The lab below: 秘密の研究室:
Prologue: プロローグ
そのテーマパークを所有する一族は、世界でもひときわ目立つ富裕層であり、その影響力は計り知れなかった。
彼らの手が及ぶ範囲はエンターテイメント業界に留まらず、金融、出版、運輸、政治、IT、そして医療分野にまで広がっていた。
世界の様々な業界で絶大な権力を握り、その決定が時には市場の動向を左右するほどである。
彼らのビジネスは複雑に絡み合いながら、世界各国の経済や政策に影響を与える重要な役割を担っていた。
しかし、そのビジネスの裏で何が起こっているのかは、誰も知らない。
Emma:エマ
エマは高校をサボって、一人でテーマパークに来ていた。
高校生活が始まったばかりの春。
新品の教科書のにおい、まだ硬い制服の感触。
周囲の友人たちは新しい日々への期待に胸を膨らませて笑っていたが、エマの心は重かった。
両親の離婚が決まったからだ。
エマは父と母をとても愛していて、 そのどちらかを失う日がくることなど、想像したこともなかった。
けれど、現実はあまりにも静かに、確実に、彼女の世界を壊していった。
パークは煌びやかだった。
笑顔の親子、笑い声、音楽、色彩、光——すべてが夢のようだ。
けれどその眩しさが、エマの胸にある“壊れた現実”を突きつけてくる。
居場所がどこにもないような気がして、エマはどうしても家に帰る気になれなかった。
***
昼過ぎ、空が急に暗くなった。
「皆様、パークは安全のため 18 時をもって閉園いたします。」
アナウンスとともに警報が鳴り、ゲストたちは一斉に出口へと向かう。
アトラクションは次々に停止し、笑い声が消えていった。
だが、エマはその流れに加わらなかった。
彼女はただ、少しでも遠くにいたかった。
目指したのは「ブロードウェイ」と呼ばれるショーエリアだ。
普段なら賑わうはずのその場所は、嵐の気配に押し黙り、異様な静けさに包まれていた。
ビルの軒下に身を寄せ、スマートフォンを見つめるが、エマの指は震えていた。
風が強まり、冷たい雨が頬を叩く。
その冷たさが、逆に心の中を空っぽにしてくれる気がした。
***
「すみません、閉園です。」
誰かがエマに声をかけてくる。
顔を上げると、そこに立っていたのは制服姿の女性スタッフだった。
ついに来たか、という思いと、やっぱりな、という諦めが同時に浮かぶ。
ここにいたのは失敗だった。
「危ないので、出口までご案内します。」
エマは黙って頷いた。
「一人で来たんですか? お友達は?」
「一人です。」
「どうやって帰る予定ですか?」
答えられなかった。
帰る場所が、すでに存在しないような気がしていたから。
スタッフはその沈黙を理解したように、やさしく言った。
「雨が落ち着くまで、少しだけ雨宿りしましょう。あそこの店、まだ開いてるみたいです。」
彼女の視線の先には、一軒だけ明かりの灯る店があった。
Broadway’s Clothier:ブロードウェイの衣装店
ショーウィンドウには、血のような緋色のマントをまとった騎士のマネキンが立っていた。
黒いブーツを履き、顔は影に隠れている。
見つめられているような気がしてエマは思わず息をのんだが、その不気味さの奥には、なぜか目を離せないものがあった。
「入って、少し休みましょう。」
そう促され、エマは店の扉をくぐる。
足を踏み入れた瞬間、そこはまるで別世界のようだった。
壁には羽飾りやレース、ビーズで装飾された帽子が並び、空気には微かに古い布と香水の香りが混ざっていた。
素材の質感まで伝わるほど丁寧に手入れされた衣装は、静かに語りかけてくるようだ。
「こちらを、どうぞ。」
スタッフがタオルとホットココアを手渡してくれた。
エマは両手で紙カップを包み、少しずつ口にしていく。
甘くて、温かい。
しばらくぶりに「安心」を感じた気になる。
心の中にあった硬い氷が、ほんの少しだけ溶けていく。
やがて、彼女のまぶたは重くなり、テーブルに腕を置いたまま、ゆっくりと意識を失った。
その寝顔を見つめながら、スタッフはウィンドウのカーテンをそっと閉じた。
嵐の音だけが、外の世界との境界を告げていた。
The lab below: 秘密の研究室
テーマパークの中央、巨大な二重らせんのモニュメント。
その真下には、地図にも GPS にも存在しない秘密研究施設「Project Helix」のエントランスがある。
