梨々は、いつも責めるような口調と冷たい目つきで接してくる母・神崎青子を見つめていた。
「じゃあ、もしその出来事が東雲琢磨に関係していたら?」
「あなたね、子どもじゃないんだから。」
青子は立ち上がり、いつものように説教じみた口調で言う。
「何度も言ってるでしょう。男の人は外で一生懸命働いてるんだから、あなたは思いやりを持って、理解してあげなきゃ。すぐに感情的になるのはやめなさい。」
この二年間、琢磨からの冷淡な態度に、梨々は何度も不満をこぼしたことがあった。
だがそのたびに、青子はこういった言葉で彼女を押さえつけた。
彼女が二年間も耐え続けられたのは、東雲琢磨に一目惚れした想いと、日に日に深まっていった愛情があったから。
だがふと思う。もし琢磨が浮気をしていなかったら、自分も母の影響を受けて、結婚生活で卑屈な妻になっていたのではないか――と。
母・青子はもうすぐ五十歳になるが、三十代に見えるほど手入れが行き届いている。
若々しく美しく、上品な姿は、周囲のマダムたちからも羨ましがられている。
だがそれは外向きの顔であって、神崎家に戻れば、そこには夫の顔色を常にうかがい、言葉を飲み込むことしかできない、発言力のない神崎青子の姿があった。
梨々は、そんな表面だけ取り繕った生き方を、少しも羨ましいとは思えなかった。
「家に帰って琢磨に謝っておきなさい。もう彼を怒らせるようなことはしないようにね。」
青子は再び腰を下ろし、娘の眉間に漂う憂いに複雑な表情を浮かべた。呆れたような、でも少しだけ娘を思う母親らしい感情も垣間見えた。
それでも、青子は優しく諭すように言った。
「女は男に頼って生きていくのが一番なのよ。今あなたがいい暮らしができているのも、全部琢磨のおかげでしょう……」
その言葉に、梨々の脳裏に浮かんだのは、東雲琢磨のあの侮蔑に満ちた眼差し。
「月に100万円の小遣い、やることは庭の手入れと俺の相手、それで不満か?」
その一言を思い出すたびに、胸がきゅっと締め付けられる。
彼のためなら専業主婦にもなるし、高圧的な態度にも耐えるつもりだった。でも、愛されていないと知りながら、それでも彼に縋りつくような真似だけは絶対にしたくない。
ぎゅっと唇を結び、衣服の端を握りしめながら、彼女の目には強い決意が宿っていた。
「母さん、女をバカにしすぎだろ!」と、二階から男の声が降ってきた。どこか飄々とした口調だった。
神崎恒が袖をまくりながら、のんびりと階段を降りてくる。
「今どき男女平等って言われてんだよ?」
青子は一転して穏やかな声色になり、どこか甘やかすように言った。
「女のことに口挟んで、あなたとは関係ないでしょ!」
神崎恒は梨々の二歳下の弟。家族の中でも特に可愛がられていた。
梨々は以前母から聞いた話を思い出す。彼女が生まれたとき、女の子だったことに家族中が落胆したという。
そのせいで青子は授乳すらまともにできず、産後すぐに次の子の準備に入った。
幸いにも一年半後に恒が生まれ、ようやく「神崎家の正妻」としての地位を確固たるものにしたという。
その話を聞いたときの胸の痛みは、今でも忘れられない。だが、青子の言葉や表情からは、申し訳なさなど一切感じられなかった。ただただ「息子を産んで良かった」と満足げだった。
梨々と青子の価値観は、根本からすれ違っている。だから、たとえ東雲琢磨の浮気を暴いても、彼女が娘の味方になることなどありえない。
「父さんが呼び戻したのは何か用?」
立ち上がりながら尋ねる。これ以上母に話を続けられたら、衝動的に離婚の話をしてしまいそうだった。
「この前、父さんが出張で地方の名産を持って帰ってきたでしょ? 今日、東雲家に戻るついでに親戚に届けてって。」
立ち上がろうとした娘に、青子はさらに畳み掛けるように言った。
