梨々は机の上に置かれた書類を手に取り、そのまま橘真希の胸元へと押し込んだ。次いでスマホを取り出して、数枚の写真を撮る。
「この件は副社長にお任せします。あとで何かあっても、私の知ったことではありません。」
もう気力が尽きたように、彼女の言葉には力も棘もなかった。もはや橘真希に対して言い返す余力も、立場も持ち合わせていない。
好かれる者は常に自由で、好かれない者は、まるで存在していないかのように扱われる。
空調の効いた会社の中で、彼女の背筋には冷たい風が吹き抜けるような寒さが走っていた。心の奥底から湧き上がる冷えが、決して外の陽射しでは和らがない。
彼女はエレベーターで下階へ降り、東雲グループのビルを出た。眩しいほどの日差しが肩に降り注いでいるのに、その寒さは消えなかった。
街の喧騒の中、梨々はふと自嘲するように笑みを浮かべる。
もしかすると、彼らがホテルに行くのはたまにで、会社の休憩室で関係を持つ方が日常なのかもしれない。
東雲琢磨と橘真希の間に過去があることなど、とうに知っていた。今さら何を見せられても、胸が痛むような感情はもう湧かないはずだった。
けれど、その痛みは、この数日何度も思い返した「愛されていない事実」や「浮気の記憶」よりも、ずっと鮮烈で、心を引き裂くような苦しみを伴っていた。
突然、スマホの着信音が彼女の思考を断ち切る。「……もしもし。」
「梨々、今すぐ家に戻ってきなさい。」
父・
今日は土曜、本来なら午後にレストランでピアノを弾く予定だった。就職活動の面接も入っていない。
気を紛らわせるくらいなら、従うしかない。彼女は淡々と返事をした。「わかった。」
――本当は、あまり帰りたくなかったけれど。
***
東雲琢磨は、会議を延期するどころか、逆に予定を前倒ししていた。
神崎梨々を待たせることで、彼女の勢いを削ごうという意図だった。
本来なら50分で終わる会議を、彼は無理やり2時間に引き延ばした。
ようやく会議が終わったのは、もう昼時だった。
琢磨は鼻にかけていた眼鏡を外し、眉間を軽く揉みながらゆっくりとオフィスへ向かう。
「社長、この書類にサインをお願いします!」
財務部の課長が追いかけてきた。
園田がすかさず止めに入る。
「社長はこれから大事な用事があります。午後の勤務時間にまたお持ちください。」
課長はバツが悪そうな顔をしつつ、なんとか仕事を早く片付けようとしただけなのだが——
「急ぐことか?」
東雲琢磨は意外にも足を止め、穏やかな表情で書類を受け取って署名し、そのままオフィスへと戻っていく。
彼の脳裏には、今ごろの神崎梨々の様子がよぎっていた。泣いていなければいいが、彼は涙を見せる女が一番嫌いだった。
駆け引きのタイミングも、彼なりに心得ていた。
自信満々に扉を開けた彼の目に飛び込んできたのは——
ソファに、彼女はいない。窓辺にも。
この部屋に人が隠れる場所はない。明らかに、神崎梨々はもうここにはいないのだ。
休憩室から小さな物音が聞こえ、彼の眉間がぴくりと動く。
神崎梨々……まさか、勝手に休憩室へ?
