赤城雅人は、意味ありげにニヤリと笑った。
口では強がってるけど――あれは、相当イラついてるな?
けれど……本当に真野遥香は玉の輿狙いなのか?
彼は彼女の動きをじっと見つめた。
遥香は人混みを迷いなく進んでいく。まるで、向かう先が最初から決まっているかのように。
その視線の先――
甲板の奥で、クラシック楽団が優雅に演奏していた。
「ねえ、あれって……アルトロン株式会社の羽賀会長じゃね?」
雅人が顎で示した方向を、霜月修介が一瞥。
――ああ、そういうことか。
赤城雅人は、ハッと目を見開いた。
「ちょっと待って!前に“このパーティーは行かない”って言ってたよね!?
……もしかして、羽賀会長が来るって、最初から知ってた?
それで、真野秘書の持ってる案件を――」
彼の言葉に、霜月修介の視線が冷たく突き刺さる。
その目は、氷のようだった。
「……使い捨てられた代用品に、そんな価値があると思うか?」
雅人は、思わず口をつぐんだ。
修介は続ける。
「俺が来たのは……紗月が来たいって言ったからだ」
雅人は気まずそうに笑う。
寡黙な男ほど、余計なことを口にすると、誤魔化し方が下手になるらしい。
その表情の端に、苛立ちと焦りが滲んでいた。
◇
まさか――羽賀正一を見つけるのは簡単でも、近づくのがこんなに難しいとは。
遥香は、羽賀に数歩の距離まで接近したが、すぐに保護係に制止された。
「申し訳ありませんが、こちらには立ち入りをご遠慮いただいております」
「羽賀会長にお会いしたくて。少しだけ……」
「ご用があれば、会長の秘書にアポイントをお取りください。本日はプライベートのご予定のみとなっております」
「……そうですか」
そのやり取りの最中、羽賀本人が顔を上げた。
そして――
彼の眉間に、嫌悪の色がくっきりと浮かぶ。
遥香は知っていた。
羽賀正一。技術畑の出身で、公私共に誠実な人物。
二年前に最愛の妻を亡くし、深い悲しみに沈んでいた。
女遊びとは無縁で、むしろそういう関係を嫌っていた。
――彼女のような“派手な見た目”の女性は、あからさまに警戒されるタイプ。
羽賀は何かを側近たちに囁き、踵を返して会場へ向かった。
その途中、遥香の耳に彼のひと言が届いた。
「……あのハープ、美しい造りだな。演奏者もいないなんて、展示だけじゃもったいない」
――ハープ?
遥香の視線が、音楽ステージに据えられた金色のハープに留まった。
……これは、偶然?
遥香の祖母は、かつて名高いハーピストだった。
彼女は幼い頃から祖母に師事し、今でも帰省のたびに祖母の前で弾いていた。
プロには及ばないけれど、感情を乗せることだけは誰にも負けない――
羽賀たちが離れると、保護係は撤退。
遥香は静かにハープの前へ歩み寄った。
深呼吸を一つ。
白くしなやかな指先が、そっと弦に触れる。
――澄んだ音色が、夜の空間を包み込む。
羽賀は歩みを止め、驚いたように振り返った。
長い髪が肩に落ち、伏せられた睫毛の下で、遥香の指が譜面を辿るように音を紡ぐ。
その音には、思いが込められていた。
会場のあちこちで、人々が立ち止まり、音に引き寄せられていく。
羽賀もまた、無言でステージへと戻ってきた。
――さっきまで彼女に嫌悪感すら抱いていたのに、
今目の前にいる彼女は、どこか“あの頃の妻”と重なって見えた。
その光景は、赤城雅人も霜月修介も、しっかりと見届けていた。
「真野秘書って……ハープなんて弾けたのか?」
霜月修介は、何も答えなかった。
自分ですら知らなかった。
――五年も一緒にいたのに。
優しい光に包まれた彼女は、まるで神聖な存在だった。
どこか遠くて、手が届かない。
――この五年間、俺は何を見ていたんだ。
心の底に、黒いものが渦巻く。
騙されていた。五年間も――!
◇
ちょうどその頃、あのハーフの青年・杉原俊也も、親に引っ張られて元の席へ戻されていた。
今日は彼の誕生日だった。
本来なら、アイスランドでバカンスの予定が、家族の都合でこのパーティーに参加させられた。
うんざりしていたそのとき――
背後から音楽が響いた。
反射的に振り返った彼の目が、ぱっと輝く。
……曲が終わる。
遥香は安堵の息をつき、優雅に礼をした。
視線の端に、羽賀が歩み寄ってくるのが見えた。
その瞬間――
「そちらの方、ご招待状を確認させていただけますか」
船のスタッフが、険しい顔で近寄ってきた。
人々の視線が集まる中――白石紗月が人混みの向こうで、にやついていた。
(調子乗ってんじゃないわよ……。今こそ、晒してやる)
――「無招待の金狙い女」って。
遥香は、頭が痛くなった。
こんなにタイミング悪いなんて……
……普通、こういうパーティーで招待状なんてチェックする?
彼女の視線が、前へ割り込んでくる紗月にぶつかる。
その得意げな顔に、ほとんど「私がやったのよ」と書かれていた。
――これで霜月修介にでも見られたら……
周囲の誰かが、わざとらしく声を上げる。
「うっわ、マジで?招待状も持たずに来たの?」
「タダで金持ちと繋がろうって?なめすぎでしょ」
「最初っから怪しいと思ってた。絶対、忍び込みだって!」
「セキュリティ大丈夫かよ……こんなのが紛れ込んでさ」
「……ご招待状をお願いします」
スタッフが一歩前へ。
その声には、すでに怒気すら含まれていた。
紗月は大満足の表情でその様子を見ていたが――
ふと、何かに気づいて振り返る。
霜月修介が、いない。
――どこ行ったの……?
視線を探せば、彼と赤城雅人が、階段を下りてくるのが見えた。
その顔を見た瞬間、直感が叫んだ。
――修介様は……遥香を助けに来たんだ!
「……すみません」
遥香が困ったように口を開きかけた、ちょうどそのとき。
人混みの向こうから、落ち着いた男性の声が響いた。
「彼女に、招待状は必要ありません」
ざわめく会場が、ぱっと静まり返る。
皆の視線が、一斉にその声の主へと注がれた。
遥香もまた、驚いて振り向く。