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「森泉くんが前の彼女と放課後に通ってた場所とか、ある?」
その一言がきっかけで、俺は白川と駅前にあるクレープ屋に来ていた。一度だけ────本当にたった一度だけ西野と此処へ訪れたことがある。デートらしいデートをしていなかった俺は「何処かへ寄ろうよ」と提案した西野に渋々導かれここへ来た。他校の女子生徒が群がるそこは、とてもじゃないが俺のような目立たない男が来るには少し憚られる場所であった。それに隣に立っていたのは、俺と同様、目立たないタイプの女だ。俺はその時、恥ずかしさを覚え早く帰りたいとばかり考えていた。
「その時。何味を、頼んだの?」
白川がポツリと呟く。目の前にはクレープ屋があり、注文の順番が回ってきていた。かぶりを振ると、白川が心配げな声をあげる。「ごめん、ボーッとしてた」と返し、白川へ視線を投げる。隣には誇れるような美しい女が立っていて、あの時とは違うのだと胸を張った。
「えぇっと、確か……」
そう言い、チョコクッキーブラウニーを指差す。「じゃあ、それを食べようかな」。白川が頷いた。こんな時でも元カノの痕跡を辿るのかと苦笑いを漏らし、俺はバナナホイップを注文する。
商品を受け取った他学校の生徒が「美味しそう」と姦しい声を上げながら何処かへ消えていく。その背中をぼんやりと眺めた。
────あの時の記憶、ほとんど残ってないや。
頼んだのが、チョコクッキーブラウニーだったのは覚えている。西野がそれを受け取り、地面へブラウニーを落としたのだ。故に記憶にこびりついている。「交換しましょうか?」と提案する店員に「大丈夫です」と言いながらポケットティッシュを取り出し、それを片付ける西野。クスクスと背後から笑い声が聞こえていた。俺はその状況を手助けしないまま、早くしてくれないかなと苛立っていた。
その後の記憶は、ない。何処でクレープを食べたのか。何処へ向かったのか。何時に解散したのか。全て、覚えていない。
ただ、残っているのは床に転がったブラウニーを片付ける、西野の無様な姿だけだ。
「わぁ、美味しい」
白川が、上品な声を漏らす。クレープを細く華奢な手で包み込んだ彼女は、薄く開いた口で生地を喰み咀嚼していた。
「その後、彼女と何処で食べたの?」。白川の問いに答えられなかった俺は、近くに設置されたベンチを指差し「あそこで食べたよ」と嘘をついた。彼女は「じゃあ、座ろうか」と俺の手を引きベンチへ腰を下す。古めのそこは、ギシリと鳴き声をあげた。
────何処までも、嫉妬深いんだな。
俺は内心、そう思いながらクレープにかぶりつく。甘さが口に広がった。
「あれ? ……森泉くん?」
クレープを半分ほど食べ終えた頃、不意に声をかけられた。その聞き覚えのある懐かしい音に、心臓が跳ねた。まさかと思い、声のする方へ視線を投げる。
そこには西野が立っていた。今はもう大学へ行き、地元にはいないはずの存在。そんな彼女が何故か、ここに居る。俺は驚きのあまり「なんで?」と口走った。
「わぁ、久しぶり。大人っぽくなったね。いやね、実家にちょっと用事があって……」
「西野先輩!」
劈くような大きな声に、体が震えた。誰だ、大声で西野の名を呼ぶのは。そう怒鳴ってやりたくなるほどの声量だった。しかし、その声が白川のものであると察した途端、全身に冷や汗が滲んだ。
────何故、西野のことを?
彼女へ振り返り、そう聞こうとした俺の目に、今までで見たことないほど顔を綻ばせた白川が映った。学校でも、プライベートでも見たことのない彼女の表情に、唖然とする。
白川は俺を押し除け、西野の前に立った。困惑した西野の手を握り、上擦った声を漏らす。
「私、後輩の白川りんと言います。西野先輩の合唱を聞いた時から、ずっと先輩の歌声の虜です」
「えっ……えぇ? うそ、私の歌声が好きな子なんていたんだ。あはは」
西野は学生時代より幾分か解れた雰囲気を醸し出し、笑顔を作っていた。「ありがとう、嬉しいな」。そう返す西野に、白川はうっとりとした表情を見せ頬を染めている。
「文化祭で、披露してましたよね。あの時の西野先輩、本当にかっこよかったです。ステージに立つ、誰よりも輝いていて────」
「あぁ、あったね、文化祭。すごい、よく覚えていてくれたね」
「素敵でした、本当に。何度もこの感動をお伝えしようと思っていたんですが、なかなか機会がなくて……」
「そうだったんだ。ふふ、嬉しいよ。ありがとう」
────な、なんだこれ。
俺は一瞬で蚊帳の外へ放り出され、まるで見えない壁に阻まれた。二人の間に入れずにその場に立ち尽くす。
いや、入れなかった。白川のこの変わりように、圧倒されていた。
白川は基本的に静かなタイプだと思う。飄々としているし、それが彼女の美しさをより際立たせている。
けれど、今は違う。彼女は我を忘れ、無我夢中で西野へ話しかけていた。機を逃すまいとしているその姿は、さながらずっと昔からこの瞬間を待っていたハンターのようだ。
頬を染め、目を輝かせ、声を高らかにする姿は、いつもの白川からは想像もつかない。
「まさかこんなところで出会えるなんて……感無量です。もう、歌われていないのですか?」
「歌……? うーん、カラオケに行くぐらいかな」
「本当ですか? 今度、ご一緒してもいいですか? もちろん、奢らせていただきます」
「えっ……っと」
西野が一歩後ろへ退いた。白川の勢いに押されているみたいだ。俺は空気の如く、その場に漂う。あたかも最初から俺と言う存在が無かったかのように振る舞う白川に、恐怖さえ覚える。
────こいつは本当に、白川りんなのか……?
