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第10話 霜月修介の嫁になるのは私


豪華クルーズは、翌朝には港に戻る予定だった。

だからこそ、今夜は“朝までパーティー”が当たり前。


もちろん、騒がしくしたくない乗客のために、静かなスイートルームも用意されていた。


けれど――


杉原俊也と一緒に過ごせた時間は、思っていたよりも短かった。

主催者である彼は、ゲスト対応に追われていたし、遥香自身もだいぶ疲れていた。


「少し休んでて」

そう言って、俊也は彼女のために部屋を手配してくれた。


部屋に戻った真野遥香は、ようやく一息ついた。


ベッドに座り、電話を取り出す。

小野葵に仕事の報告をするためだ。


……が、葵はちょうど友人たちと遊んでいたらしく、浮かれた声で少し話しただけで、すぐに電話を切ってしまった。


ふぅ、と息を吐き、遥香はベッドに仰向けに倒れ込んだ。


そっと、お腹に手を当てる。


「いい子ね……ママ、最近バタバタしててあんまり構ってあげられなかったけど……

もうすぐ、全部終わるから。そしたら、ちゃんとあなたのこと、大事にするから」


しばらく目を閉じていたそのとき――


スマホの着信音が鳴った。


それは、霜月修介専用の着信音。


長年の反射的な習慣で、遥香はすぐに体を起こし、通話ボタンを押した――が。


「……しまった」

自分に舌打ちしたくなる。


【1899に来い】

電話の向こうから、修介の冷たい声。

それは氷のように無機質で、ぞくりと肌を刺した。


――1899は、部屋番号だった。


「……何のご用ですか?」


「頭が痛い」


霜月修介には、古い頭痛の持病がある。

かつての事故の後遺症だと聞いたことがある。


「白石さんにお薬を渡してあるはずです。代わって――」


「教えに来い」


ああ、なるほど。

そういう意味なら、確かに引き継ぎ業務の一環かもしれない。


――どうせ、白石紗月もいるなら、修介が何をしようと自分に手出しはできないはず。


1899号室。


「ねぇ……遥香さんって、本当に杉原家の坊ちゃんと付き合ったの? みんなそう言ってて……ほんとにすごいよね。別れたばかりなのに、もう次のお金持ちの息子を捕まえるなんて……私なんて、何もできないのに。あなたを喜ばせることさえ……」