ここ数日仕事が立て込み、夜も寝られず、酒を飲んでそのまま倒れ込む日も多かった。もしそれを見られたら……彼女はまた、自分が離婚の件で意気消沈とでも余計な誤解を——
「琢磨?」
橘真希が休憩室から現れ、琢磨の苛立ちを含んだ眼差しに驚いたように問いかける。
「どうしたの?」
東雲琢磨は彼女の胸元にちらりと目をやった瞬間、手を引っ込め、何事もなかったかのように顔を整える。
「いや……君、どうしてここに?」
橘真希は笑顔で答える。
「あなたのイメージを保つためよ。午後には記者会見があるし、服をクリーニングに出しておいたの。それに、休憩室も片づけたわ。仕事が忙しくても、身体は大事にしてほしい。みんな、あなたに期待してるんだから。」
「君、来たときに誰かいなかったか?オフィスには?」
彼がデスクに戻ると、目に入った一枚の書類に目をとめる。双眸が鋭く細められた。
「園田助理が誰か書類を届けに来たって言ってたわ。私も確認したけど、午後の会見に使う書類だったから、清奈さまが東雲家の使用人にでも持たせたんじゃないかしら。なんの挨拶もなく置いていくだなんて、もし間違っていたらどうするつもりだったのかしらね。」
神崎梨々は、ただ書類を届けに来ただけだったのか。
彼が思い描いた対峙の場、その舞台には彼女は一切立たなかった。
苛立ちが、胸の奥から湧き上がってくる。彼の全ての演出が、今や滑稽にすら思えた。
会議中の二時間、彼はどれだけ神崎梨々とのやり取りをシミュレートしていたか——
顎を引き締めながら、彼は呟く。
「……まったく、礼儀を知らないやつ。」
神崎梨々を妻に選んだのは、従順で静かな性格を求めていたからだ。
だがあの夜を境に、彼女は何度も彼の忍耐を試してきた。
ついに、妻として最低限の礼儀さえも失ったか。
「午後の記者会見は、私も一緒に行くわ。例によって、困ったことがあれば私がカバーする。」
橘真希はそう言いながら書類を彼の前に広げた。
「夜、ごはん一緒にどう?」
その言葉の語尾だけ、どこか仕事モードを抜けた、柔らかさが滲んでいた。
東雲琢磨は梨々のせいで乱れた感情を必死に抑え、目を細めて柔らかな声で応じた。
「いいよ。場所は君に任せる。」
たとえ今回は誤解だったとしても、彼は確信していた。
——神崎梨々はいずれ、自分の元へ戻ってくる。
ただ、それまでの時間が長くなればなるほど、彼は彼女に「後悔」という名の代償を思い知らせることができる。
橘真希は嬉しそうに微笑み、園田のもとへと向かった。
「園田さん、前に琢磨と麦田専務が行ったレストラン、今日の夜の予約をお願いね。」
「畏まりました。」と園田はスマホを取り出して即座に手配を始める。
「ありがとう、最近ほんとに忙しかったわよね。今日は早く帰っていいわよ。琢磨のことは私が見るから。」
「え?それは……社長からのお言葉ですか?」
園田は思わず聞き返す。
橘真希は首を横に振る。
「違うわ、私が決めたの。あの人、きっと食事が終わったらまた何か言い出して、あなたを引き留めるに決まってるから。万が一のことがあっても、私が何とかするわ。」
たしかにこの数日、園田の睡眠時間は一日五時間もなかった。
「ありがとうございます、副社長。」
自分は社長直属の部下で、他人の指示を聞かなくてもよいとはいえ、橘と社長は誰の目にも明らかな親密さがあった。
橘の一言に、彼は感謝して頭を下げた。
***
かつて神崎家は東京・世田谷区の高級住宅街に住んでいた。
だが家の没落により、今は三階建てのメゾネット式マンションに引っ越していた。
東京の地価を考えれば、それでも億近い価値はあるが、かつての邸宅とは比べるべくもない。
梨々は家に戻ってきたものの、まるで魂が抜けたような顔をしていた。
「梨々。」
母・
「まさか、琢磨さんと喧嘩したんじゃないでしょうね?」
彼女は無理に笑顔を作って否定する。
「してないよ。」
神崎青子はじっと娘の顔を見つめた。
「でも、何か悩みがあるのね?」
「お母さんには関係ないこと。聞かないで。」
梨々はスマホを取り出し、ゲームをしているふりをして逃げようとする。
「別に聞かなくてもいいけど……その顔やめなさい。
琢磨さんは一日働いて疲れてるの。家に帰ってまでそんな仏頂面見せられたら、嫌な気分になるに決まってるでしょ?しかもそれが関係ない話だったら尚更よ。彼の機嫌を損ねるようなことは絶対にしちゃダメ!」
青子はスマホを取り上げ、部屋の隅に放り投げた。
「わかったの!? 返事をしなさい!」