「……大丈夫だ」
修介は、紗月の肩をそっと抱きながら、淡々と慰めた。
紗月は、彼の背中に隠れるように身を縮め、怯えたふりをして遥香を見ていた。
遥香はそんな演技を無言で見つめる。
「真野遥香」
霜月修介の声が、冷たく突き刺さった。
「彼女にはお前を裁く資格はないが――俺にはあるだろう?」
遥香の目が、ふいに揺れた。
涙が、じんわりと目頭ににじむ。
――霜月修介は、信じてくれなかった。
彼は数枚の資料を引き出し、遥香の前に突きつけた。
「たとえ誰かが改ざんしたにせよ、ここにある署名は……お前のものだな?」
「はい」
遥香は静かに頷いた。
「ならば、お前には免れられない責任がある」
修介の声は冷酷だった。
「三日やる。それまでにこの件を処理しろ。さもなければ、会社として正式に告訴する」
遥香は彼を一瞥し――そして静かに目を伏せた。
少しだけ、胸の奥が痛んだ。
だが、それもすぐに押し込める。
彼が本当に知らないはずはない。
この件に、遥香が関与していないことなど――
けれど、霜月修介はもともと、そういう男だった。
恩も情も、私情も通用しない男。
遥香が彼のもとを去ると決め、強く突っぱねたその瞬間から――
こうなるのは、想定の範囲内だった。
だから、失望ではない。
ただ――
この罪だけは、絶対に被らない。
「わかりました」
遥香はまっすぐに答えた。
その目に、曇りはなかった。
霜月修介の目がわずかに細くなる。
その堂々とした態度が、妙に癇に障った。
無言で踵を返すと、彼は自室へと戻っていった。
白石紗月も当然のように後を追う。
去り際、彼女は遥香に勝ち誇ったような目を向けた。
――まるで、「勝者は私」と言わんばかりに。
◇
その日のうちに、「真野遥香が会社を裏切った」という噂は青波全体に広まった。
現在、遥香にはオフィスがない。
ノートパソコンを片手に、資料室へ向かう。
アルトロン株式会社との共同案件は、彼女が一から手掛けたものだった。
何重にもチェックを重ねた完璧な企画書。
現地調査だって、彼女が直接足を運んでいた。
この案件――
内容さえ改ざんされていなければ、アルトロン株式会社が蹴るはずがなかった。
……もったいない。
◇
昼休み。
遥香はコンビニで買ったサンドイッチを手に、ビルの隅のベンチに腰掛ける。
スマホを手に取り、小野葵からのLINEに返信していた――が。
電話が鳴った。
「絶対調べなきゃダメでしょ!絶対に、犯人を突き止めるのよ!」
小野葵は、電話口で烈火の如く叫んだ。
「……犯人を見つけて、それで?」
「清白を証明する!ついでに、ボコボコにしてやる!!」
「でも、もうこの案件……飛んじゃったよね」
遥香の声は静かだった。
「半年間、たくさんの人が努力した。こんな結末じゃ、納得できない」
「――何か考えてるでしょ?」
「この手で犯人を捕まえる。そしてこの案件、絶対に取り返す」
遥香の声には、凛とした決意があった。
彼女は、波風を立てることはしない。
けれど、黙って理不尽を飲み込む女でもない。
「何を手伝えばいい?」
「明日の夜、クルーズパーティーがある。
アルトロン株式会社の会長・羽賀正一も出席するらしい。
私は企画書を持って、彼に直談判する」
「そのパーティー、知ってる!東京のセレブがみんな狙ってるやつね。招待状は……たぶん取れる。でも、羽賀会長って厳しいらしいよ?」
――もう一度、チャンスはもらえないかもしれない。
「やってみなきゃ、わからないでしょ?」
「よし!全力で応援する!!」
「終わったら、打ち上げしよう。私のおごりね」
「きゃー♡やったー!てか、ドレス忘れちゃダメよ?今から迎えに行くから、ショッピングよ!!」
その後も、小野葵は電話の向こうで叫んでいた。
「遥香、あんたって本当は高嶺の花なんだからさ!いい加減、あの弱いうさぎごっこ、やめなさいよね!」
遥香は笑いながら答えた。
「うん、もうやめるよ」
◇
青波の本社ビル、三階の資料室。
大きなガラス窓の外で、霜月修介は静かに立っていた。
その目に映るのは――
笑みを浮かべて、電話をする遥香の姿。
彼女があんな風に笑った顔を、自分は見たことがあったか?
――いや、ない。
心の奥で、何かがざわついた。
「なあ修介。さすがにやりすぎじゃないか?あの契約ミス、彼女がやるような初歩的なミスか?あの子、あんなに小さいのに、寒空の下で一人……あれ、ちょっとかわいそうだろ」
隣に立つのは、社外パートナーの赤城雅人だった。
「彼女が、俺の庇護を拒んだ。それがすべてだ」
修介の声は、まるで氷のようだった。
「……かわいそう? ――自業自得だ」
赤城雅人は何も言えなかった。
そのとき――
一台の黒いベンツSUVが、ゆっくりとビル前に停まった。
遥香は笑いながら立ち上がり、スキップでもしそうな勢いで駆け寄っていく。
「……おいおい、あの子、まさか男でもできたのか?だからあんなにあっさり、お前と切ったのか?」
赤城雅人がわざとらしくからかう。
修介は無言のまま、無表情でその場を離れた。
◇
翌日の夕暮れ。
東京湾の岸辺に、ライトアップされた豪華クルーズ船が停泊していた。
宝石のようなドレスに身を包んだ招待客たちが、次々と乗船していく。
中には、財閥の御曹司、芸能人、有名モデルの姿もあった。
真野遥香と小野葵は、すでに船上にいた。
ただし――
彼女たちの手にあるのは、招待状ではなく「スタッフ証」。
「ごめん、今回ばかりは本当に無理だった!このパーティー、想像以上に人気で……」
「いいよ、上がれただけで充分」
遥香は静かに笑った。
手元のバッグには、完璧に整えた企画書がある。
「パーティーが始まったら、ドレスに着替えて、羽賀会長を探しなさい。こっちはドレス、バッグにちゃんと入れてあるから!
いいか、今夜は羽賀の契約も取って、ついでに金持ちのイケメンでも釣ってこい!」
遥香は思わず吹き出した。
――その“イケメン”、もし父親になる覚悟があるなら、ね。
彼女のお腹の中には、もう一つの命がいるのだから。
◇
やがて、パーティーが始まった。
遥香は人目を避けて、船内の小さな窓から抜け出す。
高いヒールを履き、静かに着地したその瞬間――
「……っくくっ」
背後から、くすくすと笑い声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは――
栗色のくるくるパーマのハーフの青年。
手に持ったシャンパングラスが、微かに揺れている。
「えっと……」
遥香は眉を寄せ、警戒の視線を向ける。
青年は、窓と遥香を交互に見て――ぽつりと言った。
「……すっごく、綺麗。まるで……おとぎ話から逃げ出してきた、お姫様みたい!」
「…はい?」
遥香は、金色のマーメイドドレスをまとい、腰まであるウェーブの髪を優雅に揺らしていた。
白く透き通る肌、整った顔立ち。完璧なメイク。
月光の下――星々の瞬く空の下で、
振り返ったその一瞬。
海風が、彼女の髪をふわりと舞わせる。
その光景を目の当たりにした青年の瞳に、映ったのは――
あまりにも美しい、“現実離れした”女の姿だった。