Human Evolutionary Lineage eXpansion Initiative、略して Helix は、選ばれた遺伝子だけを次世代に残すことで、病を克服し、強化されたヒト種を作り出すという計画である。
パークはその隠れ蓑であり、地上は楽園、地下は研究所となっていた。
誰もが夢の国だと信じて疑わないこの場所には、常に新しい「サンプル」が運ばれてくる。
ここは国の管轄を受けない、私有地内の独立機関。
公的な法も倫理も通用しない場所だ。
セキュリティは指紋、網膜、声紋、脳波を組み合わせた多重認証で、アクセス権を持つのは、限られた研究者と被験者のみ。
研究者たちは、医学・生物学の最高峰の知識と技術を備え、基礎研究から臨床応用、さらには生殖工学に至るまで、すべてを一手に担うハイブリッドな存在だった。
この地下での研究は、国家単位の予算では到底賄えないレベルの設備と資源を有し、研究者には一切の制約が課されていなかった。
代わりに求められるのは、結果だけだ。
「ネズミで実験するなんて可哀そうだわ。」
この研究所の主任研究員であるクラリスは言っていた。
生物学的には、ヒトとマウスの遺伝子の 85%が相同しているとされる。
しかし、これらでは吸収、分布、代謝、排泄といった薬物動態はまるで異なる。
ヒトでの結果が欲しいなら、最初からヒトで行えばいい。
命を無駄に殺傷しない。
それが研究所の基本方針だった。
***
研究室の中は、ステンレスの器具が整然と並び、空気は無菌室特有の緊張を孕んでいた。
クラリスはガラス越しにその光景を見つめていた。
下手な感情を挟むべきではないが、それでもこの瞬間、わずかに呼吸を止めたのを自覚する。
エマの制服は丁寧に脱がされ、滅菌袋に収納された。
左の耳たぶは V 字型に切除され、採取された皮膚片がバイアルに封入される。
「23060201」のラベルが貼られた時点で、エマは“ヒト”ではなく“サンプル”となった。
処置台に横たわる体は全体的に健康な骨格構造を示している。
卵巣位置、ホルモン値、予測される初期排卵反応、すべてが期待通りだった。
「膣エコー、プローブ挿入。観察開始。」
マイク越しに響く医師の声は、ただの手順の一部に過ぎず、感情のかけらもない。
クラリスは瞼を閉じ、条件とリスクを繰り返しシミュレーションしていた。
薬は完成している。あとは結果だけだ。
Mating: メーティング
エマが意識を取り戻したのは、ふかふかのベッドの上だった。
重たいまぶたを開けると、天井には見たことのない照明器具がぶら下がっている。
家具は中世風のもので統一されており、カーテンの向こうには森や水辺の絵が描かれていた。
まるで高級ホテルのスイートルームのようだが、静けさはどこか異様だった。
「おはよう。」
男性の声がする。
振り向くと、そこには見知らぬ青年がいた。
端正な顔立ち。細身の身体に優雅な仕草。
黒髪の先が少しだけカールしていて、深い瞳が、どこか哀しげな光を宿していた。
「……誰?」
「僕はルーク。君と同じで、ここに監禁されてる。」
彼は穏やかに答えた。
エマは最初、警戒心を抱いた。
でも、彼の声の調子は柔らかく、空間の中に違和感なく溶け込んでいる。
敵意は感じない。
次第にエマは、何かを共有するような感覚を持ち始めた。
「ここ……どこなの?」
「分からない。ただ、ここから逃げられないってことだけは、わかってる。」
ルークはここに連れてこられた経緯や、どんな脱走を企て、それがどんな失敗に終わったかを説明した。
それから、自分の左耳の V 字型の切り込みを見せて言った。
「つまり、君も僕と同じ状況にいるってことだね。」
***
ロボットが食事を運んできたが、エマは全く食欲がなかった。
ルークはエマに気を遣うようにソファに座ってリモコンを押すと、映画を観ながらサンドウィッチを食べ始めた。
スクリーンには白黒のサイレントアニメが映っている。
汽船の上では、ネズミのキャラクターが口笛を吹きながら陽気に働いていた。
PCR: ポリメラーゼ連鎖反応
ヒトの耳のサンプルは雑菌や不純物を多く含んでいる。
そのため、まずは煮沸し、遠心分離によってゲノム DNA(gDNA)を抽出する必要があった。
クラリスは手際よくこの工程をこなした。
彼女の動作には一切の無駄がなく、ラボ内でも彼女の技術は別格だった。
抽出された gDNA は、次の段階である PCR に使用される。
クラリスは静かにプロトコルを読み上げながら、1 マイクロリットルの試薬をピペットで正確にチューブへと加えた。
