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第12話:東雲琢磨が養成した女

「誰があんたのチャンスなんて欲しがるもんですか!」

梨々は思わずバスタオルを掴み取り、身体を隠した。頬は赤く染まり、目には怒りが宿っていた。

その澄んだ瞳で東雲琢磨を睨みつける。まるで敵でも見るような眼差しだった。

昨夜、彼は会社の休憩室で橘真希と親密な関係を持ったばかり。なのに今、何の躊躇もなく自分に手を出そうとしている――。


一体何を考えているのか、梨々には全く理解できなかった。橘真希がそんなに好きなら、さっさと離婚して彼女を妻にすればいい。

まさか、浮気を楽しんでいるだけなのか? 二人の女を同時に抱くことで快感を得ているのか?

次々と疑念が浮かび、どれも受け入れ難い。どの理由にせよ、こんな男に二度と触れられたくなかった。

琢磨は怒りを押し殺したまま、壁に両手をついて彼女を囲い込んだ。隆々とした首筋、浮き出る血管、その気迫に満ちた姿はまるで獰猛な獅子のようだった。


「東雲琢磨、あんたが私を抱きたいのは……離婚したくないからなの?」

梨々は自分でも驚くほど震える声で言った。心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。

怒らせて追い払いたい――ただそれだけのつもりだった。だがなぜか、ほんの少しだけ、期待している自分がいた。

彼が、「離婚したくない」と言ってくれることを。

もしかしたら、ほんの過ちで、今後は橘真希と線を引いて、自分とやり直すつもりかもしれない……そんな淡い希望。

「離婚したいかどうかと、お前を抱きたいかどうかに、何の関係がある?」

琢磨は歯を食いしばり、こぶしを握りしめた。血管が浮き、関節が白くなるほどだった。

「関係あるに決まってる!」

即座に梨々が言い返すと、琢磨の瞳に燃えていた欲望の炎がすうっと消えた。

「夢でも見てろ。神崎梨々……お前、調子に乗りすぎだ。」

結婚して二年、こんな彼女を見るのは初めてだった。今までは一度も何か仕掛けて自分の関心を引こうとすることなどしてこなかったくせに、今日に限ってその浅はかな思惑が丸見えだった。


