第一部 一九九九年
ここは火葬場。生者と死者の住処のあいだに流れる三途の川の飛沫が空中に漂っている
ような湿り気をどこか感じる。
―― いや湿り気というよりは、乾きというべきか。まったく逆の感想になってしまって恐
縮だが…… 。
―― そもそも、湿気もしくは乾気を感じる機能のあった肉体からは、死者となった今もう
生命の息吹が失われているのだ。
だから、死者にとっては火葬場には何の特別な意味もない。此岸(しがん)にある様々
な建物の中の種類の一つということでしかない。
ただ、それだけだ。
火葬場に特別な意味を見出すのは死者の側ではなくその者たちの旅立ちを見送る生者の
側だけだ。
火と水とは犬猿の仲。水は火を消滅させることが出来るが、火は水をせいぜい蒸発させ
ることくらいしか出来ない。蒸発した水とて、再結集すれば再び水になる。一方、火は一
度消えたらどこへ行くのだろうか。散り散りになった火の粉が、再び集結することはある
のだろうか。
火葬。
葬送のうち、死者の肉体を燃やすことによる葬法。
水に流す、という言葉がある。文字通り、ヒンズー教などでは例えばインドのガンジス
川に流してしまうように遺体を水葬する文化がある。
映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』。
墓地から蘇る「ゾンビ」という概念は、土葬文化に馴染みのない日本では発明されなか
っただろう。
いささか乱暴な言い方にはなるが、水に流して物理的に遠ざけてしまう。あるいは、土
の中で自然に任せて放置してしまう。
それらに対して、火葬は、せいぜい死者の肉体の水分を飛ばしてしまうくらいだという
中間の優しさがある。
わからないかな?
そう。成人の肉体の六割は水分。だから、生みの親である水に還すのが本来的なのかも
しれない。水の中で死者の肉体はその本当の持ち主である自然の水と一体になる…… 。オ
ブラートよろしく、水に溶解していく。
なのに、火には肉体を消滅させることは出来ない。
骨が残るのだ。それには此岸の人間が考える、どこか曖昧さを残すという優しさがある。
まあ、わからないのならば仕方がない。生者と死者は対話が出来ないものだからね。
重要なことはこれから述べることだ。
今まで述べてきた意味合いにおいては、これから綴られる物語は、火葬文化が定番の日
本ならではのものということになるかもしれない、ということである。
生者と死者。此岸と彼岸(ひがん)。彼岸花はあるけれど、此岸花はない。たぶん。
**
さて。火葬場の話に戻ろう。
例えば、生きたまま棺桶の中に入れられて火葬場の炉に入れられて燃やされるという拷
問があったら凄く怖い。
けれども、小説や映画の中で火葬場の炉に入れて脅すという拷問の場面はあまり見たこ
とがない。火葬場なんてそうそう簡単に悪者が管理できるものではないからではなかろう
か。
*
*
ん?話が戻っていないな。
火葬場の話だ。
視点は火葬会場を頭上からとらえ、血肉を骨にしてしまう絶対的な冷徹さをたたえる焼
き場で棺桶の蓋が閉じられる。
すると、暗くなる。
彼は棺桶の蓋が閉じられるのを外からではなく中から見ていたのだと気付く。ドンドン
ドンと拳で蓋を叩くが、誰にも気づかれないよう。
やがて炎が体を包みこむ。手足をブンブンと振る。それによって手足に着いた火を振り払おうとするかのように。でも、手足は燃えることをやめてくれない。そんなことで火は
振り払えない。
もし、ダイナマイトと一緒に椅子に括り付けられていたのならば、導火線を火の手が伝
っているあいだはまだ猶予がある。
けれども、棺桶の中で燃やされてしまっては、手足が導火線となり、熱いのと同時に心
の臓を抉ってくる感覚がある。
実は、手足をバタバタとブンブンとジタバタと振りに振れば、火が消せると思っている
のではない。心の臓のある胴体から手と足を切り離したいと思っているのだ。もう熱さを
感じたくないから。そのために、手よ足よ飛んで行けとの気持ちで動かしているのだ。
しかし、どうしたって火は心の臓まで到達する。
喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、喉元で焼け石がつっかえてずーっと下がってゆか
ない状態が続くのだ。あるいは、手は喉元をかきむしるかもしれない。
四条竜之助(しじょう・りゅうのすけ)は誰にも、そういう夢を見ることを打ち明けな
かった。
火葬場で生きたまま燃やされる夢のことを……
【つづく】