観察しているのが肌で分かる。
俺は普段、そこまで目立つ人間ではない。どちらかといえば本ばっかり読んでて、浮いている自覚がある。
そこに市岡さんが声をかけてきた。
「蓮実先輩が呼んでる。ちょっとついてきて」
「は、はい」
本当に終わった。俺の人生はここで終わった。いや終わっていないけど終わった気がしてならない。あの冊子が何だったのかはいまだに分からないが、2人にとって『無言で立ち去る』という選択肢を選ばずにはいられないものだったのだ。
俺ごときがはたして、弁償できるものなんだろうか。
少し怯えつつも市岡さんの後をついて廊下に出る。
「あの、これから」
「第2資料室、知ってるでしょ?」
「は、はい……え?」
第2資料室は、3年生だけが使う校舎の最上階にある部屋だ。その名の通り資料室で、高校の図書館に納まりきらなかった本が並んでいる。
俺はよくここにきて、昔の書体や表紙の文字の配置を見ていた。
階段を上がって到着した資料室には、蓮実先輩がまちかまえていた。
「こんにちは。大岡三郎くん」
「こ、こんにちは。あの」
「昨日
蓮実先輩が無言で差し出したのは、昨日俺が汚してしまった冊子だった。改めて見ると、表紙には可愛らしいイラストが描かれており、手書きで『夢見る乙女の恋物語』とタイトルが記されている。
そして裏表紙には『創作同好会 スミレ&ミツキ』の文字が。
「え、創作同好会……?」
俺が呆然と呟くと、市岡さんが静かに口を開いた。
「私たちはね、将来自分たちの本を出したいと思って、こっそり活動しているの」
市岡さんの声は、普段の完璧な笑顔からは想像できないほど、震えているように聞こえた。蓮実先輩が頷く。
「私は恋愛漫画を描いてる。誰にも見てもらえなくても、いつか対等な愛を描けるようになりたい。ミツキは詩作が得意でね、一緒に活動してきたんだ」
彼女たちの言葉に、俺は驚きを隠せない。生徒会長として、チアリーダー部のエースとして、完璧な姿しか見せてこなかった2人に、こんな夢があったなんて。
「それで、どうして俺を……?」
俺の問いに、蓮実先輩が真っ直ぐな瞳で俺を見据える。その瞳には、凛とした生徒会長の顔とは違う、真剣な光が宿っていた。
「三郎くん、あなたは装丁にすごく情熱を持っているって、古本市のスタッフさんから聞いた。私たちの本を、もっと多くの人に読んでもらうために、何が必要なのか考えていた……君なら、私たちの本を輝かせてくれる」
蓮実先輩が俺に一歩近づき、優しい笑顔を浮かべる。その笑顔は、どこか遠慮がちで、一瞬ドキッとした。
次の瞬間。
「そして君が汚した冊子なんだがね。我々がやっと完成させた1冊なんだ。この世で1冊だけだ。分かるだろう? 分かるね? 君は自分が何をしたのか、これ以上なく分かっているはずだ。言っただろう? なんでもする……と」
あまりにも悪い笑みを浮かべた蓮実先輩の体が、俺にしなだれかかってくる。
どう見ても小学生が高校生の膝上に乗っているとしか言いようのない姿勢で、ドキドキよりハラハラが勝る。
「あの、先輩」
「返事は?」
何か言葉を続けるより早く。俺は自分の明日のために頷いた。
「はい! なんでも、協力します」