真野遥香は、ゆっくりと視線を上げた。
目の前に立つ、白石紗月を見つめる。
――似ている。
白川詩織に、驚くほど似ていた。
遥香なんかより、ずっと。
「承知しました、社長」
遥香は落ち着いた声で答えた。
「遥香さん、よろしくお願いしますっ!私、ちゃんと頑張って、早く覚えますねっ!」
白石紗月は、ぶりっこ口調で笑顔を見せる。
「……お気遣いなく」
遥香は、あくまで礼儀正しく返した。
その態度には、嫉妬も未練も見えない。
――“興味ない”
修介の脳裏に、不意にそんな言葉が浮かんだ 。
理由のない苛立ちが、腹の底から湧いてくる。
「……コーヒー」
吐き捨てるように命じて、修介は眉間にしわを寄せたまま、執務室へと入っていった。
◇
しばらくして――給湯室。
「白石さん、社長はコーヒーの味にかなりこだわる方ですので……」
遥香が注意事項を伝えようとした、まさにその時だった。
「遥香さん、霜月さまの前には、もう出てこない方がいいと思いますよ?
彼、あなたを見ると気分が悪くなるみたいだし。今は私の男ですから。彼が辛そうだと、私、胸が痛くなっちゃう♡」
にこやかな顔が、あっという間に一変する。
白石紗月は腕を組み、傲慢な態度で遥香を見下ろした。
遥香は動じず、手元でコーヒー豆を丁寧に挽きながら、落ち着いた口調で返す。
「……もし私に早く消えてほしいのなら、余計な口を叩かず、さっさと覚えたほうがいいですわ」
その余裕ある言葉に、紗月は奥歯を食いしばった。
――予定が狂った。
本当は遥香を挑発して、手でも出させて、修介に見せつけるつもりだったのに……!
結果、遥香は“どうでもいい”とでも言うように動じない。
紗月は苛立ちに震える。
――数ヶ月前から、彼女は霜月修介のそばに送り込まれていた。
なのに、あの女がずっと邪魔をしていた。
自分のほうが白川詩織に似ているのに、なぜ彼は、あの女を手放さなかったのか。
しかも――修介は今に至るまで、彼女の体に一度も触れてこなかった。
時折、じっと見つめてくる視線はあったが、優しさも、温もりも、そこにはなかった。
その原因が――全部、真野遥香だと信じている。
「――ただの、飽きられて捨てられた女のくせに。なにを気取ってんのよ」
その声は、侮蔑に満ちていた。
遥香は、そんな紗月を静かに見つめ返した。
その目は、まるで相手の奥底まで見通すような、鋭い光を宿している。
「……今日が初対面のはずよね、白石さん?
なのに、どうしてそんなに私を憎んでるの?」
「べ、別に、そんなことないわよ!」
紗月は、咄嗟に反論する。
だが、遥香は構わず、淡々と、けれど鋭く言い放った。
「……もしかして、まだ抱かれてないから、かしら?」
「なっ……! なに言ってんのよ、アンタ!!」
的を射抜かれた紗月が、思わず声を荒げた。
「秘書室のデスクの上に、二冊のノートがありますわ」
遥香はさらりと言った。
「一冊は、社長秘書マニュアル。
もう一冊は――霜月修介の“愛人マニュアル”」
「……は?」
「全部、社長の好みが書いてある。仕事の引き継ぎって、そういうことでしょう?」
遥香はにこりと微笑んだ。
「……白石さん。私は、あなたが思っているほど霜月修介に執着していない。これは“ただの仕事”だったわ。
仕事に対して、私はいつだって真面目。引き継ぐべきことは、きちんと渡すつもり。
……あとはあなたの実力次第よ。彼を満足させられるかどうかは」
紗月は、罠にかかったネズミのように、遥香を睨みつけた。
本気か、嘘か――測りかねる。
しばらくの沈黙の後、低く唸るように言った。
「……言ったからには、ちゃんとやりなさいよ。
じゃなきゃ、タダじゃおかないから」
遥香は、淹れたばかりのコーヒーを紗月の目の前にそっと置いた。
そして、優しい笑みを浮かべながら言った。
「白石さん。あなたもさっきいろいろ言ってくれたから、私もひとこと忠告するわ。
今日は見逃してあげる。
これからは、好きなだけ“霜月さま”に媚びを売ればいい。
――ただし、これ以上私にちょっかい出すなら……後悔するわよ」
その瞳の奥には、確かな“本気”があった。
紗月は、なぜか背筋に冷たいものが走った。
(……おかしい。聞いてた話と違う…。この女、こんな怖かったっけ?)
