「いたた……」
直美夫人は琢磨の視線を受けながら額を押さえ、「あやうく焼け死ぬところだったわよ。あんたのおじいちゃんが、あっちで手を振ってたのが見えたんだから」と大袈裟に呻いた。
梨々:「……」
居心地の悪さと恥ずかしさが一気に込み上げた。琢磨がじっと自分に視線を向けていたのに気づいたが、やがてその視線は祖母の方へ移った。
梨々は唇を噛みしめ、静かに座ったまま直美の芝居じみた話に耳を傾けていた。
彼がどういう意図で自分を見ていたのか、深く考える気にもなれなかった。
「おばあちゃん」
琢磨が近づいてくる。仕立ての良いスーツに包まれた姿はすらりとしていて、照明の下でひときわ目を引いた。
長身の彼が立つだけで、梨々の頭上の光をすっかり遮る。
思わず顔を上げた彼女は、彼の全貌を捉えきれないまま、その魅力に一瞬目を奪われた。
「孫よ、あんたのおじいちゃんが私に何て言ったと思う?」
直美は指の隙間からキラリと光る目で孫を覗き見ている。
琢磨は冷たい雰囲気をまとい、彫りの深い顔立ちは一目で只者ではないとわかる。
これまで直美は、どんな女性も自分の孫には釣り合わないと思っていた。
だが梨々に出会ってからは、「この子しかいない!」と確信していた。
おしとやかで静か、まるで人形のように整った顔立ち。
その容姿も雰囲気も、琢磨とはぴったりの相性だと信じて疑わない。
ふたりの子どもがどれだけ美しくなるか、想像するだけで幸せな気持ちになる。
「ひ孫に会えないなら、まだこっちに来るなって言われたかな」
琢磨は唇の端をわずかに動かしながら、意味ありげに梨々を見つめた。
彼女の海藻のような長い髪は肩にかかり、赤い唇と白い歯、少し開いた襟元からは雪のような肌がのぞく。
彼は喉を鳴らし、体がわずかに強張った。
そこで直美はパチンと指を鳴らし、二人を交互に見比べた。
「そうよ!そう言ってたのよ!
それで?いつ私にひ孫を見せてくれるの?」
こういう催促はもはや日常茶飯事だが、「おじいちゃんの夢のお告げ」バージョンは初めてだった。
恥ずかしさとおかしさで耳まで赤くなった梨々は、どう逃げようかと考えていた。
いつもは自分がかわしてきたが、今回はもう手詰まり。
嘘を重ねるよりも、とっさにその火の粉を東雲琢磨に押しつけた。
「おばあちゃん、決めるのは彼です」
その一言で、東雲琢磨の瞳の色がほんの少しだけ濃くなった。
「私をおじいちゃんに合わせられないって、あんた本気なの?」
直美は首を伸ばして琢磨に迫ってくる。
琢磨は片手で袖口を整えながら、淡々と答える。
「ひ孫があなたの命取りになるのなら、俺は産まない。あなたを死なせたくないから」
まさかの切り返しに、祖母は目を剥き、喉に何か詰まったように絶句するしかなかった。
「奥様、お食事の準備ができました」
メイドが声をかけてくる。
直美はすぐに話題を切り替え、「まずは食事よ! 食べなきゃほんとにあの世行きになっちゃう!私はもう言いませんよ、今度はおじいちゃん本人が夢で怒るからね!」
離婚を切り出して以降、琢磨との会話はすべてがぎこちない。
特にあの表参道レストラン前での一件以来、彼女はもう二度とあんな思いをしたくなかった。
幸い、直美の話が尽きることはなく、食卓は穏やかな空気に包まれていた。
食後、直美が彼女の手を取る。
「部屋は用意してあるから。今夜は俊一と清奈も帰ってこないし、二人とも泊まっていきなさい」
「えっと……」
梨々は思わず琢磨の方を見た。
泊まるということは、つまり同じ部屋で過ごすということ。
来週の水曜日には離婚届を提出する予定の二人にとって、それはあまりにも気まずい状況だった。
「なに見てるのよ」
祖母がピシャリと口を挟む。
「私が決めたことよ!」
結局、二人ともそのまま泊まることになった。
だが階段を上がった途端、東雲琢磨は書斎へ直行。
彼は今夜、書斎で寝るつもりだ。
――離婚間近の男として当然の判断だろう。
神崎梨々はそう考えながら、自室でシャワーを浴びた。
十分後、バスタオルを巻いたまま浴室を出る。
湯気が立ちこめる中、濡れた長い髪が頬に張り付き、白い首筋を伝って鎖骨へと流れる。
目の前には、寝間着のズボン一枚だけを身に着けた男が立っていた。
琢磨は書斎のバスルームから出てきたところで、髪は半乾き。
小麦色の胸元はしっかりと鍛えられており、逆三角形のシルエットがズボンの下に隠されている。
強いフェロモンが漂い、彼女は息を飲んで見つめ返した。
何をしに来たのか問う暇もなく、彼のたくましい腕が伸びた。
腰を引き寄せられ、彼の胸板に押しつけられる。
まだ湿った肌と彼の熱が、バスタオル越しに交差し、甘く危うい空気が流れる。
「なにしてるの!?」
彼の胸に片手を当て、もう一方の手でタオルを必死に押さえる。
琢磨は色気を帯びた視線で彼女の鎖骨を見つめた。
「さあ、なんだと思う?」
さらに腕に力が入り、二人の体が密着する。
彼の欲望が明確に伝わってくる。
神崎梨々は呆然としたまま、橘真希が彼の休憩室を片付けていた場面を思い出す。
まさか、もう我慢できなくなったの……?
でも、相手が自分って……おかしくない?
「離婚予定なの、忘れたの?」
東雲琢磨は鼻で笑い、まるで冗談でも聞いたかのような顔で彼女の顎をつかむ。
「そのために、わざわざ祖母まで呼び戻したんだろう? 今さら清純ぶるな」
直美は毎年、一ヶ月間山で精進料理と静養をする。
先週の土曜日に家を出たばかりで、まだ日数が合わない。
つまり、琢磨は梨々がわざわざ直美を呼び戻し、火事騒ぎで自分を誘き寄せたと思っていたのだ。
「私だって騙されて来たのよ!」
声を荒げる梨々。誤解されたままでいたくない。
だが琢磨は信じていないようで、彼女の腰をなぞる手が止まらない。
「演技はもういい」
理屈を重ねるつもりもない。事実は事実だ。彼はもう数日間、彼女を抱いていない。
なら、今日くらいは許してくれてもいいだろう――
それに、謝らないことも、今夜だけは目をつぶる。
彼女が受け入れてくれるなら、それで帳消しにするつもりだった。
梨々が言葉を発するより先に、唇が塞がれた。
激しく深いキスに舌が痺れ、思わず小さく喘ぐと、彼の情欲にさらに火をつけてしまった。
力の差は歴然、彼女の抵抗は逆に彼を煽るだけだった。
タオルが落ち、乱れた髪、やわらかく光を反射する肌が、男の本能を煽る。
ついには完全に理性を失い、彼女を壁に押し付け、さらにキスを深めていく。
彼はタオルを剥ぎ取り、欲望のままに彼女を求める。
梨々は目が回りそうな中、荒々しい愛撫に痛みを感じ、はっと目を覚ます。
そして――強く噛みついた。
舌先に鋭い痛み、唇に広がる血の味、男の欲望が怒りへと変わる。
「神崎梨々……いい加減にしろ。これが最後のチャンスだったんだぞ。まだ続けるつもりか?」