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第3話 新しい秘書


真野遥香は、一晩中ほとんど眠れなかった。

そして翌朝、二日間の休暇を申請した。


早朝。

彼女は病院を再訪し、再度検査を受けた。


――妊娠、八週目。


思い返せば……ちょうど二ヶ月前。

霜月修介の誕生日。


その夜、確かに避妊が曖昧だった瞬間があった。


……たった一度。

一度だけ、なのに。


「お嬢さん、あなたは妊娠しにくい体質のようです。

この子、できれば……産んだ方がいいかもしれませんね」


医師は、誰も付き添っていない彼女の疲れ切った顔を見て、優しく、そして遠回しに伝えた。

――妊娠しにくい体質で、一発で命中。


これを“幸運”と呼ぶか、“不運”と呼ぶか……。


遥香の胸には、苦味だけが残った。


「……考えてみます」

そう言って、病院を出た。


秋風が身を切るように冷たかった。

しばらく、歩道に立ち尽くす。


そのあとで、彼女は一枚の航空券を買った。

行き先は――橘市。



飛行機が着陸すると、

遥香は花屋でバラの花束と、紫のデイジー、そして高級な酒を二本購入した。


タクシーに乗り込み、向かった先は――西山霊園。


霊園に到着した瞬間、ぽつぽつと雨が降り始めた。

それを見た管理人が、傘を手にして駆け寄ってきた。



「遥香ちゃん……今日は命日じゃないよね?どうかしたの?」

「……ちょっと、会いに来たくなっただけです」


遥香は礼儀正しく微笑みながら答えた。


軽く世間話を交わしたあと、酒を一本、管理人に手渡し、もう一本を手に傘を差しながら、霊園の奥へと進んでいった。


管理人は、その細い背中を見送って、深いため息をついた。

「……親戚かい?」


隣で掃除をしていたおばちゃんが尋ねた。

「いや……」


管理人は首を振る。


「可哀想な子さ。四、五歳のときに母親を送って、十歳くらいで祖父を。……半年前には祖母さんを送ったんだ。葬儀の日、一日中、何も食べずに墓前で跪いてたよ……」



遥香は迷うことなく、墓を見つけた。


祖父と祖母は同じ墓に、そしてすぐ隣に母の墓。

バラは祖父母に――祖父は毎日、祖母にバラを贈っていた。


紫のデイジーは、母が好きだった花。


最後に、祖父の墓前に酒を注ぐ。


「……おばあちゃん、おじいちゃん、お母さん――

今日は、ちょっと話があって来たの。


……妊娠したの。

本来なら、産むべきじゃなかった。

でも、もうこの世に私の家族は誰もいない……この子が、唯一の血のつながった家族なの」


遥香は深く息を吸い、静かに、しかし強い決意を持って告げた。


「お医者さんは、私が妊娠しにくい体質だって。だから――決めた。産むよ」


一拍おいて、微笑んだ。

「……どうか、無事に元気に生まれてくるよう、見守っててね」



東京証券取引所ビル内――青波グループ代表執務室。

その朝、社内は妙なざわつきに包まれていた。


真野秘書が辞めるというニュースは、昨日のうちに全館に広まっていた。


社内の誰もが知っている。

あの扱いにくい霜月社長を、唯一手なずけられるのが、真野秘書だったと。


そして今朝。

彼女の後任がやってきた。


アシスタントの森田が、その新しい秘書を直接、真野の秘書室に案内した。


社内は驚きと戸惑いの声で溢れる。

なにより、その“新秘書・白石紗月”の顔が――

真野遥香と、五、六割も似ている。


もともと社内では、霜月社長と真野秘書の関係についていろいろと噂されていた。


だが、真野が辞めた直後に“そっくりな女性”が秘書になるなど――

深読みせずにはいられない。



霜月修介は朝から海外事業担当部門と会議しにいった。


戻ってきたのは、ちょうど正午を過ぎた頃だった。

オフィスに入るなり、白石紗月が涙目で近づいてくる。


「霜月さま……私、真野秘書のオフィスを使ってるから、嫌われちゃったのかな?だから教えてくれないの?」

