「ごめんなさい、私、まだ用事があるの。また今度、そのおとぎ話の続きを聞かせて」
真野遥香は、それ以上相手にせず、くるりと踵を返して立ち去った。
「ちょ、待ってよ!君の名前、まだ聞いてない!」
ハーフの青年が慌てて追いかけようとした、ちょうどそのとき――
背後から数人の屈強な男たちが走ってきた。
その顔を見た瞬間、青年は思わず「げっ」と声を漏らす。
「坊ちゃま!パーティーはもう始まってます!旦那様も奥様も、必死で探しておられます!」
「ちょっとだけ……探したい人が――」
彼が言いかけた瞬間、ボディガードたちは無言で目配せし、彼を無理やり抱えて連れて行った。
◇
遥香は、すらりとした長身で、痩せてはいるが、女性らしいラインはしっかりある。
雪のように白い肌が、クルーズ船のライトに照らされて、発光しているかのようだった。
何もしなくても、ただそこに立っているだけで――
十分に人目を惹いた。
「ねえ、あの子、誰?見たことないけど」
「芸能界の子じゃない?最近出てきた新人とか。ああいうタイプは、財閥の男を狙って潜り込むのよね〜」
「ほら、見て。あの男たちの目……」
「逆に本人もそれ狙いだったりして?」
口元を手で隠して笑い合う、名家のご令嬢たち。
軽蔑と悪意が、笑みの奥に透けて見える。
遥香は近くを通った給仕のトレイから、シャンパンを一杯取り、周囲の視線を完全に無視した。
――今は、羽賀正一を探すことだけに集中する。
彼女のそんな姿勢が、周囲にさらに「金狙いの女」という印象を強めていた。
◇
今夜のパーティーは、世界的な高級ジュエリーブランドの御曹司の20歳の誕生日会。
政財界、芸能界――日本のあらゆる大物が招待されていた。
赤城雅人は、両親が海外でのトラブル対応中で不在だったため、仕方なく彼が代わりに参加していた。
「修介、お前、今までこういう場に真野秘書なんて連れてこなかったよな」
赤城雅人はソファにふんぞり返りながら、視線を会場の白石紗月に向けた。
「確かに詩織に似てるけど……性格は、真野秘書とは雲泥の差って感じ」
霜月修介は、白石紗月を見ることもなく、グラスを傾けていた。
「最近よく遥香の話するな。……まさか気になってる?」
「……譲ってくれる?」
赤城雅人は目を輝かせながら尋ねる。
霜月修介はゆっくりと視線を向け、冷たい声で答えた。
「試してみろ」
「……降参、降参!」
雅人は両手を上げて白旗を振った。
修介は昔からそうだった。
自分のものは、飽きようが壊れようが、決して他人には渡さない。
――女も、例外ではないらしい。
「霜月さま!」
そのとき、白石紗月が慌てた様子で駆け寄ってきた。
雅人は、修介の眉間にうっすらと浮かぶ“嫌悪”の影を、見逃さなかった。
「真野遥香が……っ、あそこにいます!」
紗月は焦ったように言った。
修介の目が、ようやく彼女に向く。
「……なぜ、ここに?」
◇
甲板の上。
霜月修介、白石紗月、赤城雅人の三人が、遠くの人混みを見下ろしていた。
遥香は、あまりにも目立っていた。
探すまでもなく、ひと目で見つかった。
そのとき――
腹の出た中年男が、彼女の前に名刺を差し出している。
彼女は、笑顔を崩さず、何かを返しているようだった。
「……遥香さん、金持ち狙いで来たって噂もあるんです」
白石紗月は、あくまでも“心配しているフリ”をして、言葉を重ねた。
「霜月さまが彼女を捨てたってのに……今すぐ別の男を探すなんて、あんまりですよね!」
「いやいや、それはちょっと違うでしょ?」
雅人はグラスを揺らしながら笑った。
「修介が紗月ちゃん選んだなら、真野さんだって次を探す権利あるんじゃない?」
その優しげな物言いに、紗月はなぜか、冷や汗が浮いた。
「……私はただ、霜月さまが可哀想と思って…」
そう言って、彼の腕に触れようとするが――
修介は、さりげなく身体をずらして避けた。
「他のことは気にしないで、君は楽しんで行ければいい」
「……はい」
紗月は引きつった笑顔で頷いた。
去り際、彼女はもう一度、遥香を睨みつけた。
会社の写真では冴えない女だったくせに――
今日の彼女は、まるで別人。
セクシーで華やかで、男たちの視線を独り占めにしていた。
紗月ははっきりと理解していた。セクシーさの前では、自分の可愛らしさなんて全く通用しないことを。
(でも、霜月さまは濃いメイクの女が一番嫌い)
そう思って、安心しながら彼女は踵を返した。
が――
突然、何かを思いついた紗月は、目を輝かせて階段を下りていった。
ちょうどその時、霜月修介と赤城雅人は真野遥香が名刺を受け取り、それを小さなハンドバッグにしまうのを目撃した
太った中年男は満足そうに去っていった。
遠くから見ていた霜月修介は気づかなかったが、真野遥香は軽く息をつき、周囲を見渡した。
赤城雅人は、にやりと笑う。
「いやはや、修介――あの美人、今までよく飼い殺しにしてたな」
以前の真野遥香も美しかったが、赤城雅人は彼女を面白味に欠け、冷淡だと思っていた。
まるで感情のないロボットのようだった。
霜月修介がどんなに無理をしても、彼女は怒ることもなかった。
赤城雅人はある冬の真野遥香のエピソードを覚えている。
ある年、白川詩織の誕生日に、霜月修介はなぜかどうしてもある店のケーキを食べたくなった。
しかし、その店はすでに営業を終えていた。
遥香が何を思ったのか、夜中の三時か四時に、彼が食べたいケーキを手に入れた。
帰ると、修介はもうケーキに興味がなく、逆にケーキを邪魔だと言って、あっさりと捨てた。
その時、雅人はちょうど修介の家にいた。
遥香は、雪水で髪がびしょ濡れになり、細い体が震え、手は真っ白になっていた。
赤城雅人から見ていても、修介があまりにもひどいと思った。
それでも…
遥香は怒ることなく、むしろ不満の表情も見せず、ケーキのゴミ袋を片付けて、また修介の家を出て帰っていった。
こういった出来事は少なくなかった。
そして今、まるで人間離れした美しさを持つ遥香を見ると。
雅人は、事態が面白くなってきたと感じた。
「……堕落だ」
霜月修介は、冷たくそう吐き捨てた。