「もう結婚して二年も経つのに、お腹に何の変化もないじゃない。政彦は一度検査に行ったらどうかって言ってるの。」
数日前、東雲琢磨が橘真希の誕生日を盛大に祝ったというニュースを、父・神崎政彦も見ていた。
東雲家での梨々の立場を不安に思い、焦っていたのだ。
東雲琢磨は彼女に避妊薬を渡し、毎回服用を確認していた。
「今は仕事が忙しい。子どもができたら集中できない。数年後に考える。」
当時は悔しかったが、今思えば、それでよかったと思っている。子どもがいなければ、離婚後も縛られることはない。
「時間ができたらね。」
そう言って立ち上がり、母に早く土産を渡すよう促した。
青子はなおもぶつぶつ言いながら台所へ。
「本気に考えなさいよ。琢磨みたいに優秀な男には女が群がるのよ。あなたが早く子どもを産んで、正式に妻として認められれば、他の女も手を引くわ。」
口を挟まず黙っている娘に、青子はいっそ手土産を隠してしまった。
「信頼できる産婦人科の先生を探しておくから、絶対行くのよ!」
「スケジュール空いたら、ね。」と、梨々は適当に返す。
だが、母が物を渡さないので、仕方なく折れる。
「じゃあ、予約してからまた連絡して。私は先に出るね。」
すると、神崎恒は適当に口実を作り、上着を手に姉の後を追った。
「姉さん、今日は車じゃないの?」
黒いスポーツカーを運転する恒は、姉が普段隣に停めている車がないことに気づいた。
副座に乗り込んだ梨々は、「今日は運転してないの。近くの駅で降ろしてくれればいいから」とだけ言った。
車を走らせながら、恒は姉の横顔を観察していた。
「……姉さん、何かあった?」
「どうしてそう思うの?」
「普段、母さんにあれこれ言われても、少し反論するくらいで、結局折れるでしょ。でも今日は、逃げてた。」
彼女は、自分がそんなふうに見られていたとは思いもしなかった。
車に乗ったことを少しだけ後悔する。狭い空間では逃げ場がない。
「大学卒業後、姉さんが日本一のデザイン事務所に就職したとき、俺はすごく誇らしかった。けど、結婚して専業主婦になった姉さんは、どう見ても幸せそうじゃない。」
恒の言葉は意外なほどまっすぐで、真剣だった。
「……俺には難しいことはわからないけど、一つだけ言いたい。姉さんの人生は、結婚だけじゃない。」
彼女はその意味をすぐに理解した。
「哲学者みたいなこと言うじゃない。」
「親父は俺に会社に入れって言ってるけど、俺の夢は違う。今は友達とゲーム開発しててさ、バカにするかもしれないけど、ゲームって今、超儲かるんだぜ? 俺が稼げるようになったら、絶対姉さんを守ってやるよ。あの傲慢な男に頭下げる必要なんかない!」
その目は、夢に向かって走り出した当時の梨々のように、真っ直ぐだった。
昔から神崎家は男尊女卑だったが、この姉弟の関係はとても良好だった。
小さい頃、父が出張土産を恒だけに買ってきたこともある。
大人になってから、恒は毎回姉の好きなものを聞いて、それを父に頼んでいた。
そんな優しさが、彼女を少しだけ救っていた。
母による重苦しい空気は、弟の明るさで一掃され、梨々の唇にはようやく微かな笑みが戻った。
彼女は柚子のマンションの近くで降り、恒の車が去っていくのを見送ると、土産の箱を手にして建物へ向かった。
マンションの入り口まで来たとき、カバンの中のスマホが鳴った。
見ると、東雲家の本家からの電話だった。
「奥さま、大変です! 本家が火事で……直美さまが――」
焦った声が、電話の向こうから聞こえてきた。
梨々の手にした土産箱が、思わず揺れる。
「えっ……? 直美おばあさまは、山に行かれてたんじゃないの?」
「それが……今は何も聞かず、まず琢磨様に連絡していただけますか!」
梨々は電話を切ると同時に、タクシーを止めながら、急いで東雲琢磨に電話をかけた。