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第5話 息呑むほどの美しさ

「……大丈夫だ」

修介は、紗月の肩をそっと抱きながら、淡々と慰めた。

紗月は、彼の背中に隠れるように身を縮め、怯えたふりをして遥香を見ていた。


遥香はそんな演技を無言で見つめる。


「真野遥香」

霜月修介の声が、冷たく突き刺さった。

「彼女にはお前を裁く資格はないが――俺にはあるだろう?」


遥香の目が、ふいに揺れた。

涙が、じんわりと目頭ににじむ。


――霜月修介は、信じてくれなかった。


彼は数枚の資料を引き出し、遥香の前に突きつけた。

「たとえ誰かが改ざんしたにせよ、ここにある署名は……お前のものだな?」


「はい」

遥香は静かに頷いた。


「ならば、お前には免れられない責任がある」


修介の声は冷酷だった。

「三日やる。それまでにこの件を処理しろ。さもなければ、会社として正式に告訴する」


遥香は彼を一瞥し――そして静かに目を伏せた。

少しだけ、胸の奥が痛んだ。

だが、それもすぐに押し込める。


彼が本当に知らないはずはない。

この件に、遥香が関与していないことなど――


けれど、霜月修介はもともと、そういう男だった。

恩も情も、私情も通用しない男。


遥香が彼のもとを去ると決め、強く突っぱねたその瞬間から――

こうなるのは、想定の範囲内だった。


だから、失望ではない。


ただ――

この罪だけは、絶対に被らない。


「わかりました」

遥香はまっすぐに答えた。

その目に、曇りはなかった。


霜月修介の目がわずかに細くなる。

その堂々とした態度が、妙に癇に障った。


無言で踵を返すと、彼は自室へと戻っていった。

白石紗月も当然のように後を追う。

去り際、彼女は遥香に勝ち誇ったような目を向けた。

――まるで、「勝者は私」と言わんばかりに。



その日のうちに、「真野遥香が会社を裏切った」という噂は青波全体に広まった。


現在、遥香にはオフィスがない。

ノートパソコンを片手に、資料室へ向かう。


アルトロン株式会社との共同案件は、彼女が一から手掛けたものだった。


何重にもチェックを重ねた完璧な企画書。

現地調査だって、彼女が直接足を運んでいた。


この案件――

内容さえ改ざんされていなければ、アルトロン株式会社が蹴るはずがなかった。


……もったいない。


昼休み。

遥香はコンビニで買ったサンドイッチを手に、ビルの隅のベンチに腰掛ける。

スマホを手に取り、小野葵からのLINEに返信していた――が。


電話が鳴った。

「絶対調べなきゃダメでしょ!絶対に、犯人を突き止めるのよ!」

小野葵は、電話口で烈火の如く叫んだ。


「……犯人を見つけて、それで?」


「清白を証明する!ついでに、ボコボコにしてやる!!」


「でも、もうこの案件……飛んじゃったよね」


遥香の声は静かだった。

「半年間、たくさんの人が努力した。こんな結末じゃ、納得できない」


「――何か考えてるでしょ?」


「この手で犯人を捕まえる。そしてこの案件、絶対に取り返す」

遥香の声には、凛とした決意があった。


彼女は、波風を立てることはしない。

けれど、黙って理不尽を飲み込む女でもない。


「何を手伝えばいい?」


「明日の夜、クルーズパーティーがある。

アルトロン株式会社の会長・羽賀正一も出席するらしい。

私は企画書を持って、彼に直談判する」


「そのパーティー、知ってる!東京のセレブがみんな狙ってるやつね。招待状は……たぶん取れる。でも、羽賀会長って厳しいらしいよ?」


――もう一度、チャンスはもらえないかもしれない。


「やってみなきゃ、わからないでしょ?」


「よし!全力で応援する!!」


「終わったら、打ち上げしよう。私のおごりね」


「きゃー♡やったー!てか、ドレス忘れちゃダメよ?今から迎えに行くから、ショッピングよ!!」


その後も、小野葵は電話の向こうで叫んでいた。


「遥香、あんたって本当は高嶺の花なんだからさ!いい加減、あの弱いうさぎごっこ、やめなさいよね!」


遥香は笑いながら答えた。

「うん、もうやめるよ」



青波の本社ビル、三階の資料室。


大きなガラス窓の外で、霜月修介は静かに立っていた。

その目に映るのは――


笑みを浮かべて、電話をする遥香の姿。

彼女があんな風に笑った顔を、自分は見たことがあったか?

――いや、ない。


心の奥で、何かがざわついた。


「なあ修介。さすがにやりすぎじゃないか?あの契約ミス、彼女がやるような初歩的なミスか?あの子、あんなに小さいのに、寒空の下で一人……あれ、ちょっとかわいそうだろ」


隣に立つのは、社外パートナーの赤城雅人だった。


「彼女が、俺の庇護を拒んだ。それがすべてだ」

修介の声は、まるで氷のようだった。

「……かわいそう? ――自業自得だ」


赤城雅人は何も言えなかった。


そのとき――

一台の黒いベンツSUVが、ゆっくりとビル前に停まった。


遥香は笑いながら立ち上がり、スキップでもしそうな勢いで駆け寄っていく。


「……おいおい、あの子、まさか男でもできたのか?だからあんなにあっさり、お前と切ったのか?」


赤城雅人がわざとらしくからかう。

修介は無言のまま、無表情でその場を離れた。



翌日の夕暮れ。

東京湾の岸辺に、ライトアップされた豪華クルーズ船が停泊していた。

宝石のようなドレスに身を包んだ招待客たちが、次々と乗船していく。


中には、財閥の御曹司、芸能人、有名モデルの姿もあった。


真野遥香と小野葵は、すでに船上にいた。


ただし――

彼女たちの手にあるのは、招待状ではなく「スタッフ証」。


「ごめん、今回ばかりは本当に無理だった!このパーティー、想像以上に人気で……」


「いいよ、上がれただけで充分」


遥香は静かに笑った。

手元のバッグには、完璧に整えた企画書がある。


「パーティーが始まったら、ドレスに着替えて、羽賀会長を探しなさい。こっちはドレス、バッグにちゃんと入れてあるから!

いいか、今夜は羽賀の契約も取って、ついでに金持ちのイケメンでも釣ってこい!」


遥香は思わず吹き出した。

――その“イケメン”、もし父親になる覚悟があるなら、ね。


彼女のお腹の中には、もう一つの命がいるのだから。



やがて、パーティーが始まった。


遥香は人目を避けて、船内の小さな窓から抜け出す。

高いヒールを履き、静かに着地したその瞬間――


「……っくくっ」

背後から、くすくすと笑い声が聞こえた。


振り返ると、そこにいたのは――


栗色のくるくるパーマのハーフの青年。

手に持ったシャンパングラスが、微かに揺れている。


「えっと……」


遥香は眉を寄せ、警戒の視線を向ける。


青年は、窓と遥香を交互に見て――ぽつりと言った。


「……すっごく、綺麗。まるで……おとぎ話から逃げ出してきた、お姫様みたい!」


「…はい?」


遥香は、金色のマーメイドドレスをまとい、腰まであるウェーブの髪を優雅に揺らしていた。


白く透き通る肌、整った顔立ち。完璧なメイク。


月光の下――星々の瞬く空の下で、

振り返ったその一瞬。


海風が、彼女の髪をふわりと舞わせる。


その光景を目の当たりにした青年の瞳に、映ったのは――


あまりにも美しい、“現実離れした”女の姿だった。


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