表参道のフレンチレストラン。
店内中央には煌びやかで複雑なシャンデリアが輝き、空間全体を包み込んでいた。
東雲琢磨は橘真希と向かい合ってテーブルに座り、ウェイターがボルドー産の赤ワインを開けてデキャンタに注いでいる。
赤褐色の液体が光を反射し、その一筋が東雲琢磨のシャープな横顔を照らした。
端整な顔立ちに安らいだ雰囲気が漂い、細めた長い目線はピアノの方に向けられていた。
「変ね、今夜はピアノの演奏がないのかしら?」
橘真希はショウガ色のワンピースを着て、ウェーブのかかったロングヘアを下ろしている。
いつもの仕事服とは違い、今の彼女はずっと女らしい印象を与えていた。
東雲琢磨は眉をわずかに上げ、「知らない」とだけ答える。
あのピアノの前で、人に見られながら弾くなんて、あの神崎梨々には耐えられないだろう。
彼は、今ごろ梨々がもう家に帰ったんじゃないかとすら思った。
梨々はいつも空気を読んで、彼の仕事の邪魔はしなかった。
だから、今朝も忙しいと知った彼女は、気を利かせて何も言わず会社を出て行ったのだ。
「お二人にぴったりの一品をサービスで!」
柚子の派手な声が突然響く。
熱々の皿をテーブルに置きながら、橘真希をじろじろと値踏みした。
「モツ煮込み?」
橘真希は驚いたように声を上げる。こんな料理注文していないけど?
「モツ煮込みは人間が食べるものよ」
柚子はにっこり笑いながら視線を戻す。
「これはね、
その瞬間、あたりの温度が一気に冷え込む。
大胆不敵を自認している柚子でも、なぜか急に東雲琢磨の前では妙に気後れしてしまう。
たぶん、これは梨々のために出しゃばっている自覚があるせいか、それとも決定的な証拠がなく、東雲琢磨に一矢報いる自信がないせいかもしれない。
一瞬の沈黙の後、彼女は首筋に寒気を感じ、何か見えない手に締め付けられているようだった。
そしてあっさり踵を返し、その場を立ち去る。
橘真希は何食わぬ顔で聞いた。
「今の人、知り合い?」
「いや、ほとんど面識はない」
東雲琢磨は皿に目をやりながら、何か考えているようだった。
その数秒後、彼のスマホがテーブルの隅で鳴り始める。
彼は梨々の番号を登録していなかった。
けれどこの二年間、梨々は毎日昼に「昼食を忘れないように」とメッセージを送り、夜には必ず「今日は帰ってくるのか」と電話をかけていた。
一目で彼女だとわかった。
東雲琢磨は唇の端を皮肉に引き上げ、ためらうことなく着信を切った。
「出ないの?」
橘真希はグラスにワインを注ぎながら、ちらりと画面を見た。登録されていない番号だとわかると、唇に笑みが浮かんだ。
「食事中よ? 会議じゃあるまいし、出てもいいのに」
「知らない番号だし、出る必要もないだろう」
東雲琢磨は彼女からグラスを受け取ると、彼女にもワインを注いでやる。
「最近、色々と手伝ってくれてありがとう」
橘真希は再び席につき、にっこり微笑んだ。
「たった一杯のワインでお礼? それだけ?」
「これは俺のサブカード。欲しい物があるなら、自分で買えばいい」
彼は黒いカードを取り出し、テーブルの上に置いて、橘真希の前に滑らせた。
「仕事上の礼はワイン、私的なご褒美はカードってことか」
赤ワイン色のテーブルクロスの上、男の手首の骨ばったラインがやけに艶っぽく見えた。
橘真希がカードを取ろうとしたとき、指の腹が彼の手の甲を軽く撫で、最後に小指をふわりと絡ませた。
彼女の目がきらきらと笑いを含み、彼の表情を一つ残らず見逃すまいと見つめている。
東雲琢磨は唇を固く引き結び、そっと手を引いて椅子の背にもたれかかる。まるで何も感じていないかのように。
橘真希は遠慮なくカードをバッグに仕舞い、再びピアノの場所に目をやった。
――今日、神崎梨々は来なかったんだ。
彼女の瞳の奥に、何か企んでいる光が宿る。
その後すぐに料理が運ばれてきて、東雲琢磨はゆったりと食事を取り始めた。
橘真希はその隙を突いて、こっそりスマホを取り出し、ガラス越しに二人の食事風景を撮影した。
だが、うっかりフラッシュが光ってしまう。
東雲琢磨は目を細めて顔を上げ、橘真希を鋭く見つめた。
