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第2話 やーめた!


赤城雅人が我に返ったとき――

真野遥香の姿は、すでにその場から消えていた。


「……今の、あのキレっキレの姉ちゃん……お前の、あの可愛い秘書かよ?」


驚愕した表情で、赤城は修介を見た。

修介の顔には、どす黒い影が差していた。


その奥底にあるのは――本人さえ気づいていない焦りと混乱。


もちろん、彼は覚えていた。

最初に交わした、遥香との“約束”を。


けれどまさか、彼女が本当に――結婚を理由に去るなんて、思ってもみなかった。


今まで、どれだけ無茶な要求をしても、遥香はすべてを受け入れてくれた。

優しく、従順で、疑問を口にすることすらなかった。


なんで逆らうんだ……?

なんでこの俺に…!!


霜月修介は椅子から立ち上がり、赤城の茶化しも無視して、獣のような気迫で部屋を飛び出した。  



遥香は、一度決めたらすぐに動くタイプ。

辞表を提出したその足で、さっそく業務の引き継ぎに取り掛かろうとしていた。


……が。

戻ったばかりの秘書室に、霜月修介が鋭い冷気を纏って入ってきた。


「……社長、まだ何か?」


遥香の声には、もはや従順さも柔らかさもない。

修介の顔はますます険しくなる。


「……遥香。俺は、十分すぎるほどお前に良くしてきたつもりだ」


彼はじりじりと距離を詰めてくる。

その圧は尋常じゃない。


遥香は本能的に身を引こうとするが――

霜月修介の手が彼女の手首をつかみ、ぐいと引き寄せた。


「……社長、あなたが結婚したら、私は去る。それは最初に決めていたことでしょう?」


遥香は静かに、だがはっきりと言った。


すると霜月修介は鼻で笑った。

「……つまり、金が足りなかったってことか?」


――ビクッ。

遥香の体がこわばる。


さっき、彼が言った言葉が脳裏に蘇る。


『金を出せば、何でも言うこと聞く女だ』


――吐き気が込み上げる。

遥香は腕を振りほどこうと必死に抵抗する。


「放して、霜月修介!」

「遥香、俺にはこんなことをする時間がない。駆け引きするならやめろ。欲しい額を言え」


その声は、冷え切っていた。

掴んだ手首に力が込められ――折れそうなほど、締めつける。


彼は未だに、遥香が離れようとする理由を“金額”だと思っている。


……確かに、遥香も最初は、身を売る気なんてなかった。

けれど――十分すぎる対価を提示されたとき、彼女はこの男のベッドに入った。


だからこそ、霜月修介は信じて疑わない。

『まだ値が足りないだけ。彼女は絶対に、自分を離れない』と。


遥香は、じっと彼を見つめ返す。


……良かった。


五年の間、一度も彼に“愛されている”と勘違いしなかった自分に、心底、ほっとした。


だって――この人のすべての優しさは、“あの人”のためのものだったのだから。


もし、ほんの少しでも錯覚していたら――

今ごろきっと、心をズタズタにされていたに違いない。


「霜月修介。――もう、やめる」

遥香の声は凛としていた。


「……うちの母は、不倫相手に追い詰められて死んだの。私が第三者になるなんて、絶対にありえない」


秘書室には、重苦しい沈黙が落ちる。

二人の呼吸音だけが、静かに響いた。


霜月修介でさえ、ようやく気づいた。

――遥香は、本気で終わらせようとしている。


「……最近、お前はお前の祖母に会いに行ってないだろ。ひと月、休みをやる。……考え直せ」


低く、抑えられた声。

……祖母。


その言葉に、遥香の心は一瞬で冷えた。

――そして、強く、強く、決意を固めた。


「……考える必要なんてありません。もう決めたの」

「遥香ッ!」


ついに、霜月修介の怒気が爆発した。


ここまで譲ってやってるというのに――

どうして、黙って従わない!


「お前なんて、詩織の身代わりにすぎない!

五年も使ってたから、ただ“慣れてただけ”だ!」


そう、ただの習慣。

似た女はいくらでもいる。


でも、今さら面倒なんて――と思っていただけ。


「……それはよく存じてます。私、自分の立場くらい、わかってますから」


遥香の答えは、冷えきっていた。


「――結構」

霜月修介は目を細め、手を離す。


「お前は詩織に一番似てるわけじゃない。けど――誰よりも従順だった。それだけが取り柄だ。

……だが今、その取り柄すらない」


氷のような口調で、霜月修介は背を向けた。


「なら好きにしろ」

「ありがとうございます、社長」


遥香は心の奥に渦巻くいろんな感情をぐっと押し殺し、冷静に答えた。


「業務の引き継ぎは、きちんと行います。ご迷惑はおかけしません」


「後任の秘書を入れる。……それまでに、しっかり教えておけ」

「かしこまりました」


霜月修介はそのまま、冷たい背中を見せて去っていった。

――彼は生まれながらの勝者。


人を振り回すことに、何のためらいもない。


遥香があれほど忠実だったから、少しばかり未練が残っただけ。

――もう、彼が自分を追うことはないだろう。


遥香は、赤くなった手首を見下ろす。


……やっと。――終わった。



会社を出た遥香は、修介の自宅へ向かった。


とはいえ、そこに彼と共にいた時間はほとんどない。

基本的に求められるのは、彼の指定したマンションか、会社の休憩室だったからだ。


ここに置いてある荷物も少ない。

小さなスーツケースひとつで、すべてが収まった。


部屋を出る前、何度も確認した。

――もう、彼の世界には一切関わらない。



自宅に戻ると、遥香は仕事の引き継ぎ資料をまとめ始めた。


秘書業務は、詳細な2冊のノートがあれば十分だろう。


ただ、問題は――

去年から任されていた、大型の基幹建設プロジェクト。


彼女にとって初めての大きな仕事だった。

情熱も、時間も、たくさん注ぎ込んだ。

途中で投げ出すのは、心苦しい。


そんなとき――スマホが鳴った。

着信は、健康診断センターからだった。


思い出した。


親友の小野葵が留学から戻ってきて、やたらと「痩せすぎ!」と騒いで、無理やり健診に連れて行かれたのだった。


きっとその結果だろう。


「はい、真野です」

『こちら、山月健康診断センターです』

「あっ、はい。診断結果、メールで送ってもらえれば大丈夫です」


もう切ろうとした瞬間――

『あのっ!真野さま、妊娠されています!』

「……え?」

『おめでとうございます!妊娠八週目ですよ!』


……頭が真っ白になった。

――嘘。

ありえない。

ちゃんと避妊してたのに……!


『当院では、国内最高水準の産科と、ラグジュアリーな産後ケアセンターも完備しておりまして――』


電話の向こうで、明るい営業トークが続く。

でも、遥香の耳には何ひとつ届かなかった。


「……わかりました。必要になったら、連絡します」


そう言って、電話を切る。


窓の外では、しとしとと秋雨が降っていた。


遥香は、ぼんやりとその景色を眺めていた。

しばらくして、ふと、我に返る。


――冷静になれ。考えろ。


彼女はそっと、まだ平らなお腹に手を当てた。


……この子は。

――産むわけには、いかない。


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