豪華クルーズは、翌朝には港に戻る予定だった。
だからこそ、今夜は“朝までパーティー”が当たり前。
もちろん、騒がしくしたくない乗客のために、静かなスイートルームも用意されていた。
けれど――
杉原俊也と一緒に過ごせた時間は、思っていたよりも短かった。
主催者である彼は、ゲスト対応に追われていたし、遥香自身もだいぶ疲れていた。
「少し休んでて」
そう言って、俊也は彼女のために部屋を手配してくれた。
部屋に戻った真野遥香は、ようやく一息ついた。
ベッドに座り、電話を取り出す。
小野葵に仕事の報告をするためだ。
……が、葵はちょうど友人たちと遊んでいたらしく、浮かれた声で少し話しただけで、すぐに電話を切ってしまった。
ふぅ、と息を吐き、遥香はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
そっと、お腹に手を当てる。
「いい子ね……ママ、最近バタバタしててあんまり構ってあげられなかったけど……
もうすぐ、全部終わるから。そしたら、ちゃんとあなたのこと、大事にするから」
しばらく目を閉じていたそのとき――
スマホの着信音が鳴った。
それは、霜月修介専用の着信音。
長年の反射的な習慣で、遥香はすぐに体を起こし、通話ボタンを押した――が。
「……しまった」
自分に舌打ちしたくなる。
【1899に来い】
電話の向こうから、修介の冷たい声。
それは氷のように無機質で、ぞくりと肌を刺した。
――1899は、部屋番号だった。
「……何のご用ですか?」
「頭が痛い」
霜月修介には、古い頭痛の持病がある。
かつての事故の後遺症だと聞いたことがある。
「白石さんにお薬を渡してあるはずです。代わって――」
「教えに来い」
ああ、なるほど。
そういう意味なら、確かに引き継ぎ業務の一環かもしれない。
――どうせ、白石紗月もいるなら、修介が何をしようと自分に手出しはできないはず。
1899号室。
「ねぇ……遥香さんって、本当に杉原家の坊ちゃんと付き合ったの? みんなそう言ってて……ほんとにすごいよね。別れたばかりなのに、もう次のお金持ちの息子を捕まえるなんて……私なんて、何もできないのに。あなたを喜ばせることさえ……」
霜月修介は、ネクタイを緩めていた。
シャツのボタンも二つ外れて、長い脚を折り曲げて、ソファに半ば倒れ込むようにして座っていた。
白い顔はさらに青白く、体から血の気が引いているようだった。
紗月の言葉を聞いていると――頭痛がさらにひどくなった。
「……前にも言っただろう。彼女に関わるなと」
冷ややかに言い放つ。
「しゅ、霜月さま……私、何か間違ったこと言ったの?」
「紗月」
黒い瞳がゆっくり開く。
その中には、凍りつくような冷気。
「俺の前で利口ぶるな。さもなきゃ――おまえも、すぐに捨てる」
紗月の肩がビクリと震えた。
「……はい。紗月、気をつけます」
霜月修介は目を閉じた。
ちょうどそのとき、ドアベルが鳴る。
紗月が慌ててドアを開けると――
そこに立っていたのは、真野遥香だった。
彼女を見た瞬間、紗月の顔から血の気が引いた。
が、修介の目がある前では、何も言えない。
「遥香さん、来てくれたんだねっ!」
遥香は彼女に目もくれず、まっすぐ部屋の奥へと進んだ。
ソファでぐったりしている修介を見るなり、眉をひそめた。
「……大丈夫ですか?」
「こっちに来い」
「お薬は?」
「ない。マッサージしてくれ」
その声は、いつもよりずっと弱々しく、冷たさも鋭さもなかった。
むしろ、どこか――哀れで、孤独で。
仕方なく、彼女は彼のそばへ。
顔色は蒼白、唇も血の気がなかった。
修介は、当たり前のように彼女の膝を枕にした。
その自然すぎる仕草に、白石紗月の顔が見る見る青ざめていく。
「白石さん。社長には持病があります。これからは同行する際、必ず薬を用意しておいてください。薬が効かないときは、こうしてマッサージで落ち着かせるしかないので」
遥香はそう言いながら、指先で彼のこめかみをやさしく押す。
「うるさい、黙れ」
修介が不機嫌に言い放つ。
「……社長、あなたが教えろと仰ったんでしょう?」
彼女は苛立ちを抑えながら、淡々と応じた。
修介は目を開け、彼女を見つめる。
だが、遥香は視線をそらし、淡々とマッサージを続けた。
そのときだった。
彼は彼女の手首を掴み――
次の瞬間、彼女を押し倒すようにして、ソファに組み敷いた。
「そんなに引き継ぎたがって……次の相手は決まったってことか?