橘真希の顔には一瞬の動揺が走り、その視線に抗えず、スマホを差し出す。
「月乃に毎日ちゃんと報告しろって言われてて。ほら、ちゃんとご飯食べてるって証拠よ」
LINEの画面には、今撮った写真のほかにも、橘真希のオフィスでの姿や東雲琢磨とのツーショットが並んでいた。
東雲琢磨はしばらく見つめ、少しだけ表情を和らげると、ナイフを動かしながら、
「俺がいるんだから、あいつは心配しなくていい」とつぶやく。
「私がちゃんと伝えてるわよ、あなたが私をしっかり守ってくれてるって。まったくあの子ったら……」
橘真希は肩をすくめて、愛おしむように笑う。
そのとき、テーブルの端に置かれた東雲琢磨のスマホが再び鳴った。
園田からだった。
電話を取ると、園田の焦った声が聞こえた。
「琢磨様、本邸から火事の報せが入りました。直美様が火傷されたようです。すぐに戻ってください!」
「ギィ――」
東雲琢磨は勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る音が響いた。
「今すぐ戻る」
そう言って電話を切り、橘真希に「用事ができた」とだけ言い残し、上着をつかんで足早に立ち去る。
黒のマイバッハが幹線道路を疾走し、車列の間を縫うように追い越していく。
東雲家の本宅は山の中腹に建っており、山道にはネオンが灯り始めていた。
梨々はタクシーで向かい、屋敷に到着すると、建物全体が明るく照らされていた。
火の手が上がっているような緊迫感はなく、思わず安堵の息をつく。
だが車を降りると、空気中に焦げたような匂いが鼻をつき、思わず早足で邸内へと向かった。
靴を脱ぐ暇もなく、まっすぐリビングへと飛び込む。
ソファには、白髪の東雲家の当主・直美夫人がきちんと座っていた。
八十近い年齢にもかかわらず、精気に満ちており、老眼鏡をかけながらテレビに夢中になって、柿の種をパリパリと食べていた。
「梨々、帰ってきたのね!」
直美は彼女の姿を見るなり、おやつを置いて手を振る。
「ほら、早くおばあちゃんのところに来なさい!」
梨々は息を切らし、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
直美のそばに駆け寄ると、「……おばあちゃん、火事って聞いたんだけど……?」と尋ねた。
「そうよ、火事だったのよ」
直美はあっさりと後庭を指さした。そこには消し止められた後の灰が残っていた。
「もう消えたけどね」
梨々:「……」
彼女は頭を巡らせ、使用人からの電話を思い返す。
確かに、おばあちゃんが火傷したとは言われていなかった。
でも――あの焦った声、言いかけてやめた言葉……それはまるで「おばあちゃんに何かあった」と訴えていたような。
「あなた一人なの?」
直美が彼女の後ろを覗き込み、「うちの孫は?」と訊ねる。
梨々は口元を引き締め、平静を装って答える。
「彼、仕事が忙しいみたいで……たぶん会議中。電話、出なかったの」
直美の目が鋭く光る。
「電話に出なかったからって、怒ってるんでしょ?」
「……怒ってないわ」
梨々は即座に否定した。
電話が切れたあの瞬間、怒りよりも不安が勝っていた。
もし本当に直美おばあちゃんに何かあって、琢磨が来なかったら――その想像が恐ろしかった。
だからこそ、彼の秘書・園田司に連絡し、「彼にはもう伝えましたよ」と言われた瞬間、胸のつかえがようやく下りた。
……今思えば、あのとき琢磨は、わざと電話に出なかったのだ。
心の奥に冷たい感情がじわりと広がり、胸が締めつけられ、息が詰まる。
そんな彼女の顔色を見て、祖母は琢磨に怒っていると勘違いしたのか、きっぱりと言い放った。
「心配いらないわよ。今日こそ、あの子をちゃんと連れて帰ってこさせるから」
梨々:「??」
心の中がごちゃごちゃしていて、祖母の言葉がすぐには理解できなかった。
……連れて帰ってくるって、誰を?琢磨を?
火事は、もしかして二人を呼び戻すための口実だったの?
混乱する彼女に、不意に鋭い視線が突き刺さる。
思わずその方向を見やると、琢磨が急ぎ足で現れた。
彼の深い瞳には冷たい光が宿り、同時に、ついさっきまでの焦りがかすかに残っていた。