◇
そのとき。
「真野さん、営業部の神崎部長が来られました!お呼びです!」
外から声が聞こえた。
遥香は机を軽く叩いて合図した。
「なにボーッとしてるの? そのコーヒー、社長に持っていきなさい」
そして、何もなかったかのように給湯室を後にした。
◇
「真野さん!」
廊下を歩く彼女に、声をかけてきたのは――営業一課部長、神崎蓮だった。
「君……まさか退職間際に、あんな大ポカやらかすとは思わなかったよ!」
彼は開口一番、怒鳴りつけてきた。
「もし、先方との打ち合わせを前倒ししてなかったら……あの契約書はそのまま提出されて、俺たちの営業チームは地獄行きだったぞ!
……まさか競合他社に金でも貰って、契約潰そうとしたんじゃないだろうな?」
神崎部長は、昔から短気で真っ直ぐな性格だった。
数ヶ月前に、遥香と共同で仕事をしていたこともある。
「神崎さん、少し落ち着いていただけますか?何があったんですか?」
遥香は静かに問い返した。
「アルトロン株式会社との契約書。あの内容、君が提供したんだろ?」
「ええ、私がチェックして、問題がないことを確認してから、営業部に渡しました」
「嘘つけっ!」
神崎蓮が机をバンと叩いた。
「この契約、十数億の案件だったんだぞ!?俺たちのチーム、半年もかけて準備してきたんだ!なのに――これを見てみろ!」
彼は一束の書類を遥香の前に叩きつけた。
赤いペンでぐるぐるとマークされた箇所。
全部で6ヶ所。
しかも――2つは小数点の位置がズレていた。
遥香は静かに書類をめくり、目を通した。
そして、きっぱりと言った。
「……私の手を離れた時点で、こんなんじゃなかったわ」
「つまり、俺たち営業部が“わざと”改ざんしたって言いたいのか!?」
そう言って、神崎蓮は再び机を叩く。
◇
「何の騒ぎだ」
低く響いた声とともに、霜月修介が執務室から現れた。
「社長!」
神崎蓮はすぐに駆け寄り、状況を説明し始めた。
その横では、白石紗月が目を丸くして見守っていた。
「……神崎部長、遥香さん、最近ちょっと大変そうだったんです。家のことで、精神的に……
だから、きっとそのせいでミスが…!
ひとつ失敗しても、次があります!あんまり怒ったら……体に毒ですよ?」
可愛く心配するように見せかけて――
紗月の目は、遥香を刺すように見ていた。
遥香は、無言で彼女を見返した。
さっきの忠告――まるで聞いてなかったらしい。
「……白石さん。根拠も証拠もなく、他人を犯人に仕立てる気?」
その声には、冷たい鋼の刃のような鋭さがあった。
「ま、待って!遥香さん、ちがっ……!私は助けようと思って……!
霜月さま、信じて!私は、ただ……!」
霜月修介の目が、じっと遥香に向けられる。
その視線は、これまでのものとは違っていた。
五年間、“小動物”のように従順だったはずの女。
――今、その仮面を剥ぎ捨てて、“牙”をむいた。
これが――
本当の真野遥香なのか。