「そんなに自信があるのかね?」
羽賀会長の目が鋭くなり、興味を示す。
「はい。たとえ先日のデータに不備があったとしても、弊社の本来の提案内容をご覧になれば、きっとご納得いただけると確信しています」
羽賀会長は、たたき上げで会社を築き上げてきた男だ。
数えきれないほどの提案書を見てきたが――
目の前の若い女性のように、堂々と「私の提案を見れば、必ず納得していただけます」と言い切った人間は初めてだった。
「お嬢さん」
会長はゆっくりと歩み寄る。
その歩みに、重みと威圧感が宿る。
「そこまで言うなら……賭けをしないか?」
「おっしゃってください」
「もう一度、チャンスをやろう。ただし――」
羽賀会長の声は静かだったが、その言葉には強烈な圧があった。
「もし君の提案が私の心を動かせなかったら、私の会社は今後、一切青波社とは取引しない
……君に、それでも賭ける勇気はあるかね?」
真野遥香は沈黙した。
――まったく、さすが老獪な経営者。プレッシャーのかけ方が巧妙すぎる。
でも。
(……別に、いいか)
彼女の頭をよぎったのは、退職届。
この案件さえ終えれば、会社も、霜月修介も、自分には関係なくなる。
「受けます」
遥香はきっぱりと言い切った。
ちょうどそのとき――
ドアの外から聞き覚えのある声が響いた。
「羽賀会長にお会いしたくて来ました」
遥香が振り返る。
……霜月修介!?
「会長はただいまお打ち合わせ中で……」
「入れてあげなさい」
羽賀会長は手を振り、遥香の方へ振り向く。
「ちょうどいい。君の社長も来たようだし、彼を“賭け”の証人にしようじゃないか」
「……」
ドアが開き、霜月修介が姿を現した。
「羽賀会長、こんばんは」
彼は丁寧に挨拶しながら部屋に入る。
遥香は振り返らなかったが、背中にじりじりと焼けつくような視線を感じていた。
「霜月社長、ちょうどいいところです」
羽賀会長は笑みを浮かべた。
「真野さんが、私とある“賭け”をしてくれましてね……」
彼は賭けの内容を細かく説明し、そして――
「彼女はすでに承諾済みです」
「こういうことなら、真野秘書は常に私の意を汲んで動いてくれますよ」
霜月はそう言って、彼女の背後へと歩み寄る。
そして――次の瞬間。
彼女の肩に、彼のジャケットがふわりとかけられた。
真野遥香はわずかに体を強ばらせ、避けようとした。
だが、彼の両手がしっかりと彼女の肩を押さえた。
「なぁ、真野秘書?」
「……彼女は、あなたの秘書だったんですか?」
羽賀会長が少し意外そうに尋ねる。
「ええ、もう随分長く私の側にいてくれています」
修介は肩に手を置いたまま、微笑を浮かべたが、その指先には力がこもっていた。
――どのツラ下げて今さら出てきたのよ、この男。
さっきまでお気に入りの女とイチャついてたくせに。
「……では、私ももう一度、拝見させてもらいましょう」
羽賀会長が応じる。
「なぜ彼女がそこまで自信を持っているのか、確かめない手はありませんね」
部屋には高性能のプロジェクターが備え付けられていた。
遥香はすぐに資料を投影し、何の躊躇もなくプレゼンを始めた。
羽賀会長は、これまで数え切れないほどの企画を見てきたが――
彼女の説明は、その“本質”にまっすぐ切り込んできた。
最初は余裕の表情だった会長も、徐々に真剣な面持ちになり、質問の数が増えていく。
だが――
遥香は一つ一つに丁寧かつ的確に答えていく。
彼の知りたかったこと、知るべき視点、それらを、確実に言葉にしていった。
ソファに座っていた霜月修介は、指輪を弄びながら、じっと彼女を見つめていた。
――あんなに堂々と、論理的に、鮮やかに。
こんな彼女、初めて見る。
ずっと、彼女は自分に従属するだけの、か弱い女だと思っていた。
――でも違った。
彼女は、ちゃんと一人で立っていた。
やがて、プレゼンは終盤にさしかかる。
「……以上になります」
遥香は軽く一礼した。
「もちろん、今後正式にお取引となれば、さらに詳細な擦り合わせが必要になるとは思いますが……羽賀会長。決断は、お任せいたします」
羽賀会長はメガネを外し、ゆっくりと立ち上がった。
しばらく黙って遥香を見つめ――
「……正直なところ、君には勝ってほしくなかった。
だが、認めざるを得ない。まさに、私がずっと求めていた提案だったよ」
そう言って、彼はふっと笑った。
「真野さん、あなたの勝ちだ。明日、契約の話を進めよう」
「ありがとうございます!」
遥香は満面の笑みを浮かべた。
「いやあ、霜月社長。こんな優秀な秘書をどこで見つけたんです?」
「いえ、過分なお言葉です」
霜月修介も立ち上がり、一礼する。
「そろそろお暇させていただきます」
「うん。こちらもこれから考えることがたくさんある」
彼女のプレゼンが与えたインスピレーションを、すぐに形にしたかったのだろう。
◇
真野遥香と霜月修介は、並んで部屋を出た。
――ちょうどそのとき。
廊下の壁にもたれて立っていた、あの人物の姿が目に飛び込んできた。
「俊也くん……?」
遥香が驚きの声を漏らす。
「ずっと待ってたんだよ!」
俊也は嬉しそうに立ち上がる。
――そして、間髪入れず。
霜月修介もすぐ後ろから現れた。
「友達と予定があるから……」
遥香はそう言うと、すっと霜月の腕を取り、さっき掛けられたジャケットを返す。
二歩ほど下がって――
「社長、今日はありがとうございました。おやすみなさい」
それだけ言い残し、振り返って杉原俊也と並んで歩き始めた。
「お腹すいたでしょ?いろいろ用意してあるよ!」
俊也は無邪気で、心から楽しそうだ。
“彼女に友達って言われた”――ただそれだけで、空まで飛んでいきそうなくらい嬉しそうだった。
遥香と修介の間に流れる空気の変化に、彼は全然気づいていない。
「はい、少しお腹空いてたところです」
遥香は笑いながら応えた。
「じゃあ、これ!あったかいよ!」
俊也は持っていたカシミアのショールを、遥香の肩にふわりと掛けてあげた。
「ありがとうございます」
霜月修介はその後ろ姿を、遠くから見ていた。
――彼女は、自分を置いて行った。
他の男と、笑い合って。
ほんの一瞬。
彼の中の何かが暴れそうになった。
――今すぐ奪い返したい衝動。
けれど。
――真野遥香なんて。
彼女に心を乱されるほどの価値はない。
彼女が詩織と重なって見えるのは、ただの錯覚だ。
執着も嫉妬も、全部……詩織の幻影のせい。
――それだけのことだ。
今の彼女は――見るだけで腹が立つ。
霜月修介は、腕にかけられていた自分のジャケットをちらりと見た。
――次の瞬間。
無造作に、それを近くのゴミ箱へと放り投げた。
一度も振り返ることなく、別の出口へと姿を消した。