赤城雅人が我に返ったとき――
真野遥香の姿は、すでにその場から消えていた。
「……今の、あのキレっキレの姉ちゃん……お前の、あの可愛い秘書かよ?」
驚愕した表情で、赤城は修介を見た。
修介の顔には、どす黒い影が差していた。
その奥底にあるのは――本人さえ気づいていない焦りと混乱。
もちろん、彼は覚えていた。
最初に交わした、遥香との“約束”を。
けれどまさか、彼女が本当に――結婚を理由に去るなんて、思ってもみなかった。
今まで、どれだけ無茶な要求をしても、遥香はすべてを受け入れてくれた。
優しく、従順で、疑問を口にすることすらなかった。
なんで逆らうんだ……?
なんでこの俺に…!!
霜月修介は椅子から立ち上がり、赤城の茶化しも無視して、獣のような気迫で部屋を飛び出した。
◇
遥香は、一度決めたらすぐに動くタイプ。
辞表を提出したその足で、さっそく業務の引き継ぎに取り掛かろうとしていた。
……が。
戻ったばかりの秘書室に、霜月修介が鋭い冷気を纏って入ってきた。
「……社長、まだ何か?」
遥香の声には、もはや従順さも柔らかさもない。
修介の顔はますます険しくなる。
「……遥香。俺は、十分すぎるほどお前に良くしてきたつもりだ」
彼はじりじりと距離を詰めてくる。
その圧は尋常じゃない。
遥香は本能的に身を引こうとするが――
霜月修介の手が彼女の手首をつかみ、ぐいと引き寄せた。
「……社長、あなたが結婚したら、私は去る。それは最初に決めていたことでしょう?」
遥香は静かに、だがはっきりと言った。
すると霜月修介は鼻で笑った。
「……つまり、金が足りなかったってことか?」
――ビクッ。
遥香の体がこわばる。
さっき、彼が言った言葉が脳裏に蘇る。
『金を出せば、何でも言うこと聞く女だ』
――吐き気が込み上げる。
遥香は腕を振りほどこうと必死に抵抗する。
「放して、霜月修介!」
「遥香、俺にはこんなことをする時間がない。駆け引きするならやめろ。欲しい額を言え」
その声は、冷え切っていた。
掴んだ手首に力が込められ――折れそうなほど、締めつける。
彼は未だに、遥香が離れようとする理由を“金額”だと思っている。
……確かに、遥香も最初は、身を売る気なんてなかった。
けれど――十分すぎる対価を提示されたとき、彼女はこの男のベッドに入った。
だからこそ、霜月修介は信じて疑わない。
『まだ値が足りないだけ。彼女は絶対に、自分を離れない』と。
遥香は、じっと彼を見つめ返す。
……良かった。
五年の間、一度も彼に“愛されている”と勘違いしなかった自分に、心底、ほっとした。
だって――この人のすべての優しさは、“あの人”のためのものだったのだから。
もし、ほんの少しでも錯覚していたら――
今ごろきっと、心をズタズタにされていたに違いない。
「霜月修介。――もう、やめる」
遥香の声は凛としていた。
「……うちの母は、不倫相手に追い詰められて死んだの。私が第三者になるなんて、絶対にありえない」
秘書室には、重苦しい沈黙が落ちる。
二人の呼吸音だけが、静かに響いた。
霜月修介でさえ、ようやく気づいた。
――遥香は、本気で終わらせようとしている。
「……最近、お前はお前の祖母に会いに行ってないだろ。ひと月、休みをやる。……考え直せ」
低く、抑えられた声。
……祖母。
その言葉に、遥香の心は一瞬で冷えた。
――そして、強く、強く、決意を固めた。
「……考える必要なんてありません。もう決めたの」
「遥香ッ!」
ついに、霜月修介の怒気が爆発した。
ここまで譲ってやってるというのに――
どうして、黙って従わない!
「お前なんて、詩織の身代わりにすぎない!
五年も使ってたから、ただ“慣れてただけ”だ!」
そう、ただの習慣。
似た女はいくらでもいる。
でも、今さら面倒なんて――と思っていただけ。
「……それはよく存じてます。私、自分の立場くらい、わかってますから」
遥香の答えは、冷えきっていた。
「――結構」
霜月修介は目を細め、手を離す。
「お前は詩織に一番似てるわけじゃない。けど――誰よりも従順だった。それだけが取り柄だ。
……だが今、その取り柄すらない」
氷のような口調で、霜月修介は背を向けた。
「なら好きにしろ」
「ありがとうございます、社長」
遥香は心の奥に渦巻くいろんな感情をぐっと押し殺し、冷静に答えた。
「業務の引き継ぎは、きちんと行います。ご迷惑はおかけしません」
「後任の秘書を入れる。……それまでに、しっかり教えておけ」
「かしこまりました」
霜月修介はそのまま、冷たい背中を見せて去っていった。
――彼は生まれながらの勝者。
人を振り回すことに、何のためらいもない。
遥香があれほど忠実だったから、少しばかり未練が残っただけ。
――もう、彼が自分を追うことはないだろう。
遥香は、赤くなった手首を見下ろす。
……やっと。――終わった。
◇
会社を出た遥香は、修介の自宅へ向かった。
とはいえ、そこに彼と共にいた時間はほとんどない。
基本的に求められるのは、彼の指定したマンションか、会社の休憩室だったからだ。
ここに置いてある荷物も少ない。
小さなスーツケースひとつで、すべてが収まった。
部屋を出る前、何度も確認した。
――もう、彼の世界には一切関わらない。
◇
自宅に戻ると、遥香は仕事の引き継ぎ資料をまとめ始めた。
秘書業務は、詳細な2冊のノートがあれば十分だろう。
ただ、問題は――
去年から任されていた、大型の基幹建設プロジェクト。
彼女にとって初めての大きな仕事だった。
情熱も、時間も、たくさん注ぎ込んだ。
途中で投げ出すのは、心苦しい。
そんなとき――スマホが鳴った。
着信は、健康診断センターからだった。
思い出した。
親友の小野葵が留学から戻ってきて、やたらと「痩せすぎ!」と騒いで、無理やり健診に連れて行かれたのだった。
きっとその結果だろう。
「はい、真野です」
『こちら、山月健康診断センターです』
「あっ、はい。診断結果、メールで送ってもらえれば大丈夫です」
もう切ろうとした瞬間――
『あのっ!真野さま、妊娠されています!』
「……え?」
『おめでとうございます!妊娠八週目ですよ!』
……頭が真っ白になった。
――嘘。
ありえない。
ちゃんと避妊してたのに……!
『当院では、国内最高水準の産科と、ラグジュアリーな産後ケアセンターも完備しておりまして――』
電話の向こうで、明るい営業トークが続く。
でも、遥香の耳には何ひとつ届かなかった。
「……わかりました。必要になったら、連絡します」
そう言って、電話を切る。
窓の外では、しとしとと秋雨が降っていた。
遥香は、ぼんやりとその景色を眺めていた。
しばらくして、ふと、我に返る。
――冷静になれ。考えろ。
彼女はそっと、まだ平らなお腹に手を当てた。
……この子は。
――産むわけには、いかない。