それは、1 ミリリットルの千分の一という極小の量だ。
経験に裏打ちされたクラリスの手技は、機械のように正確だった。
PCR 装置が作動を開始する。
DNA はまず加熱されて二重らせん構造がほどかれ、冷却によってプライマーが結合する。
再び加熱されると、DNA ポリメラーゼが新しい鎖を合成する。
この三段階を繰り返すことで、特定の DNA 断片が指数関数的に増幅されていく。
そして、PCR によって増幅された DNA 断片から、塩基配列を読み取って個人の遺伝的特徴を明らかにするのだ。
ところで、この原理を発明したのは、カリフォルニアの科学者だった。
サーフィンとビーチを愛する、陽に焼けたヒッピー風の男。
彼がガールフレンドとの温泉旅行中に思いついたというエピソードは有名だ。
のちに彼はノーベル生理学・医学賞を受賞するが、ビーチで彼を見かけても誰も天才とは気づかなかっただろう。
外見というのは、良くも悪くも人の期待を裏切るものだ。
Electrophoresis: 電気泳動
クラリスは PCR の次の工程である電気泳動へと進んだ。
これは、DNA を大きさや電気的な電荷の違いに基づいて分離するための実験技術だ。
準備されたゲルのウェル(穴)に、PCR 産物とコントロール DNA が順番に注入される。
「泳動開始。タイマー20 分。」
電気泳動では、DNA 断片がゲル中を分子サイズに応じて移動していく。
短い断片は速く、⾧い断片はゆっくりと進む。
ゲルには、あらかじめエチジウムブロマイドが混ぜられていた。
泳動が終わると、クラリスは紫外線ランプを灯し、紺紫に染まったゲルを静かに覗き込んだ。
青く沈んだ背景の中に、蛍光を帯びた二本のバンドがくっきりと浮かび上がる。
彼女はバンドの位置を確かめ、記録用カメラのシャッターを切った。
「サンプル 23060201、明確な二本バンド。予測通り、ヘテロ接合体。適合候補です。」
かつては、データが揃い、結果が明快で、誰よりも早く「正解」にたどり着く自分が誇らしかった。
だが今は、心のどこかが鈍く重かった。
07082201:ルーク
ルークは、この施設で育てられた繁殖用のオスだった。
彼の自我は限定的に制御され、情動も目的に合わせて調整されている。
すでに複数のメスを妊娠させており、90%以上の確率で着床を成功させ、 胎児の成⾧率も安定していた。
彼の容姿は“選ばれる”ために最適化されており、精子や分泌物、体内タンパク質なども女性の免疫に拒絶されないように設計されていた。
対象のメスは、例外なく彼に好意と依存を示す。
ルークには「選ぶ」という行為そのものが存在しない。
彼は“選ばれるように設計された”存在だ。
誘惑も情愛も、機能の一部として刷り込まれているに過ぎない。
今回の対象——23060201 がルークに魅了されるのも時間の問題だった。
Conception: 受精
エマは目を覚ますたびに、必ずルークの気配を感じた。
その部屋には朝も夜もないはずなのに、彼のそばにいると、世界に少しだけ色が戻るようだった。
食事はロボットが運んでくるが、スプーンを取るのはいつもルークだった。
大きくて、骨ばっていて、それでいてどこか不器用に見える手。
そして、エマの前に差し出されるスプーン。
その先にある指が、自分とはまるで違う―“男性”のものだと感じる。
彼の手には温度があった。
ロボットの冷たい機械仕掛けではなく、じんわりとした生の熱が、そこにあった。
そして、エマはふと気づいた。
自分がその手を「怖い」とは思っていないことに。
ただ、触れてみたい――
そんな気持ちが、心の奥でゆっくりと芽を出していた。
***
両親が恋しくてエマが泣きだすと、ルークは決して「どうしたの?」とは聞かなかった。
ただ、黙って隣に座り、エマが泣き止むまでそばにいてくれた。
その沈黙が、どんな慰めの言葉よりも深く、温かく胸に染みた。
ある時、ふたりで並んでベッドの上に腰かけながら、ぽつりとルークが聞いた。
「エマはさ……どんな動物が好き?」
「ネコかな。なんか、静かにしてるけど、ぜんぶ見てる感じがして…不思議で、好き。」
「オレは、タコ。」
「タコ!?」
「脳が 9 つあるんだ。心臓も 3 つ。」
「うそでしょ……?」
「ほんと。オレより頭いいと思うよ。」
その一言に、エマは思わず吹き出した。
笑うなんて、何日ぶりだろう。
気づけば、ルークの存在はエマの中で少しずつ“安心”に形を変えていた。
