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第10話:もしかして、もう家に帰ったんじゃないかと思った


表参道のフレンチレストラン。

店内中央には煌びやかで複雑なシャンデリアが輝き、空間全体を包み込んでいた。

東雲琢磨は橘真希と向かい合ってテーブルに座り、ウェイターがボルドー産の赤ワインを開けてデキャンタに注いでいる。

赤褐色の液体が光を反射し、その一筋が東雲琢磨のシャープな横顔を照らした。

端整な顔立ちに安らいだ雰囲気が漂い、細めた長い目線はピアノの方に向けられていた。

「変ね、今夜はピアノの演奏がないのかしら?」

橘真希はショウガ色のワンピースを着て、ウェーブのかかったロングヘアを下ろしている。

いつもの仕事服とは違い、今の彼女はずっと女らしい印象を与えていた。

東雲琢磨は眉をわずかに上げ、「知らない」とだけ答える。

あのピアノの前で、人に見られながら弾くなんて、あの神崎梨々には耐えられないだろう。

彼は、今ごろ梨々がもう家に帰ったんじゃないかとすら思った。

梨々はいつも空気を読んで、彼の仕事の邪魔はしなかった。

だから、今朝も忙しいと知った彼女は、気を利かせて何も言わず会社を出て行ったのだ。


「お二人にぴったりの一品をサービスで!」

柚子の派手な声が突然響く。

熱々の皿をテーブルに置きながら、橘真希をじろじろと値踏みした。

「モツ煮込み?」

橘真希は驚いたように声を上げる。こんな料理注文していないけど?


