真野遥香は、一晩中ほとんど眠れなかった。
そして翌朝、二日間の休暇を申請した。
早朝。
彼女は病院を再訪し、再度検査を受けた。
――妊娠、八週目。
思い返せば……ちょうど二ヶ月前。
霜月修介の誕生日。
その夜、確かに避妊が曖昧だった瞬間があった。
……たった一度。
一度だけ、なのに。
「お嬢さん、あなたは妊娠しにくい体質のようです。
この子、できれば……産んだ方がいいかもしれませんね」
医師は、誰も付き添っていない彼女の疲れ切った顔を見て、優しく、そして遠回しに伝えた。
――妊娠しにくい体質で、一発で命中。
これを“幸運”と呼ぶか、“不運”と呼ぶか……。
遥香の胸には、苦味だけが残った。
「……考えてみます」
そう言って、病院を出た。
秋風が身を切るように冷たかった。
しばらく、歩道に立ち尽くす。
そのあとで、彼女は一枚の航空券を買った。
行き先は――橘市。
◇
飛行機が着陸すると、
遥香は花屋でバラの花束と、紫のデイジー、そして高級な酒を二本購入した。
タクシーに乗り込み、向かった先は――西山霊園。
霊園に到着した瞬間、ぽつぽつと雨が降り始めた。
それを見た管理人が、傘を手にして駆け寄ってきた。
「遥香ちゃん……今日は命日じゃないよね?どうかしたの?」
「……ちょっと、会いに来たくなっただけです」
遥香は礼儀正しく微笑みながら答えた。
軽く世間話を交わしたあと、酒を一本、管理人に手渡し、もう一本を手に傘を差しながら、霊園の奥へと進んでいった。
管理人は、その細い背中を見送って、深いため息をついた。
「……親戚かい?」
隣で掃除をしていたおばちゃんが尋ねた。
「いや……」
管理人は首を振る。
「可哀想な子さ。四、五歳のときに母親を送って、十歳くらいで祖父を。……半年前には祖母さんを送ったんだ。葬儀の日、一日中、何も食べずに墓前で跪いてたよ……」
◇
遥香は迷うことなく、墓を見つけた。
祖父と祖母は同じ墓に、そしてすぐ隣に母の墓。
バラは祖父母に――祖父は毎日、祖母にバラを贈っていた。
紫のデイジーは、母が好きだった花。
最後に、祖父の墓前に酒を注ぐ。
「……おばあちゃん、おじいちゃん、お母さん――
今日は、ちょっと話があって来たの。
……妊娠したの。
本来なら、産むべきじゃなかった。
でも、もうこの世に私の家族は誰もいない……この子が、唯一の血のつながった家族なの」
遥香は深く息を吸い、静かに、しかし強い決意を持って告げた。
「お医者さんは、私が妊娠しにくい体質だって。だから――決めた。産むよ」
一拍おいて、微笑んだ。
「……どうか、無事に元気に生まれてくるよう、見守っててね」
◇
東京証券取引所ビル内――青波グループ代表執務室。
その朝、社内は妙なざわつきに包まれていた。
真野秘書が辞めるというニュースは、昨日のうちに全館に広まっていた。
社内の誰もが知っている。
あの扱いにくい霜月社長を、唯一手なずけられるのが、真野秘書だったと。
そして今朝。
彼女の後任がやってきた。
アシスタントの森田が、その新しい秘書を直接、真野の秘書室に案内した。
社内は驚きと戸惑いの声で溢れる。
なにより、その“新秘書・白石紗月”の顔が――
真野遥香と、五、六割も似ている。
もともと社内では、霜月社長と真野秘書の関係についていろいろと噂されていた。
だが、真野が辞めた直後に“そっくりな女性”が秘書になるなど――
深読みせずにはいられない。
◇
霜月修介は朝から海外事業担当部門と会議しにいった。
戻ってきたのは、ちょうど正午を過ぎた頃だった。
オフィスに入るなり、白石紗月が涙目で近づいてくる。
「霜月さま……私、真野秘書のオフィスを使ってるから、嫌われちゃったのかな?だから教えてくれないの?」