彼は怒らないし、追い詰めない。
ただそこにいてくれる。
家族や友達ですら気づかなかった、傷ついた部分を包むように。
***
ある夜、エマは夢の中で必死に逃げていた。
暗闇に引きずられそうになっても、誰も手を伸ばしてくれない。
「エマ…、大丈夫?」
目を開けた瞬間、ルークの声が聞こえた。
汗ばんだ額に彼の指がそっと触れる。
「怖かった…。ずっとひとりで…。誰も来てくれなかった…。」
「オレは、ここにいる。」
その言葉が、エマの深く胸に沁みる。
ルークはエマの手を握りしめ、ためらいがちに自分の胸元へ引き寄せた。
「エマはここにいていいよ。」
その夜から、ルークはエマのベッドで眠るようになった。
背中合わせではなく、向かい合って。
指を絡めて、額を寄せ合って。
呼吸と鼓動が重なるたびに、監禁されている恐怖を忘れてしまうことができた。
ある夜。
「ルーク……もしかして、私のこと、守ろうとしてくれてるの?」
ルークはエマの言葉に少しだけ目を伏せ、そしてまっすぐ見つめ返してきた。
「守ってるよ。ずっと前から。」
その目が、言葉より先にすべてを語っていた。
エマはふと、彼の頬に手を伸ばし、唇を重ねた。
最初はそっと。
けれど、すぐにお互いの息遣いが熱を帯び、指が肌を探し始める。
彼の手が背中をなぞり、エマは目を閉じたまま、自分の存在が“ルークの腕の中”にあることを実感した。
この世界に、二人きりでもいい―。
そう思ってしまう自分が、心のどこかに確かにいた。
ルークの唇が、もう一度エマの唇に重なる。
今度は⾧く、深く。
それは求めるというより、確かめるような、優しいキスだった。
ふたりの体温がひとつに重なっていくたび、エマの胸の奥では、言葉にできない想いが波のように広がっていった。
ルークの指がエマの髪をすくい、耳の後ろをなぞる。
そのたびに、ゾクリと背筋が震える。
彼の手が滑るように肩に触れ、キャミソールの肩紐がするりと落ちた。
「触れても……いい?」
こんな場所で、こんなふうに誰かに尋ねられるなんて思ってもみなかった。
エマは、そっとうなずいた。
ルークの指先が、迷うように肌をたどりながら、胸のふくらみへと触れた。
その瞬間、心臓の音が跳ねるほどに高鳴る。
彼の口づけが鎖骨をなぞり、柔らかく胸元に触れたとき、エマは目を閉じた。
恐れではなく、ただその瞬間を感じたかった。
呼吸が重なり合う。
肌が、熱を帯びていく。
冷たい部屋なのに、ふたりの間だけが、やわらかく溶けていくようだった。
ルークの手が腰へと滑り込み、エマは彼の首に腕をまわす。
彼の鼓動は、自分の鼓動と同じリズムを打っていた。
ふたりの体は、ゆっくりと、静かに結ばれていく。
痛みよりも驚きよりも、そこにあったのは深い静けさ―
ようやくたどりついた場所のような、安心だった。
エマは目を開け、ルークの瞳を見つめた。
彼も同じように見返してくる。
「……あったかいね」
そのひと言に、ルークがかすかに微笑んだ。
そして、もう一度唇を重ねた。
この夜が終わらなければいい。
エマは心のどこかで願いながら眠りについた。
Separation:分離
カレンダーも時計もないこの部屋では、時間の感覚が徐々に曖昧になっていく。
両親や地上の暮らしが恋しく思える一方で、エマはこの甘く閉ざされた空間に、ずっといてもいいような気がしていた。
しかし、数週間が過ぎたある朝―
普段なら決まった時間に、小さな機械音とともにルークが現れる。
トレーを手に、静かな足取りで。
けれど、その日は何の音もしない。
「……ルーク?」
呼びかけてみても、返事がない。
嫌な胸騒ぎがした。
エマはゆっくりとベッドを抜け出すと、ルークの部屋へとつながるドアの前に立った。
ドアの下のすき間から、何かが覗いている。
それは、薄いペーパーナプキンで折られた、崩れかけた猫の顔だった。
そっと拾い上げると、紙はしっとりと湿っていて、折り目はふやけている。
それはエマが以前、冗談めかして「ブサイクだけど可愛くて捨てられない」と笑った、あのナプキンだった。
彼以外に、こんなものを折る人はいない。
エマはそれを両手に乗せ、じっと見つめた。
裏には、何か書かれていた。
「待ってて L」
ルークの筆跡だった。
「……どういうこと……?」
エマの声は、自分にも届かないほどかすかだった。
その言葉は空気に溶け、行き場を失って消えていく。
ルークは、きっと自分の意志ではなく、何かの理由でここから連れ去られたのだろうか?