霜月修介は、ネクタイを緩めていた。

シャツのボタンも二つ外れて、長い脚を折り曲げて、ソファに半ば倒れ込むようにして座っていた。


白い顔はさらに青白く、体から血の気が引いているようだった。


紗月の言葉を聞いていると――頭痛がさらにひどくなった。


「……前にも言っただろう。彼女に関わるなと」

冷ややかに言い放つ。


「しゅ、霜月さま……私、何か間違ったこと言ったの?」


「紗月」

黒い瞳がゆっくり開く。

その中には、凍りつくような冷気。


「俺の前で利口ぶるな。さもなきゃ――おまえも、すぐに捨てる」


紗月の肩がビクリと震えた。


「……はい。紗月、気をつけます」


霜月修介は目を閉じた。


ちょうどそのとき、ドアベルが鳴る。


紗月が慌ててドアを開けると――


そこに立っていたのは、真野遥香だった。


彼女を見た瞬間、紗月の顔から血の気が引いた。

が、修介の目がある前では、何も言えない。


「遥香さん、来てくれたんだねっ!」


遥香は彼女に目もくれず、まっすぐ部屋の奥へと進んだ。


ソファでぐったりしている修介を見るなり、眉をひそめた。


「……大丈夫ですか?」


「こっちに来い」


「お薬は?」


「ない。マッサージしてくれ」


その声は、いつもよりずっと弱々しく、冷たさも鋭さもなかった。


むしろ、どこか――哀れで、孤独で。


仕方なく、彼女は彼のそばへ。

顔色は蒼白、唇も血の気がなかった。


修介は、当たり前のように彼女の膝を枕にした。


その自然すぎる仕草に、白石紗月の顔が見る見る青ざめていく。


「白石さん。社長には持病があります。これからは同行する際、必ず薬を用意しておいてください。薬が効かないときは、こうしてマッサージで落ち着かせるしかないので」


遥香はそう言いながら、指先で彼のこめかみをやさしく押す。


「うるさい、黙れ」


修介が不機嫌に言い放つ。


「……社長、あなたが教えろと仰ったんでしょう?」


彼女は苛立ちを抑えながら、淡々と応じた。


修介は目を開け、彼女を見つめる。

だが、遥香は視線をそらし、淡々とマッサージを続けた。


そのときだった。


彼は彼女の手首を掴み――


次の瞬間、彼女を押し倒すようにして、ソファに組み敷いた。


「そんなに引き継ぎたがって……次の相手は決まったってことか?

石油王のオヤジ? それとも、あの若造・杉原俊也か? いっそ、羽賀会長でも狙ってるのか?」


「……は?」


遥香は一瞬、言葉を失った。


「何言ってんのよ!? 離してっ!」


「あの石油王には妻がいる。杉原俊也はまだ若くて、いずれ政略結婚するだろう。

俺が結婚したら裏切りだと言いながら、他の既婚者に抱かれるのは構わないってことか?」


「霜月修介!!」


彼女の怒声が響いた。


だが、彼は手を離さず――両手を彼女の頭上に縛るように抑えつけた。


「私を何だと思ってる!?」


遥香の目には、涙が浮かんでいた。


「私は……おばあちゃんを救うために、あなたに従った…自分を売ったわけじゃないのよ!」


その言葉が、霜月修介の胸に鋭く突き刺さった。


「……あの石油王の名刺、持ってるの見た。杉原俊也と一緒にいたのも…!」


怒りに染まった彼の目元が、赤く潤んでいる。


次の瞬間――

彼の唇が彼女を強く塞いだ。


――痛い。


遥香は唇が切れたのを感じた。


頭の中が真っ白になる。


ここには紗月がいるのに、彼は何をしているの……?


しかも。

さっきまで別の女に口づけていたその口で――


「いた……っ!」


遥香は顔を背けた。


霜月修介による“罰”を、初めて拒絶した瞬間だった。


霜月修介の動きが、ぴたりと止まる。


彼女の顎を強くつかみ、顔を無理やりこちらに向かせた。


「反抗するのか?」


「当たり前でしょ。私はもう、あなたの玩具じゃない!」


遥香は紗月の方を見た。


「あなたが欲しい“お人形さん”なら、そこにいるわよ」


紗月は完全に固まり、言葉も出なかった。


――こんな展開、想像もしていなかった。

さっきまで瀕死のようだった修介が、今や遥香を押し倒し、激しく口づけているなんて……


――玩具? 彼女が玩具で、私はお人形さん?


違う。

私は、いずれ霜月家の奥様になる女なのよ?


「……真野遥香、お前、いい度胸してるな」


霜月修介は低く唸るように言った。


「白石紗月に教えに来たんだろ?」


「なら、ちゃんと教えろよ。俺をどう満足させればいいか――」


彼は狂気に支配されていた。


ネクタイを掴み、それを彼女の手首に巻きつける。


そのやり方――遥香はよく知っていた。


「……霜月修介っ!!」


「おまえが俺の傍にいる意味、忘れたのか?今夜、たっぷり思い出させてやるよ」


「……やめてっ!」


遥香は首を振りながら、信じられないというような顔で叫んだ。


まさか……彼が、ここまで彼女を侮辱するなんて。


「やめてって、何だ? おまえ、こういうの得意だろ?」


彼の歪んだ笑みが、薄闇の中で凍りつくように浮かぶ。


遥香は気づいた。

今、この男を刺激してはいけない。


「……ちがうの、霜月修介……!


名刺は、渡されたけど――すぐ捨てた。……あの男がしつこくて……だから、羽賀会長に一刻も早く再アポを取ろうとしただけ…!


俊也くんとも……何も、なかったの!

だから……お願い。もう、やめて……」



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