「坊ちゃま……!?」
つい先ほどまで遥香に対して強い態度を取っていたスタッフたちが、その人の顔を見た瞬間、動揺を隠せずに表情を変えた。
「何してるんだ?」
杉原俊也は眉をひそめながら、さっと遥香の前に立ちはだかる。
その様子に、周囲はどよめいた。
「先ほど、お客様から“この女性が招待状を持っていない”という指摘がありまして……あくまで確認のためでして!」
スタッフの一人が、慌てて弁明した。
「たしかに彼女は招待状を持っていない。僕が直接招待したんだ」
俊也の声は冷静で、それでいて強く凛としていた。
「まだ文句があるなら、僕に言ってくれ」
「……申し訳ございませんっ!決してご無礼なつもりではっ……!」
スタッフたちは大慌てで深々と頭を下げる。
「お嬢様、私どもが不躾でございました。どうかこのような些細な件で、ご気分を損ねませんよう……」
「た、大変申し訳ございませんでした」
もう一人も続けて、頭を下げた。
「い、いえ。お気になさらないでください」
遥香は穏やかに微笑み、そっと首を振った。
「もう行っていいよ」
俊也は手を振って彼らを下がらせたが、その顔はまだどこか不満げだった。
杉原家で働く者なら誰でも知っている。
この“坊ちゃま”はいつも温厚で、下の者にきつくあたるようなことは滅多にない。
スタッフたちは青ざめた顔で引き下がりながら、小声でぼやいた。
「どこのどいつが、余計なちょっかい出したんだよ……」
その頃――
白石紗月は、事態の流れが変わったのを悟り、こっそり人混みに紛れていた。
下手に見つかって「告げ口犯」として指さされたらたまったものじゃない。
「えっ、あの子……まさか杉原家の坊ちゃまと知り合い?」
「知り合いってレベルじゃないでしょ、あの雰囲気……完全に彼女扱いじゃん?」
「一体、どこのお嬢様?」
ざわめく声が四方から聞こえてくる。
紗月はその場に立ち尽くした。
――なんで……?
霜月修介に“捨てられた”だけの女だったはず。
それが、よりによって――
あの高級ジュエリーブランド・杉原家の坊ちゃまと!?
ありえない。認めたくない。
彼女に、そんな価値があるはずがない。
――でも、あの目の前の光景が現実なのだ。
◇
遥香の頭にも、「?」がいくつも浮かんでいた。
まさかこの人が――今日の主役、“杉原家の若様”、 杉原俊也だったなんて。
しかも彼が……自分を助けてくれた!?
「大丈夫?」
振り返った杉原俊也の瞳には、優しさがにじんでいた。
まるで彼女が怯えているのでは、と心配しているように。
「大丈夫です、杉原さま。ありがとうございます」
遥香は少し戸惑いながらも頭を下げた。
……たしかに、彼女は“こっそり”乗船した身だったのだ。
……はっ。
羽賀!