石油王のオヤジ? それとも、あの若造・杉原俊也か? いっそ、羽賀会長でも狙ってるのか?」
「……は?」
遥香は一瞬、言葉を失った。
「何言ってんのよ!? 離してっ!」
「あの石油王には妻がいる。杉原俊也はまだ若くて、いずれ政略結婚するだろう。
俺が結婚したら裏切りだと言いながら、他の既婚者に抱かれるのは構わないってことか?」
「霜月修介!!」
彼女の怒声が響いた。
だが、彼は手を離さず――両手を彼女の頭上に縛るように抑えつけた。
「私を何だと思ってる!?」
遥香の目には、涙が浮かんでいた。
「私は……おばあちゃんを救うために、あなたに従った…自分を売ったわけじゃないのよ!」
その言葉が、霜月修介の胸に鋭く突き刺さった。
「……あの石油王の名刺、持ってるの見た。杉原俊也と一緒にいたのも…!」
怒りに染まった彼の目元が、赤く潤んでいる。
次の瞬間――
彼の唇が彼女を強く塞いだ。
――痛い。
遥香は唇が切れたのを感じた。
頭の中が真っ白になる。
ここには紗月がいるのに、彼は何をしているの……?
しかも。
さっきまで別の女に口づけていたその口で――
「いた……っ!」
遥香は顔を背けた。
霜月修介による“罰”を、初めて拒絶した瞬間だった。
霜月修介の動きが、ぴたりと止まる。
彼女の顎を強くつかみ、顔を無理やりこちらに向かせた。
「反抗するのか?」
「当たり前でしょ。私はもう、あなたの玩具じゃない!」
遥香は紗月の方を見た。
「あなたが欲しい“お人形さん”なら、そこにいるわよ」
紗月は完全に固まり、言葉も出なかった。
――こんな展開、想像もしていなかった。
さっきまで瀕死のようだった修介が、今や遥香を押し倒し、激しく口づけているなんて……
――玩具? 彼女が玩具で、私はお人形さん?
違う。
私は、いずれ霜月家の奥様になる女なのよ?
「……真野遥香、お前、いい度胸してるな」
霜月修介は低く唸るように言った。
「白石紗月に教えに来たんだろ?」
「なら、ちゃんと教えろよ。俺をどう満足させればいいか――」
彼は狂気に支配されていた。
ネクタイを掴み、それを彼女の手首に巻きつける。
そのやり方――遥香はよく知っていた。
「……霜月修介っ!!」
「おまえが俺の傍にいる意味、忘れたのか?今夜、たっぷり思い出させてやるよ」
「……やめてっ!」
遥香は首を振りながら、信じられないというような顔で叫んだ。
まさか……彼が、ここまで彼女を侮辱するなんて。
「やめてって、何だ? おまえ、こういうの得意だろ?」
彼の歪んだ笑みが、薄闇の中で凍りつくように浮かぶ。
遥香は気づいた。
今、この男を刺激してはいけない。
「……ちがうの、霜月修介……!
名刺は、渡されたけど――すぐ捨てた。……あの男がしつこくて……だから、羽賀会長に一刻も早く再アポを取ろうとしただけ…!
俊也くんとも……何も、なかったの!
だから……お願い。もう、やめて……」