それとも、自らの意志で去ったのか?
このナプキンの猫だけを残して…
ルークと一緒に過ごした食事の時間。
笑い合った夜。
紙ナプキンで猫を折る彼の姿。
そのすべてが、この猫に宿っていた。
エマは猫を胸に抱き、何度も何度も、指先で折り目をなぞった。
この猫の折り目一つ一つが、彼の存在を証明していた。
彼女が独りではなかったという、確かな記憶だ。
「どうして……?」
誰にも聞こえないその言葉を、エマはそっと、ナプキンの猫にささやいた。
ルークの姿はない。
けれど、その想いは確かにエマの胸に残っていた。
「ちゃんと……迎えに来てよね。」
エマは猫を胸に思い切り泣いた。
***
数日後―
エマはマスクをした女性たちに付き添われて、検査室へと連れていかれた。
無駄な抵抗はしない。
ルークとの約束があるから。
採血、内診、機械の駆動音、冷たい目をしたスタッフたち。
そこにエマの意思は存在しなかった。
ただ身体だけが、彼らの目的のために扱われていく。
「妊娠 9 週目。胎児心拍を確認。胎児数、三体」
冷たく無機質な声が、機械の数値を読み上げた。
その声が、遠くの水中から響いてくるように、ぼんやりとエマの耳に届く。
三体……?
私の中に、三人も赤ちゃんがいるっていうこと……?
眠気、吐き気、胸の張り、微熱。
いつもの体調不良だと思いたかった。
でも、もう否定できない。
自分は、妊娠しているのだ。
もしかして、誰かのために代理で子どもを産まされているの?
それとも、臓器のため……?
不穏な考えが、頭の奥で渦を巻く。
それでも、エマはその思考にこれ以上踏み込むことをやめた。
考えれば考えるほど、心が壊れてしまいそうだったのだ。
今はただ、この子たちを守る。それだけだ。
「私の中にはルークがいる……。しかも、三人も……。」
妊娠は、エマにとって喜びでもあり、恐怖でもあった。
体はどんどん自分のものではなくなっていく。
それでも、絶望しないのは、その奥にルークとのつながりを感じていたからだ。
毎晩、ベッドに横たわるたびに、エマは思っていた。
もし今もルークがどこかにいるのなら、自分のことを考えてくれているのだろうか―と。
目を閉じると、彼の声が脳裏によみがえる。
はっきりとした言葉ではなく、感覚のように。
彼は言う。
「待っていて。」
錯覚かもしれない。
ただの願望かもしれない。
それでもエマは、その声にすがるように生きていた。
ルークはきっと、戻ってくる。
自分たちを、見捨てたりしない。
紙ナプキンで折られた猫を胸に抱えながら、エマは毎晩、自分に言い聞かせた。
何も考えない。
私はただ、この子たちを守る。
生き抜く。
そして、ルークに会う。必ず。
Hetro and Homo:クラリスとマウリス
生物学において、「ヘテロ」とは、母と父から異なる対立遺伝子を一つずつ受け継いでいる状態を指す。
たとえば、赤い花と白い花の遺伝子を持つ親から生まれたピンクの花は、ヘテロ接合体であり、不完全優性の結果として中間的な特徴を表している。
これは、異なる遺伝子の組み合わせによって新しい形質が現れる一例である。
一方、「ホモ」とは、同じ対立遺伝子を母と父から受け継いでいる状態を指す。
たとえば、赤い花の遺伝子を持つ両親から、赤い花が咲く場合、その遺伝子型はホモ接合体である。
***
主任研究員であるクラリスには、義理の弟・マウリスがいた。
この地上と地下にまたがる巨大組織の所有者であるマウリスの両親は、いとこ同士の近親婚を経て、彼を授かった。
その結果、マウリスは遺伝的な弱点を抱えて生まれてきた。
一族には、代を飛ばして現れる遺伝病があった。
それは常染色体劣性の形で遺伝し、“内側から静かに壊れていく”病として恐れられていた。
進行は緩やかだが確実で、ある年齢を超えると急速に身体機能を蝕んでいく。