こんな雑な誘い方では、なんにもならない。

欲望は確かにあるが、抑えることもできる――そう言わんばかりに、東雲は踵を返して部屋を出ていった。

ドアが開かれ、冷たい空気が部屋に流れ込む。曖昧だった空気が一気に清められるようだった。

梨々はようやく肩の力を抜き、大きく息を吸い込んだ。

……なのに、心にはまったく安堵が訪れなかった。

離婚できるかもしれない、というはずの状況で、なぜか胸が重いままだった。


深夜、東雲琢磨は本家の屋敷を車で出た。

静まり返った山あいに、マイバッハのエンジン音が響く。

梨々はパジャマに着替えてベッドに横になったが、眠れずに何度も寝返りを打った。

すると、枕元のスマートフォンがふるりと震えた。

また、あの見知らぬ番号からの写真だった。

琢磨と橘真希が、表参道のフレンチレストランでディナーを楽しんでいる写真だった。

端正で整った男と、可憐で上品な女――まさに美男美女のカップルで、雰囲気はとてもロマンチックだ。

写真の右下には撮影時刻が記されていた。――今日の夕方六時。

つまり、東雲琢磨が本家に戻る前の出来事だった。

神崎梨々は写真に写る、穏やかで落ち着いた東雲琢磨の横顔を見つめた。

こんなに優しげな彼を、彼女は一度も見たことがなかった。

梨々はベッドの上で膝を抱え、ぼんやりとしたまま一睡もできずに夜を明かした。


翌朝――

梨々は、直美夫人が起きる前にこっそりと家を出た。

もし、彼女に琢磨が夜中に屋敷を出たことがバレれば、必ず根掘り葉掘り聞かれる。

言い訳を考えるくらいなら、先に逃げた方がいい。

スマホでタクシーを呼び、2時間以上かけてようやく柚子のマンションに辿り着いた。

玄関を開け、靴を脱いで部屋に入ると、数歩進んだところで立ち止まった。

芹澤柚子のリビングにはテレビがなく、代わりに壁一面がグレーで、その正面にプロジェクターが設置されていた。

その壁の中央に、東雲琢磨と橘真希のツーショットが大きく映し出されていた。


テーブルに突っ伏してうとうとしていた柚子は、梨々の帰宅に気づくとすぐに起き上がり、彼女をソファに座らせた。

「やっと帰ってきたね! 私、超本気で退立てたんだから!」

梨々は目を見開いた。

「撃退……小悪魔?」

「とにかくしゃべらないで、まずは聞いて!」

柚子はプロジェクターの中の橘真希を指差す。

「昨日、私があの女を見たの。一目で分かった、あれは只者じゃないって。で、調べてみたら案の定よ!」

梨々は写真を見つめながら、内心では橘真希の正体が気になって仕方なかった。

「東雲家って、昔から奨学金とか慈善活動してるの知ってる?」

と柚子が尋ねる。

「うん、そういうのがあるのは聞いたことあるけど……詳しくは知らない。」

梨々は答えながら、また小さく首を振った。

大学時代はデザイン業界の話題ばかりを追っていたし、結婚後は琢磨に夢中で、ビジネスのことなど気にも留めなかった。ただニュースで彼が慈善事業に関わっているのを見たくらいだ。


「橘真希は、東雲琢磨が7歳のときに児童養護施設でとして選んだ女の子。彼女は頭が良くて、施設がスポンサーを探して学費を出してもらってたの。」

柚子が話すほどに、梨々の顔色はどんどん青ざめていった。

その様子を見て、柚子もさすがに気の毒に思った。

「東雲琢磨はお年玉を全部使って、東京で一番の進学校に彼女を通わせたのよ。大学を卒業して、今の会社に入るまでずっとね。」

言葉を重ねるごとに、梨々の顔はますます蒼白になっていく。

柚子は資料の束を差し出し、「もう、これ読んだほうが早いわ」と言った。


東雲琢磨は東雲家の長男であり、ひとり息子でもある。毎年お正月になると、祖母・直美夫人は彼に300万円のお年玉を渡していた。

直美の本来の意図は、「お金の大切さを学んでほしい」というものだった。

だが、父・俊一は少し違う考えを持っていた。「子供に大金を与えるべきではない」として、育児院に彼を連れて行き、自分のお年玉を困っている子供たちのために使わせることにしたのだ。

支援を受けたのは橘真希だけではなく、彼女の妹・橘月乃も含まれていた。

真希が「妹と離れたくない」と強く望んだからだ。

月乃は成績が平凡で、俊一は二人を同時に支援することに反対した。

だが、琢磨は頑として譲らず、父親に反抗までして、最終的には二人を施設から引き取ったのだった。

小学校から大学まで、琢磨は自分のお年玉で二人の学費を出し続けた。

最初はそれでも足りていたが、次第に足りなくなり、直美に借金を申し出て、最終的に3000万円の借りができたという。


読んでいるうちに、梨々はその話を思い出した。

以前、直美夫人が冗談交じりに借金のこと話していたことがあったが、まさか本当だったなんて――しかも、それが橘真希のためだったなんて!

橘真希は大学卒業後、東雲グループに入社し、一方で妹の橘月乃は先天性の心臓病でICUに入るほど重篤になった。

琢磨は彼女を救うために再び資金を出し、海外での療養と心臓移植のチャンスを与えたという。

「もうこれは、自分の手で育て上げた妻同然だよ。橘真希は素直で努力家で、琢磨が敷いたレールを一歩も外れずに歩んできたの。」

柚子も、ついには認めざるを得なかった。この女は本当にすごい、と。

あまりに立派すぎて、自分が恥ずかしくなるほどだ。

「でも梨々、あんたなら絶対に彼女を超えられる。どんなに優秀でも、あの人は副社長止まり。あんたは有名なデザイナーになれる人よ!」


だが梨々の胸には、言いようのない苦しさが渦巻いていた。

琢磨が自ら育て上げた女性――

きっと、満足しているに違いない。きっと、相性もいいに違いない。

そうなると、ふたりはずっと前から付き合っていたのだろうか?

だったら、なぜ自分と結婚したの?


「……それからもうひとつだけ。」

柚子は少し迷ってから、口を開いた。

「聞いた話だけど、橘真希が大学を卒業した後、東雲家は彼女を海外に留学させようとしたんだって。でもそれに琢磨さんが反対して、どうしても彼女を日本に残した。

だから多分、その頃にはもう彼女と何かあったんじゃないかと思う。そしてあんたと結婚したのは、家族に橘真希との結婚を反対されるのが分かっていたから、としてあんたを選んだんだよ。裏では真希と付き合ってたってこと。」


「……だからさ、離婚しないっていう選択もあるんじゃない?」

と柚子は真剣な表情で言う。

「あんたは正妻なの。争う必要なんてないし、いずれ東雲家の財産は全部あんたのものになる。橘真希なんて、ただの愛人でしかない。一生、表には出られない立場だよ。」

「ビジネス界にはね、表面上だけの夫婦なんていくらでもいるんだから!」


――東雲家の財産。それは、確かに無視できないほど大きな魅力だった。


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