霜月は眉をひそめ、森田に目を向けた。

「……真野は?」


――森田、内心で「うわっ」と叫ぶ。

見た目は清楚、でもやることは明らかな腹黒かまってちゃん。


「社長、真野さんは……実家の都合で、急遽、帰省されました。……今朝、会議の準備でバタバタしてまして、ご報告が遅れてすみません!」

「えっ……急いで帰っちゃうなんて。大変なことがあったのかな……?」


白石紗月は、まるで無垢な子ウサギのように、しおらしく呟く。


霜月は、彼女からそっと距離を取った。

「彼女が戻るまで、今日は帰っててくれ」


空気読んでという無言の圧。


察しのいい白石紗月は、これ以上引くと逆効果だと悟り、甘えた声を少しだけ残して、そそくさと退室した。


会社を出た瞬間。

彼女の顔は、別人のように豹変する。


――睨みつけたのは、秘書室。


(あの女……わざとよ。

あたしに嫌がらせするために、急に“実家の都合”とか言って……)


白石紗月は奥歯をかみしめた。

(いいわ、真野遥香――あんたが仕掛けたこの戦い、絶対に負けない!)



「社長、午後三時から立花建設の社長とゴルフのご予定が――」

森田司は、淡々とスケジュールを報告する。


だが、その隣で。

霜月修介は、ひどく不機嫌そうだった。


口にしたコーヒーを一口。

――顔がさらに曇った。


「……真野に電話しろ。今すぐ戻って、引き継ぎをしろと伝えろ」


――煮え切らないコーヒー一杯すら、きちんと出せないこの無能集団。

話にならない。


「……はいっ!」


森田は即座にスマホを取り出す。


そんな彼を横目に見ながら――

霜月修介は、眉間にしわを寄せる。

どうせ祖母関連の急用だろう。


――思えば、彼女、もう何ヶ月も帰省していなかったな。


「……もういい」


彼は苛立たしげにカップを押しのけ、手元の資料を取り上げた。

森田は気配を殺して、そっと部屋の隅へ移動。

スマホでメッセージを送った。


(【#号泣】真野さん……社長が一日中ずっと不機嫌です……ご用事が落ち着いたらなるべく早く戻ってきてください、マジで助けて……!)


霊園からの帰り道。

行く当てもない遥香は、メッセージを見てしばらく考えた。


……早く引き継いで、早く離れた方がいい。

この子のことだけは、絶対に霜月修介に知られてはいけない。


あの人は、自分みたいな“人間”が彼の子の母にすることを、絶対に許すはずがない。



だからこそ――

すべてを終わらせて、青波を、そして霜月修介を、遠く遠く離れないと。

遥香はすぐに飛行機で東京へ戻った。



翌朝。

真野遥香は定刻どおり、出社した。


職員たちは彼女の姿を見て、まるで救世主を見るような目つきになる。


「真野さん……なんで辞めちゃうんですか!?いなくなったら、私たち……どうすればいいんですかっ!」

「そうですよ!社長の機嫌、めっちゃ怖いんです!昨日なんて、呼吸も控えめにしてたのに!」

「うぅ……お願いです、辞めないでください!真野さんがいないと、私たち生きていけませんっ!」


賑やかな空気の中――

専用エレベーターのランプが点灯した。


全員が一気に表情を引き締め、整列して出迎え体勢に入る。

やがて、ドアが開く。


漆黒のオーダースーツを着た修介が、紗月を連れて現れた。


「おはようございます、社長」

一同が揃って挨拶する。


遥香も、その最後列で淡々と頭を下げた。


彼女の服装は、以前と同じ黒と白のセットアップ。

肩までの長い髪をゆるやかに下ろしている。


けれど、その顔には、もう“柔らかさ”はない。

――ただ、静かで、感情の読めない表情。


霜月修介は、紗月を伴って遥香の前まで来ると、無機質な声で告げた。


「……新しい秘書の白石紗月だ。しっかり教えろ」


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