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第14話:あんたに東雲家の財産を分ける権利なんてないよ 

一回目、レストランで東雲琢磨は梨々がピアノを弾けることを知った――彼は結婚して二年になる妻のことを、何も知らなかったと気づいた。

次は、東雲本家で彼は梨々と寝たい、ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でも…


橘真希に関して――自分の生活を壊した女に対して、梨々は正面からぶつかったことがほとんどない。

一度目は梨々の前で彼女が「奥様」と呼ばれ、

二度目は東雲琢磨のベッドの上で、彼の下着を片づけながら黒いストッキングとブラジャーを取り出していた。


それらの出来事と比べれば、面接に何度も落ちたくらい、どうということはない。

たとえ離婚で胸が張り裂けそうになっても――この道を進むしかない。

二年の愛情が、簡単に元に戻るはずがない。長引く苦しみより、いっそ一度の痛みで済ませたほうがいい。

頭では理解している。けれど、どうしても気持ちはついてこない。

橘真希のように、完璧な化粧をして堂々と離婚手続きをすることなんて、自分にはできそうもなかった。

一睡もせず、翌朝は簡単なメイクでやつれた顔を隠し、身分証を持って家を出た。


役所の前に二時間早く到着したとき、まだ窓口は開いていなかった。

門の前では、若いカップルが笑顔を交わしながら寄り添っていて、幸せそうな空気を纏っていた。

彼女だけが、血の気の引いた顔でそこに立ち尽くしていた。

晩秋の朝の冷気が骨にしみる。役所の前にある木々は葉を落とし、ひらひらと地面に舞い降りる。

肩に葉が一枚、白いフラットシューズの横にも一枚。

彼女はまるで人形のように動かず、そのカップルをただ見つめていた。

初めて東雲琢磨と婚姻届を出しに行ったあの日、彼女もちゃんと着飾っていたのを思い出す。

紅色のロングドレスに、黒髪をお団子に結い上げて――


記念写真に写る彼女は、まだ初々しい表情で、彼の方へ少し体を傾けていた。

写真映りが悪いと思った当時、ブサイクとは言えないが。でも、あれがじゃなかっただけ。

東雲琢磨の彫刻のような顔立ちと並ぶと、自分は釣り合っていない――そう感じていた。

今となっては、写真の出来なんてどうでもいいこと。

あの一枚は、彼女の人生からもうすぐ完全に消える存在になる。

もう二度と、東雲琢磨を愛することはない。

……きっと、それを成し遂げてみせる。


ふと我に返ると、バッグの中で携帯が何度も鳴っていた。

彼女は涙を拭い、震える手で通話を取った。

「梨々、お願い……恒を助けて。事故を起こしたの……人を轢いちゃって……!」

神崎青子の声は震え、車の音が混ざる中、神崎梨々の頭は割れそうだった。

「恒が……?」

「今は何も聞かないで!東雲琢磨を頼って!あの人、周防弁護士と繋がってるでしょ?どうしても彼にお願いしなきゃダメなの。恒のこと、もう警察が動いてるの!相手の弁護士も来てるのよ!」

