つまり、梨々は東雲琢磨が家族の目を欺くために
この事実は、浮気されるよりも遥かに彼女の心をえぐった。
顔面は真っ青になり、唇を噛みしめ、目には涙が滲む。
たった数日の間に、彼女の人生は音を立てて崩れ去った。
冷たく無愛想だが、自分には情があるのだと思っていた夫――
彼は愛していないどころか、すでに他の女までいた。
しかも、今回新たに知ったのは、自分との結婚に裏の目的があったということ。
離婚の決意はさらに強まったが、それ以上に胸の奥に沸き上がるのは「悔しさ」だった。
しばらくの間、込み上げる感情を抑えようと、彼女は何も言えずにいた。
そして、ようやく声を出す。
「どんな家庭に生まれるかは選べないけど、どんな結婚をするかは私が決める。愛のない結婚なんて、私はいらない!」
東雲琢磨が避妊を求めてきたのは、彼女に子供を産んでほしくないという意思表示だ。
そのうち時期を見て離婚し、橘真希と再婚するつもりなのだろう。
その頃には、自分は年を重ね、若さも失い、取り返しのつかない状況に追い込まれる。
もしも 柚子の言っていた通り、琢磨が一生橘真希を「愛人」として囲い、自分には妻の
そんな結婚生活、続ける意味はない!
彼の妻である以上、いずれ東雲家の子を産むことになるのは避けられない。
だが、彼女は願っていた。
自分の子には、愛のない家庭で育ってほしくないと。
父親が母親をただの付属品のように扱い、呼べば来て、要らなくなれば捨てる――
そんな哀しい人生を、子供には決して歩ませたくなかった。
「じゃあさ、私もう決めた! 二人の浮気の証拠を絶対に掴んでやるから――」
柚子は、夜通し考え抜いた作戦を意気揚々と語ろうとした。
だが、梨々がそれを遮る。
「柚子、私は浮気を暴きたいわけじゃない。ただ、離婚したいの。」
破綻が目に見えている関係の中で、一番してはいけないのは中途半端に執着すること。
彼女が向き合うべきなのは「浮気」そのものではなく、そんな結婚生活の中で自分がどれだけ惨めで卑屈だったかという現実だった。
「でも、こんなふうにきれいに離婚して、琢磨は本当にお金くれるの?
お金がなかったら、また父親に再婚させられるよ!」
柚子は焦ったように言った。「私が言ってる
「でも、最初から払うつもりがない人に何を突きつけても無駄だよ。」
――結婚してからの2年間で、梨々は東雲琢磨の人間性をよく理解していた。
彼は脅されて簡単に折れるような男じゃない。
払うと決めているなら、脅されなくても払う。
払う気がなければ、どんな手を使ってでも封じ込めてくる――そして、最終的に損をするのは自分の方だ。
「ほんと、あのやろうに少しでも人間らしさがあるなら、あんなことしないでしょ……」
柚子がボソッとつぶやく。
梨々は痛む頬を軽く揉んで、ぐちゃぐちゃになった思考を整理しようとした。
「柚子、夜通し私のことを考えてくれてありがとう。少しは休んで。いつも心配かけてごめんね。」
彼女は無理にでも笑顔を作ってそう言った。
「何言ってんの、今さらそんな他人行儀なこと言わないで!」
柚子は胸を叩いて自信満々に言った。
「私さ、これまで何不自由なく生きてきたから、ちょうど暴れ足りなかったところだったの。何かあったらすぐ頼りなさい!」
――柚子、本当にいい子だ。
梨々は胸の奥にこみ上げる感情を感じ、心からこの友情に感謝した。
そして、自分がもっと強くならなければと、改めて決意する。
自分が強くなれば、いつか柚子の力にもなれる日が来る。
そうでなければ、東雲琢磨の前で、堂々と顔を上げて生きていく資格すらない。
たとえ離婚して彼と一切関わりがなくなっても、もう二度と顔を合わせることがなかったとしても、
彼女は心のどこかで願っていた。
「インテリアデザインの世界で、ちゃんと成功したい。」
彼のために専業主婦になった自分でも、彼を離れてからさらに輝けるのだと、証明したい。
仕事への情熱と、東雲琢磨に裏切られた苦しさが入り混じり、心はざわついたままだ。
……そしてふと、写真を送りつけてきたあの「見知らぬ番号」のことを思い出す。
――あれは、橘真希なのではないか?