遥香は慌てて辺りを見回した。
でも、もう彼の姿はどこにもなかった。
「何か探してるの?落とし物?」
杉原俊也もつられてきょろきょろと視線を泳がせる。
「いえ、私は――」
遥香が言いかけたそのとき。
「遥香さ~ん♡」
甘ったるく、わざとらしい声が背後から飛んできた。
その声に、遥香の目つきが一変する。
――白石紗月。
さっきのスタッフ、きっと彼女が呼んだに違いない。
そして、遥香がまだ動く前に、相手の方から歩み寄ってきた。
彼女の目に映ったのは――
白石紗月が、霜月修介の腕にしなだれかかっている姿だった。
絵に描いたような“美男美女”。
「社長」
遥香は微かに会釈し、よそよそしい声で挨拶する。
「こんばんは」
赤城雅人はニヤニヤしながら手を振る。
「やあ、真野秘書~」
……視線もくれずに、完全無視。
「……っ」
雅人は苦笑い。
なるほど、彼女もちゃんと怒ることがあるらしい。
――あのとき、霜月修介のオフィスでちょっと言いすぎたからな……。
霜月修介はゆっくりと近づき、まず遥香の顔を見てから、杉原俊也へと目を向けた。
そして、皮肉たっぷりに笑った。
「真野秘書、ずいぶん手が早いじゃないか」
その言葉に、遥香の目がわずかに鋭くなる。
だが次の瞬間、口元にはほほえみが浮かんでいた。
「……社長のご指導の賜物です」
さらりと投げたその一言に――
霜月修介の顔が、すっと冷え込む。
一瞬、彼の瞳に怒気が閃いた。
――この女……
たった一言で、俺をここまで苛立たせるとは。
もしここが公の場でなければ、今すぐ海にでも突き落としてやりたい気分だ。
「霜月さん。お噂はかねがね」
杉原俊也が、礼儀正しく挨拶をする。
名門に育った彼は礼節をわきまえている。
……だが。
修介はその言葉を、完全に無視した。
紗月の腕を取り、そのまま会場へと向かっていった。
「わぁ、空気読まないなぁ……」
赤城雅人はお祭り見物気分。
さっきの「社長のご指導の賜物です」に、危うく吹き出しそうになった。
――やっぱり、修介の手を離れた真野遥香は、面白い。
見ていて飽きない。
彼もまた笑みを浮かべ、会場へと入っていった。
その背中を見送りながら――
遥香はますますモヤモヤしていた。
特に、霜月修介がご機嫌な様子で笑っていたのを思い出すと、胸がつかえる。
あいつ……!
会社の損失を取り返そうと必死な私を尻目に、お気に入りの女連れて邪魔しに来るなんて。
「遥香さん」
耳元で、優しい声がした。
遥香がはっとして見上げると――
杉原俊也の澄んだブルーグレーの瞳が、嬉しそうに細められていた。
「真野遥香さん!」
もう一度、彼は彼女の名前を呼んだ。
少し嬉しそうに。
思わず笑ってしまう。
「はい、真野遥香です」
「素敵な名前だね!」
ぱぁっと目を輝かせる彼は、少年のようだった。
「僕はね、杉原俊也って言うの!」
「ふふっ」
遥香は笑って、耳元の髪をそっとかき上げた。
さっきまで胸につかえていたモヤモヤが、少しだけ和らいだ気がした。
――パーティーはまだ続く。
羽賀さんも、きっとまだ船のどこかにいる。
チャンスはある。
「そういえば……遥香さん、どうしてこっそり船に?」
俊也が興味津々に聞いてくる。
「実はある先輩と、ちょっと真面目な話がしたくて……さっき、もう少しで話しかけられそうだったのに」
「誰?僕、紹介するよ!」
彼のその無邪気な熱意が、彼女には少し眩しかった。
遥香は知っている。
この世の中、何かを得るには必ず代償が伴う。
「杉原さま――」
「俊也って呼んで!」
彼の率直さに、思わず口をつぐんだそのとき。
黒服の保護係が、彼女に近づいてきた。
「お嬢様。うちの会長が、ぜひお話したいと」
遥香の目がぱっと輝いた。
――来た!
「はい、すぐ参ります」
「え、会長って……誰の?」
俊也の表情が険しくなった。
「変なオヤジに狙われてるんじゃ……?」
遥香は笑って小声で言う。
「ふふっ、大丈夫。探してた人よ」
「杉原、俊也くん、今日は本当にありがとうございました。今度、ご馳走させてくださいね」
そう言って、彼女は保護係とともに立ち去った。
◇
数分後――
クルーズ船の豪華スイートルームにて。
「君、どこの会社の?」
羽賀は遥香を見ることなく、ぶっきらぼうに訊いた。
「羽賀様、私は青波の者です」
遥香ははっきりと名乗った。
「……君か。さっきの演奏は良かったよ。耳が喜んだ」
「でもね。青波は正直、プロとは思えない。私は、そういうチームとは組まないんだ」
「おっしゃる通りです。今回、私たちはミスをしました」
遥香は素直に頭を下げた。
「ですが、羽賀様。あなたは、まだ“本当の提案書”をご覧になっていないはずです」