クラリスとマウリスの父はこの病を「一族の弱点」と呼び、外部に漏らすことを固く禁じた。
マウリスは生まれつき、整っているとは言い難い、いびつな顔立ちをしていた。
けれど、幼くして母を亡くしたクラリスにとって、彼はかけがえのない存在だった。
赤子のマウリスが自分を見て笑うたびに、クラリスはその小さな手に何度も口づけをし、こうささやいた。
「マウリスは、世界で一番可愛いわ。大好きよ。」
幼いクラリスにとって、弟の発作も、寝たきりの生活も、家の中に漂う沈黙も、すべてが当たり前の現実だった。
マウリスは奇跡的に成⾧し、今も発作を繰り返しながら命をつないでいる。
この弟の存在こそが、クラリスの研究者としての原点であり、執着に近い信念の源でもあった。
クラリスは、弟を救う手段を科学に求めた。
あらゆる倫理を再定義し、生命の限界を超える方法を探し続けたのだ。
こうして立ち上げられたのが、プロジェクト Helix である。
ヒトの遺伝子を操作し、弱い因子を取り除き、優れた形質を固定する。
そして、あらゆる“欠陥”を排除し、生まれながらにして強く、美しく、壊れにくい個体を設計する計画。
マウリスこそが、クラリスが実験台の前に迷わず立ち続ける原動力だった。
すべては、愛する弟の未来のため。
彼が笑って生きられる世界をつくるためなら、他の命を踏み台にしても構わなかった。
DOB:出産
季節が変わるころ、エマの腹は異様なほど膨らみきっていた。
肌は張り詰め、ひと息吸うたびにその重みで胸が苦しくなる。
鏡のない部屋で、彼女は自分の姿を見ることはなかったが、体が限界に近いことは明らかだった。
ある朝、突然の腹痛が波のようにエマを襲った。
息を吸うのも辛く、呻く彼女のもとに二人のナースが現れ、エマを車椅子に乗せて分娩室へと運んでいく。
蛍光灯の白い光が天井を流れていくたび、鼓動がひときわ強く速くなるのがわかった。
そして、ナースが差し出した錠剤―陣痛促進剤を飲んだ瞬間、エマの体は別の命令に従って動き出した。
最初の痛みは腹の奥で微かにうねり、次の瞬間には背骨を貫く雷のように変わる。
数分、数十秒の間隔で、容赦なく訪れる収縮。
エマは歯を食いしばって眼を閉じたが、眩い光と無慈悲な機械音が意識を引き裂いていく。
「……痛い……助けて、ルーク……」
声にならない祈りが心の中で崩れていこうとしていた時、ナースがエマの口元に笑気ガスのマスクを当てた。
視界がにじみ、音が遠ざかる。
世界は静かにフェードアウトしていった。
***
ドアが静かに開き、青い手術着に身を包んだ影が現れた。
顔の大半はマスクに覆われ、表情は一切読み取れない。
足音すら最小限に抑えられ、まるで機械が歩いてくるようだった。
「摘出を開始。」
その一言で、場に漂っていた緊張が刃物のように鋭さを増す。
スカルペルが皮膚を裂き、腹部が素早く切開された。
まるで作業のように、赤子たちは次々と取り出され、ナースに手渡されていく。
「E0704-1、体重 2105 グラム。」
「E0704-2、2009 グラム。」
「E0704-3、1740 グラム。無啼泣。」
その報告を境に、室内がぴたりと静まり返った。
ガラスのカプセルに収められた赤子たち。
モニターに映る、体温、心拍、遺伝子コード。
小さな命が番号で識別され、機械に管理されている。
その中で、一番小さな赤子だけが、動かない。
クラリスは即座に赤子のもとへ駆け寄った。
手袋越しの指先でその小さな胸を確認し、無言でマスクを押し当てる。
「死なせない。絶対に。」
その声には、冷徹な科学者ではなく、祈るように必死な女の声が宿っていた。
***
同じ頃、エマのバイタルモニターに微かな揺らぎが走った。
波のように乱れた心拍が、水平の線へと変わっていく。
「……心停止。」
無慈悲なアラームが鳴り響いた瞬間、分娩室の空気が張り詰める。
