高層ビルが空を突き刺すようにそびえ立ち、梨々は首が痛くなるほど見上げていた。

彼女はこれまで東雲グループを訪れたことがなかった。

神崎家が東雲家に及ばないことは、わかっていたつもりだった。

だが、実際にこの摩天楼の前に立ち、行き交う社員たちを目にした瞬間――

これは「及ばない」どころではなく、「比較にすらならない」のだと、嫌というほど思い知らされた。

ましてや、今や没落した神崎家には、かつての栄華があったとしても、東雲家には到底敵わなかった。

ビルに出入りする女性社員たちは皆、受付でさえも完璧に着こなしたスーツに身を包み、化粧も洗練されていた。

こんな場所でなら、東雲琢磨が家庭に入った梨々を見下すのも無理はない――

たとえ、梨々が彼のために専業主婦になることを選んだのだとしても。

彼女は唇をかすかに噛みしめ、言葉にできない羞恥と屈辱が胸に込み上げ、息すら苦しくなった。

ビルの隅で足を止め、東雲の秘書・園田司の番号を押した。

「はい、奥様」

「園田さん、今ビルの下にいます。お手数ですが……」

梨々は中へ入るつもりはなかった。園田に頼んで書類とスープだけ渡してもらえればよかった。

だが、言い終わらぬうちに園田に遮られる。

「申し訳ございません。ただいま会議中でして。すぐに部下を向かわせます」

「いえ、私は――」

言いかけたところで通話が切れ、梨々は呆然とスマホを見つめた。

二分も経たぬうちに、園田の部下が下へ現れ、丁重に彼女を迎えた。

「これを東雲さんに渡してください」

梨々は書類とスープの入った容器を差し出す。

「申し訳ありません、私どもには社長宛ての私物を預かる権限がありません。どうかご本人の手でお渡しください」

軽く頭を下げた後、梨々をそのまま会社の中へと案内した。

仕方なく、梨々は後に続くことにした。

社長室。

会議を終えたばかりの東雲琢磨は、眉間に皺を寄せ、イライラとした様子でネクタイを緩めていた。

骨ばった手がその苛立ちを物語っていた。

「社長、奥様が到着されました」

園田が入室し、書類を机に置いた。

琢磨の動きが止まり、険しかった表情がわずかに緩む。

その瞳には、どこか予想通りといった色が浮かぶ。

――どうせ彼女のことだ、何かにつけて自分のそばに戻ろうとするはずだ。

「10分後の会議、時間をずらしますか？」と園田が問う。

「……30分、遅らせて」

謝りに来たとしても、すぐに許すわけにはいかない。

彼女の鼻をへし折るには、10分では足りない。

「承知しました」

園田はすぐにスマホを取り出し、各部に連絡を始めた。

一方の神崎梨々は、社員用のエレベーターで上階へ向かっていた。

各階で何度も止まり、ようやく最上階にたどり着く。

「東雲さんはいらっしゃいますか？」

彼女が尋ねると、案内した社員は苦笑しながら答えをはぐらかした。

「最近はお忙しくて、会議が続いていて……ここ数日は泊まり込みで、夜もずっと海外との会議をされているとか。本当にお体が心配で」

梨々の質問には答えず、ただ琢磨の過酷な労働状況を語り始める。

そのたびに、梨々の眉はじりじりと寄っていく。

彼は昔から胃が弱かった。すべては不規則な生活と過労のせいだ。

「着きました」

案内役は足を止めた。

「こちらからは失礼します。お入りください」

そう言って、あっさりと立ち去ってしまった。

梨々が顔を上げると、黒い重厚な扉が目の前に立ちはだかっていた。

その威圧感に息が詰まる。

この扉の先に、冷徹で完璧主義者の東雲琢磨がいる。

彼女はただ、物を置いたら立ち去るだけ。何を言われても無視する。それだけだ。

そう言い聞かせ、扉を開けた。

室内はモノトーンのグレーを基調としたシックな空間。

床から天井まである窓から朝日が差し込み、室内を柔らかく照らしていた。

空気に混じる彼の匂いに、梨々は不意に胸を突かれた。

その手、その体温……そのすべてが、今は遠い。

だが、中には彼の姿はなかった。

空虚が一気に押し寄せてくる。

会議中なのか、はたまた意図的に彼女を避けているのか。

梨々はそっと机にスープと書類を置き、何気なく目を向けると――

机の縁に掛けられた、よれたスーツジャケットが目に入る。

うっすらと煙草の匂いが染みついていた。

彼は潔癖症のはずだった。いくら多忙でも、必ず園田に新しい服を持ってこさせていた。

かつては、梨々が服をすべて丁寧にアイロンがけしていた。

今回もつい知らず知らずのうちに、彼女の手はそのジャケットを手に取っていた。

我に返った時、すでに腕に抱えていた。

慌てて戻そうとしたその瞬間――

奥の休憩室のドアが開いた。

現れたのは、黒いシャツの胸元を二つ開けた橘真希だった。

白い肌と豊かな胸元があらわになっている。

膝上のタイトスカートに黒いストッキングが張りつき、その長く美しい脚線美を際立たせていた。

まさに職場の女王と呼ぶにふさわしい迫力。

「誰が勝手に入っていいと言ったの？」

橘真希は不快感を隠すことなく、梨々の手からジャケットを乱暴に奪った。

スープと書類に視線を落とし、「あなた、東雲家の家政婦か何か？」と鼻で笑った。

背丈は同じほどでも、彼女のヒールのせいで橘のほうがやや高く見える。

「違います」

奪われたことへの苛立ちと、誤認された羞恥で、梨々の声は硬くなった。

「誰だろうと関係ないけど。二度と勝手に彼の部屋に入らないで。彼の物にも触れないこと」

そう言い放つと、橘真希は休憩室へと入っていった。

ドアの向こうには、乱れたベッド。

男性用の白いワイシャツ、黒いスラックス、そして濃紺のトランクスが床に転がっている。

橘真希はそれらを拾い、バスルームへ。

再び出てくると、ベッドメイキングを始めた。

だが、シーツを持ち上げた瞬間――

黒いストッキングと、豹柄のブラジャーが露わになった。

梨々の呼吸が止まり、顔が真っ青になる。

東雲琢磨が忙しい？　違う。

彼はここで、橘真希と――夜を過ごしていたのだ。

「まだいたの？」

橘真希は洗濯物をバスルームに投げ込みながら眉をひそめる。

「この書類は……本人に直接渡すよう言われています」

「私が預かっておくわ」

真希の目には、もはや敵意が浮かんでいた。

あの表参道で見せた、物腰柔らかく奥ゆかしい彼女とはまるで別人。

この空間において、橘真希は「東雲の女」として堂々と立っている。

一方、法的にはまだ妻・である神崎梨々が、まるで他人のように扱われている――

その現実が、彼女を深く傷つけた。

だからこそ、梨々は真希に向かって、数歩、近づいた――。