「モツ煮込みは人間が食べるものよ」

柚子はにっこり笑いながら視線を戻す。

「これはね、 beast's feast 獣の饗宴。血を吸って肉を貪る、まさに共犯者にぴったりの一品!」

その瞬間、あたりの温度が一気に冷え込む。

大胆不敵を自認している柚子でも、なぜか急に東雲琢磨の前では妙に気後れしてしまう。

たぶん、これは梨々のために出しゃばっている自覚があるせいか、それとも決定的な証拠がなく、東雲琢磨に一矢報いる自信がないせいかもしれない。

一瞬の沈黙の後、彼女は首筋に寒気を感じ、何か見えない手に締め付けられているようだった。

そしてあっさり踵を返し、その場を立ち去る。


橘真希は何食わぬ顔で聞いた。

「今の人、知り合い?」

「いや、ほとんど面識はない」

東雲琢磨は皿に目をやりながら、何か考えているようだった。

その数秒後、彼のスマホがテーブルの隅で鳴り始める。

彼は梨々の番号を登録していなかった。

けれどこの二年間、梨々は毎日昼に「昼食を忘れないように」とメッセージを送り、夜には必ず「今日は帰ってくるのか」と電話をかけていた。


一目で彼女だとわかった。

東雲琢磨は唇の端を皮肉に引き上げ、ためらうことなく着信を切った。

「出ないの?」

橘真希はグラスにワインを注ぎながら、ちらりと画面を見た。登録されていない番号だとわかると、唇に笑みが浮かんだ。

「食事中よ? 会議じゃあるまいし、出てもいいのに」

「知らない番号だし、出る必要もないだろう」

東雲琢磨は彼女からグラスを受け取ると、彼女にもワインを注いでやる。

「最近、色々と手伝ってくれてありがとう」

橘真希は再び席につき、にっこり微笑んだ。

「たった一杯のワインでお礼? それだけ?」

「これは俺のサブカード。欲しい物があるなら、自分で買えばいい」

彼は黒いカードを取り出し、テーブルの上に置いて、橘真希の前に滑らせた。

「仕事上の礼はワイン、私的なご褒美はカードってことか」


赤ワイン色のテーブルクロスの上、男の手首の骨ばったラインがやけに艶っぽく見えた。

橘真希がカードを取ろうとしたとき、指の腹が彼の手の甲を軽く撫で、最後に小指をふわりと絡ませた。

彼女の目がきらきらと笑いを含み、彼の表情を一つ残らず見逃すまいと見つめている。

東雲琢磨は唇を固く引き結び、そっと手を引いて椅子の背にもたれかかる。まるで何も感じていないかのように。

橘真希は遠慮なくカードをバッグに仕舞い、再びピアノの場所に目をやった。

――今日、神崎梨々は来なかったんだ。

彼女の瞳の奥に、何か企んでいる光が宿る。


その後すぐに料理が運ばれてきて、東雲琢磨はゆったりと食事を取り始めた。

橘真希はその隙を突いて、こっそりスマホを取り出し、ガラス越しに二人の食事風景を撮影した。

だが、うっかりフラッシュが光ってしまう。

東雲琢磨は目を細めて顔を上げ、橘真希を鋭く見つめた。

橘真希の顔には一瞬の動揺が走り、その視線に抗えず、スマホを差し出す。

「月乃に毎日ちゃんと報告しろって言われてて。ほら、ちゃんとご飯食べてるって証拠よ」

LINEの画面には、今撮った写真のほかにも、橘真希のオフィスでの姿や東雲琢磨とのツーショットが並んでいた。

東雲琢磨はしばらく見つめ、少しだけ表情を和らげると、ナイフを動かしながら、

「俺がいるんだから、あいつは心配しなくていい」とつぶやく。

「私がちゃんと伝えてるわよ、あなたが私をしっかり守ってくれてるって。まったくあの子ったら……」

橘真希は肩をすくめて、愛おしむように笑う。

そのとき、テーブルの端に置かれた東雲琢磨のスマホが再び鳴った。


園田からだった。

電話を取ると、園田の焦った声が聞こえた。

「琢磨様、本邸から火事の報せが入りました。直美様が火傷されたようです。すぐに戻ってください!」

「ギィ――」

東雲琢磨は勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る音が響いた。

「今すぐ戻る」

そう言って電話を切り、橘真希に「用事ができた」とだけ言い残し、上着をつかんで足早に立ち去る。

黒のマイバッハが幹線道路を疾走し、車列の間を縫うように追い越していく。


東雲家の本宅は山の中腹に建っており、山道にはネオンが灯り始めていた。

梨々はタクシーで向かい、屋敷に到着すると、建物全体が明るく照らされていた。

火の手が上がっているような緊迫感はなく、思わず安堵の息をつく。

だが車を降りると、空気中に焦げたような匂いが鼻をつき、思わず早足で邸内へと向かった。

靴を脱ぐ暇もなく、まっすぐリビングへと飛び込む。


ソファには、白髪の東雲家の当主・直美夫人がきちんと座っていた。

八十近い年齢にもかかわらず、精気に満ちており、老眼鏡をかけながらテレビに夢中になって、柿の種をパリパリと食べていた。

「梨々、帰ってきたのね!」

直美は彼女の姿を見るなり、おやつを置いて手を振る。

「ほら、早くおばあちゃんのところに来なさい!」


梨々は息を切らし、額にはうっすらと汗がにじんでいた。

直美のそばに駆け寄ると、「……おばあちゃん、火事って聞いたんだけど……?」と尋ねた。

「そうよ、火事だったのよ」

直美はあっさりと後庭を指さした。そこには消し止められた後の灰が残っていた。

「もう消えたけどね」

梨々:「……」

彼女は頭を巡らせ、使用人からの電話を思い返す。

確かに、おばあちゃんが火傷したとは言われていなかった。

でも――あの焦った声、言いかけてやめた言葉……それはまるで「おばあちゃんに何かあった」と訴えていたような。

「あなた一人なの?」

直美が彼女の後ろを覗き込み、「うちの孫は?」と訊ねる。

梨々は口元を引き締め、平静を装って答える。

「彼、仕事が忙しいみたいで……たぶん会議中。電話、出なかったの」

直美の目が鋭く光る。

「電話に出なかったからって、怒ってるんでしょ?」

「……怒ってないわ」

梨々は即座に否定した。


電話が切れたあの瞬間、怒りよりも不安が勝っていた。

もし本当に直美おばあちゃんに何かあって、琢磨が来なかったら――その想像が恐ろしかった。

だからこそ、彼の秘書・園田司に連絡し、「彼にはもう伝えましたよ」と言われた瞬間、胸のつかえがようやく下りた。

……今思えば、あのとき琢磨は、わざと電話に出なかったのだ。

心の奥に冷たい感情がじわりと広がり、胸が締めつけられ、息が詰まる。

そんな彼女の顔色を見て、祖母は琢磨に怒っていると勘違いしたのか、きっぱりと言い放った。

「心配いらないわよ。今日こそ、あの子をちゃんと連れて帰ってこさせるから」

梨々:「??」

心の中がごちゃごちゃしていて、祖母の言葉がすぐには理解できなかった。

……連れて帰ってくるって、誰を?琢磨を?

火事は、もしかして二人を呼び戻すための口実だったの?

混乱する彼女に、不意に鋭い視線が突き刺さる。

思わずその方向を見やると、琢磨が急ぎ足で現れた。

彼の深い瞳には冷たい光が宿り、同時に、ついさっきまでの焦りがかすかに残っていた。


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