医師は迷いなくエマの開かれた腹に手を差し入れ、内臓をかき分けながら、奥へと指先を進めていった。
横隔膜を越え、ようやく心臓に触れると、手でマッサージを始める。
「マニュアル CPR 開始。心内直接マッサージ。」
誰もがモニターの画面を見つめていたが、線が立ち上がることはなかった。
モニターの画面が静かに切り替わる。
SAMPLE:23060201
Status:Terminated
Archive Code:Deleted
数値が消えた瞬間、そこにはエマという名前も、記録も、存在も、まるで最初からなかったかのように、何も残されなかった。
彼女が息をしていた証は、システムの中で、たった数秒で静かに“削除”された。
そして―
すぐ隣の保育カプセルの中では、
一番小さな赤子がわずかに指を動かした。
弱々しく、それでも確かに。
カプセルのモニターには、新しい命の証が表示されていた。
E0704-3
体温:36.3°C
心拍:112
SpO₂:92%
Genome Integrity:Pending
静かに消えていった母の命と、管理番号と数値で記録された新たな命。
温もりも記憶もなく、その赤子は、ただ生きようとしていた。
DDS:投薬
出産から数分後。
安定した赤子たちの臍帯静脈を通じて投与されたのは、DDS(ドラッグデリバリーシステム)技術を応用した実験的新薬だった。
ナノカプセルが赤子の血流に乗って腎臓細胞に到達すると、リソソーム内の低 pH 環境で分解される。
そして、肥大した腎組織における代謝異常を是正するように設計された機能性分子を放出するのだ。
***
「投与後 48 時間経過。Cr 値・BUN 値ともに改善傾向。腹水も減少しています。」
クラリスは無言でモニターを見つめた。
その目には、科学者としての確信と、安堵が宿っていた。
「効いてる……」
その言葉に、研究員たちはただ静かに頷くだけだった。
「静かな遺伝子こそ、未来を変える鍵になる。」
そう呟いたクラリスの目は、もはや神を信じる者の目ではなかった。
それは、神を超えようとする者の目だった。
カプセルの中では、小さな赤子の胸が、規則正しく上下していた。
Epilogue エピローグ:
それから半年が経った。
地上では、何事もなかったかのように、パークのネオンが夜空を照らしている。
今日も多くの来園者が笑い、愛を語らい、夢を見ていた。
だが、その足元では、夢とは対極の現実が静かに積み上げられていた。
閉園後の深夜、誰もいないブロードウェイの通りを、緋色のマントをはためかせた二人が歩いていた。
騎士の衣装を身にまとった青年と、大輪のカサブランカを抱えた女——マウリスとクラリスだった。
「は、はやく……いこう……クラリス……」
「うん。」
二人は、夜のテーマパークの奥にある、誰も知らない小さな墓地に辿り着いた。
そこには、名もなき墓標が静かに並び、その中央にだけ、金の十字架が立てられている。
クラリスは白いカサブランカを墓前に捧げた。
——死者に捧げる、祈りの花だ。
「May you rest in peace……ありがとう。」
彼女は一人ひとりの名を、償うように呼んでいった。
「エリン、リサ、カナデ、ナターシャ、ユミ、ヤーリム……そして、エマ。」
クラリスの目には涙が光っていた。
かつて命の価値を数字でしか見ていなかった人間が、今は手を合わせて祈っている。
背を向けたクラリスの手を、マウリスがそっと握った。
かつて立ち上がることもできなかった少年が、今、自分の足で立って歩いている。
「すごく……すごく上手に歩けるようになったね、マウリス。」
「う、うん……クラリス……きょう、でんしゃ、のる……?」
「…そうだね、行こうか。」
二人はゆっくりと歩き出した。
遠ざかる背中に、街灯の明かりがぼんやりと落ちる。
今日もまた誰も知らない夜の底で、過去と未来が、静かに交差している。