霜月は眉をひそめ、森田に目を向けた。
「……真野は?」
――森田、内心で「うわっ」と叫ぶ。
見た目は清楚、でもやることは明らかな腹黒かまってちゃん。
「社長、真野さんは……実家の都合で、急遽、帰省されました。……今朝、会議の準備でバタバタしてまして、ご報告が遅れてすみません!」
「えっ……急いで帰っちゃうなんて。大変なことがあったのかな……?」
白石紗月は、まるで無垢な子ウサギのように、しおらしく呟く。
霜月は、彼女からそっと距離を取った。
「彼女が戻るまで、今日は帰っててくれ」
空気読んでという無言の圧。
察しのいい白石紗月は、これ以上引くと逆効果だと悟り、甘えた声を少しだけ残して、そそくさと退室した。
会社を出た瞬間。
彼女の顔は、別人のように豹変する。
――睨みつけたのは、秘書室。
(あの女……わざとよ。
あたしに嫌がらせするために、急に“実家の都合”とか言って……)
白石紗月は奥歯をかみしめた。
(いいわ、真野遥香――あんたが仕掛けたこの戦い、絶対に負けない!)
◇
「社長、午後三時から立花建設の社長とゴルフのご予定が――」
森田司は、淡々とスケジュールを報告する。
だが、その隣で。
霜月修介は、ひどく不機嫌そうだった。
口にしたコーヒーを一口。
――顔がさらに曇った。
「……真野に電話しろ。今すぐ戻って、引き継ぎをしろと伝えろ」
――煮え切らないコーヒー一杯すら、きちんと出せないこの無能集団。
話にならない。
「……はいっ!」
森田は即座にスマホを取り出す。
そんな彼を横目に見ながら――
霜月修介は、眉間にしわを寄せる。
どうせ祖母関連の急用だろう。
――思えば、彼女、もう何ヶ月も帰省していなかったな。
「……もういい」
彼は苛立たしげにカップを押しのけ、手元の資料を取り上げた。
森田は気配を殺して、そっと部屋の隅へ移動。
スマホでメッセージを送った。
(【#号泣】真野さん……社長が一日中ずっと不機嫌です……ご用事が落ち着いたらなるべく早く戻ってきてください、マジで助けて……!)
◇
霊園からの帰り道。
行く当てもない遥香は、メッセージを見てしばらく考えた。
……早く引き継いで、早く離れた方がいい。
この子のことだけは、絶対に霜月修介に知られてはいけない。
あの人は、自分みたいな“人間”が彼の子の母にすることを、絶対に許すはずがない。
だからこそ――
すべてを終わらせて、青波を、そして霜月修介を、遠く遠く離れないと。
遥香はすぐに飛行機で東京へ戻った。
◇
翌朝。
真野遥香は定刻どおり、出社した。
職員たちは彼女の姿を見て、まるで救世主を見るような目つきになる。
「真野さん……なんで辞めちゃうんですか!?いなくなったら、私たち……どうすればいいんですかっ!」
「そうですよ!社長の機嫌、めっちゃ怖いんです!昨日なんて、呼吸も控えめにしてたのに!」
「うぅ……お願いです、辞めないでください!真野さんがいないと、私たち生きていけませんっ!」
賑やかな空気の中――
専用エレベーターのランプが点灯した。
全員が一気に表情を引き締め、整列して出迎え体勢に入る。
やがて、ドアが開く。
漆黒のオーダースーツを着た修介が、紗月を連れて現れた。
「おはようございます、社長」
一同が揃って挨拶する。
遥香も、その最後列で淡々と頭を下げた。
彼女の服装は、以前と同じ黒と白のセットアップ。
肩までの長い髪をゆるやかに下ろしている。
けれど、その顔には、もう“柔らかさ”はない。
――ただ、静かで、感情の読めない表情。
霜月修介は、紗月を伴って遥香の前まで来ると、無機質な声で告げた。
「……新しい秘書の白石紗月だ。しっかり教えろ」