催促されるまま、梨々はタクシーを拾って東雲グループの本社へ向かった。

離婚どころではない。今、彼女にとって大切なのは弟・神崎恒だった。


東雲グループ。

ここ数日、社内の空気は異様に張り詰めていた。特に幹部たちは、息を潜めるように業務にあたっていた。

一番不運だったのは園田司。東雲琢磨の側近で、毎日彼の不機嫌に付き合っていた。

予定報告を済ませた直後も、鋭い目つきで睨まれる。

「天澤のプロジェクト、急いでないのか?」

「急ぎです!」

次の瞬間、スケジュール表が床に叩きつけられた。

「そんな急ぎなら、なんで俺を役所に行かせようとする?脳味噌ついてんのか?」

怒鳴られ、園田は冷や汗をかく。

「じゃ、じゃあキャンセルを……?」

キャンセル? 彼女を待っていたこの数日、ようやく現れたかと思えば、離婚だなんて――笑わせる。

東雲琢磨の顎が強張り、思考が渦巻く。

果たして逃げたいのか、最後にごねたいのか。

彼女は、彼が公の場で騒がないことを知っているから、きっと折れると思っているに違いない。


迷っている間に、ドアが勢いよく開いた。

「東雲琢磨、お願いがあるの!」

梨々が息を切らして立っていた。

「どうやって入ってきた?」

彼は驚きながらも、眉間の皺が少し緩んだ。

「下で園田さんの部下に会ったの。」

彼女はドアの足元に落ちていたスケジュール表に目を落とした。

「午前九時 奥様と区役所で離婚手続き」

……彼女が今日ここに来た本来の理由だった。

でも、恒のために、離婚を後回しにせざるを得ない。


「今さら頭を下げる気か?遅すぎるんじゃないか?」

「……恒が事故を起こしたの。周防弁護士を紹介してもらえない?」

梨々の願いは、重く、真剣だった。

「彼、交通事故で人を轢いたの。でも話を聞く限り、明らかに相手が当たり屋。勝ち目はあると思うの。だから、もし周防弁護士が動いてくれたら……」

相手はすでに亡くなっている。人命が関わる重大な事件だ。

だからこそ、母・青子にも頼んで、被害者遺族への対応を誠心誠意行ってもらっている。加害者家族としてできる限りのことはしなければならない。

けれど、本当に当たり屋だったなら話は違う。神崎恒は、冤罪で裁かれてはならない。

恒の話では、すでに道路脇で女性が立っていたのを見ていたという。だが、車が目の前を通りかかった瞬間、その女性が突然飛び出してきたらしい。ブレーキをかける間もなかった――。


東雲琢磨の瞳は冷たくなり、口元の笑みも徐々に凍りついていく。

「もう離婚するってのに、なんで俺が君の弟を助けなきゃいけないんだ?」

彼の声音は冷酷そのもので、梨々の胸に突き刺さる。

一方は切実に願い、もう一方は氷のように冷たい。

梨々は唇を噛み締め、血の味を感じてからようやく力を緩めた。目には涙が浮かんでいた。

「離婚の際、私は何もいらない。ただ、お願い……恒のために、周防弁護士を呼んでほしいの……!」

「はっ……」

東雲琢磨は、呆れたように鼻で笑った。

そして突如立ち上がると、デスクを回り込み、彼女の目の前に立つ。

長身の彼が見下ろす構図は、まるで彼女を圧倒するかのようだった。

「君に、東雲家の財産をどうこう言う資格があると思ってるのか?二年の結婚生活で、何か東雲家に貢献したか?」

「あのう、すみ……」と隣の園田が口を開こうとしたが、

梨々がそれを遮るように、一歩踏み出して声を上げた。

「二年よ。二年もの間、私はあなたに尽くしてきた!たとえ功績がなくても、苦労くらいはあったでしょう。それが貢献じゃないっていうの!?」

目に涙を滲ませながら、彼女は東雲琢磨を真正面から見据える。

「お、奥さ……」園田が再び口を開こうとしたが、

東雲琢磨がその言葉を鋭く断ち切る。

「そのとやら、家政婦でもできる仕事だ。自惚れるな。」

その言葉に、梨々の顔が引き攣る。

そして――

「じゃあ……セックスはどうなのよ!」


唐突に声を張り上げた自分に、彼女自身が驚いた。

悔しさか、それとも交換条件として提示するしかないという切羽詰まった心情か。どちらにせよ、口にした瞬間、恥ずかしさと惨めさが押し寄せる。

「まさか、忘れた?夫婦の性行為は義務よ」

東雲琢磨の顔が怒りで紅潮し、首筋の血管が浮き出るほどだった。

彼の目は彼女の顔をじっと探り、少しでもという感情を読み取ろうとしているようだった。

……だが、見つからない。

彼女がここに来たのは、神崎恒を救うため。それだけだ。

離婚を望んでいるのは、彼女のほうだった。

東雲琢磨が彼女を助ける義理など、どこにもない。

梨々の心は、ぽっかりと穴が空いたようだった。

こいつの前で、自分が勝てることなんて、何一つない。

――なら、どうする?

彼女は迷っていた。

東雲琢磨との「秘密の婚姻関係」を盾にして、強引に頼むべきか? 彼なら、それで応じるのだろうか?


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