もしかすると、橘真希はすでに自分が
あのベッドの上で、黒いストッキングやレースの下着を取り出して見せたのは――すべて計算だったのかも。
だって、社長との関係がバレたら一巻の終わりだ。
そんな彼女が無防備に「うっかり」なんてするわけがない。
梨々は眉間を押さえ、頭痛に顔をしかめた。
これは、彼女がこれまで経験したことのない、厄介で心が折れそうな状況だった。頭の中は真っ白で、思考がまとまらなかった。
しばらく考えた末、彼女はその番号を迷わずブラックリストに登録した。
あの写真や動画をこれ以上受け取りたくなかった。せっかく固めた覚悟が、また揺らいでしまう。心が崩れてしまう。
梨々は何も言わずに東雲本家を出た。そのせいで、直美は機嫌を損ね、電話で詰め寄ってきたが、なんとか言い訳をしてその場を切り抜けた。
その後の二日間、彼女は月曜日の面接準備に集中した。
感情は、忙しさの中で少しずつ薄れていった。
月曜日、午前十時。梨々はトアン社のビルを訪れた。
受付で面接の件を伝えると、担当者が資料を確認しながら尋ねた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「神崎梨々です。」
資料をめくっていた手が止まり、受付の女性が顔を上げて言った。
「神崎様、申し訳ありません。デザイナーアシスタントの募集は、すでに締め切られております。」
神崎梨々は受付の机に置かれた何通かの履歴書に視線を落とした。
ちょうどその時、彼女の背後から二十歳そこそこの若い男性が歩み寄ってきた。
「こんにちは、デザイナーアシスタントの面接に参りました!」
受付は気まずそうに神崎梨々を一瞥しながら、男性の資料を確認し、通行証を手渡した。
「理由を教えてください。」
梨々は穏やかな声で言った。
先週金曜日に立て続けに面接を断られたとき、彼女はすでに違和感を覚えていた。
受付の女性は口ごもりながら言った。
「神崎様、これは上の判断でして、私にはどうにも……。でも、履歴書を拝見しましたが、神崎様は新卒の中でも群を抜いて優秀です。採用されない理由なんてないと思います。もしかして、どこかで誰かを怒らせてしまったとか……?」
梨々は考え込んだまま、受付に軽くお礼を告げてトアン社を後にした。
――本当に受付の人が会社をかばってそう言ったのか、それとも事実なのか。
彼女には判断できなかった。
なにせ、外部の人間との接点などほとんどなかったのだから、誰かを怒らせる機会などあるはずもない。
……まさか、東雲琢磨?
眉間にしわを寄せながら、彼女はこの件に彼が関わっている可能性を考えた。
答えが出ないまま、彼女は次の面接先「ユンブルー」に向かうバスを待っていた――その時だった。
ユンブルーの人事部から電話がかかってきた。
「お電話失礼します。神崎様でいらっしゃいますか?」
「はい、私です。」
神崎梨々は髪を整え、日差しを背にしてバス停の標識の下に立った。
「こちらユンブルーの人事部です。突然で恐縮ですが、面接の日程を三日後に延期させていただけないでしょうか?」
梨々のまつ毛が微かに揺れた。
そして、率直に聞いた。
「それは
数秒の沈黙の後、相手が口を開いた。
「本当にただの延期です。本日、設計部門の人事が変更になり、柳沢部長のパートナーである芹沢専務が、三日後に帰国されます。その方が直接、面接をしたいと仰っていまして……」
理由としては、嘘ではなさそうだった。
実際、彼女には選択肢がなかった。ただ、頷くしかなかった。
「わかりました。ありがとうございます。」
その間、彼女はまた柚子のレストランで二日間ピアノを弾いて過ごした。
――そして、ついに東雲琢磨と離婚する約束の日が来た。
秘書の園田からのメッセージを見つめる。
「午前9時、区役所の正面で。」
離婚を申し出てから、もう一週間も経ったのか?
彼女は茫然としたまま毎日を過ごし、この数日をどう乗り越えたのかも思い出せなかった。
ふとした瞬間に、東雲琢磨と橘真希、それぞれとの対面の情景が、何度も何度も頭をよぎった。