「この子は森泉くんの、彼女さん?」
「そ、そうだけど────」
「違います。友達です」
白川があっけらかんとそう告げた。あまりにも当然と言いたげな声音に目を見開く。彼女の言葉に、呆然としてしまい何も返せなかった。「そうなんだ」と頷く西野は、何も違和感を抱いていないようだ。白川が浮ついた声を漏らす。
「先輩、連絡先とか教えてもらえませんか?」
「あ、うん。いいよ」
二人はスマホを取り出し、何かを操作していた。戯れる二人の姿は花畑を優雅に舞う蝶のようだった。
けれど、俺にはそんなことどうでもよかった。先程、白川が発した言葉が脳内を駆け巡り、何度もリフレインする。「違います。友達です」。その言葉が耳の穴に膜を張り、彼女らの会話が聞き取りづらくなった。足元が泥濘のように感じ、立っているのがやっとである。
「じゃあね」という言葉が辛うじて聞こえ、霞んだ視界の中、二重になった西野が消えていく姿が見えた。俺は視線を白川へ向ける。彼女は俺の方を一切見ることなく、西野の遠ざかる背中を見つめていた。
その横顔は、まるで想い人を見送る恋煩いをした少女のようで、俺は硬直した。震える唇をなんとか動かす。
「あの────」
「森泉くん、別れよっか」
喉から漏れた掠れ声に白川の透き通った声が重なる。彼女はこちらを見ることなく、西野が居た風景をぼんやりと眺めていた。
やがて、顔を此方へ傾け口角を緩める。その笑顔は肖像画のように美しく、それでいて恐ろしかった。
「私たち、合わないみたいだし」
そう言い残し、彼女はクレープの袋を丸め、近くに設置してあったゴミ箱へ捨てる。「じゃあね」と此方を見ずに立ち去る華奢な背中を、俺は追いかけることができなかった。
そこで、俺は彼女に抱いていた違和感にようやく気がついた。
彼女は、俺が好きだったんじゃない。彼女は────白川りんはずっと、俺と付き合っていた西野陽世の影を追っていたのだ。
俺に残る、僅かな西野の痕跡を隅々まで辿った白川の、その執念に身が震える。
俺を見つめていた白川は、俺越しに西野を見つめていた。手を繋いでいる時も、キスをする時も、セックスする時も。
西野を追い求めたが手が届かず、だが諦めることもできない。だから、西野の残り香を孕ませた俺へ接近したのだ。
俺なんかに、興味はなかった。最初からずっと、西野だけを追い求めて────。
そこまで考え、口の中に溜まっていた唾液を嚥下する。
持っていた食べかけのクレープに残ったクリームが、熱で溶け出す。その溶けて原型が無くなったクリームは今の俺みたいで、どうしようもない感情に囚われた。
◇
「別れたのかよ。ま、妥当だよな。いつまでもウジウジせずに、あんな美人と付き合えたっていう称号を胸に生きていけよ」。バカにするように鼻で笑った倉木が、俺の肩を叩く。声音はどこか慰めも含まれていたが、今の俺にはあまり関係のないことだった。
騒がしい教室内で机にうつ伏せになり、返事もできないまま黙り込んだ。
俺たちが別れたという噂は、たちまち学校内に広まった。つり合ってなかったし妥当だろうなと頷く者もいれば、次は俺のチャンスだと希望を持つものもいる。
俺は内心、お前らに望みはないよと吐き捨てるしか無かった。
不意に、女生徒のきゃらきゃらと笑う声が聞こえる。鈴が鳴るような音が耳に届き、全身に脂汗が滲んだ。
顔を上げ、視線だけを教室の後ろへ向ける。そこには白川とその友人たちが愉快げに談笑している姿があった。
あの美しい笑顔を俺だけに向けてくれることは今後ないのだなと悟り、手のひらで顔を覆う。瞼の裏に、白川の笑みが浮かぶ。同時に、西野へ向けていた笑みも浮かんだ。
俺には、白川りんが分からない。
いや……きっとこの教室にいる誰も、理解できないのだろう。
美しく佇み、花のように可憐で、誰も寄せ付けない彼女。そんな彼女の全てを解き明かすものがいるとすればそれは────。
教室の扉が開き「席につけ」と教員の声が聞こえ、顔をあげた。騒いでいた生徒たちは一斉に席へ腰を掛け、まるで先程のけたたましさは何処へ消えたのかと言うほど静かになる。
「みんな、おはよう」。のぶとい声が教室に響く。みんなが導かれるように教壇を見ていた。
そんな中、俺だけは右方向の斜め前に座った白川の背中を射るかの如く眺める。
ピンとした背筋に、艶やかな黒髪。顔を見なくても美しいとわかるその佇まいを眺めながら、誰にも聞こえないようにため息を漏らした。