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第12話 詩織と彼女は、別物


バスルームの中。

シャワーの音が、冷たく響いていた。


秋の夜、外の空気はもうすっかり冷えている。

それでも霜月修介は、冷水を頭から浴び続けていた。


真野遥香の笑顔、仕草、声。


そのすべてが、さっきの彼女――

涙をこぼし、羞恥と恐怖、そして絶望の入り混じった目で彼を見つめていた彼女の姿へと、上書きされていく。


――何がいけなかった?


胸のざわめきが収まらない。


そのとき。

――ピンポーン、ピンポーン


けたたましく、インターホンが鳴り続けた。


舌打ちして水を止め、バスローブを羽織ってドアへ向かう。


開けた先にいたのは――

赤城雅人だった。


「……何の用?」修介が冷たく尋ねる。

「さっきエレベーターのとこで、真野さんに会った」


その名を聞いた瞬間、修介の表情が一層険しくなる。

ドアを閉めようとした、その時――


「スカート破れてた。泣いてた。かなり……ひどい様子だった」

赤城がドアを押さえた。


修介の心が、音を立てて沈んだ。

数秒の沈黙。


「何か、彼女……言ってたか?」低い声で尋ねる。

「お前に……ひどいことされたって」


握った拳が震える。

――ひどいこと?

あれが……“ひどい”?

過去には、もっと酷いこともしてきたのに。


――どうして、今だけダメなんだ?


この違いは何なんだ。

もし、結婚しなければ、すべて元通りになるのか?


そう思った瞬間。

胸がギリリと痛んだ。


――結婚、しない?


ありえない。

ロス家との婚姻は、霜月家にとっても、ビジネスとしての最善だ。


真野遥香のために、それを壊すなんて――馬鹿げてる。

すべては、あいつの“変化”に振り回されてるだけだ。


「……他に言いたいことは?」修介の視線が鋭くなる。


赤城雅人は、少し怯んだ。

彼とは幼馴染だが、最近は――


この男の中にある、暴力性と冷酷さが、ますます強くなっているのを感じていた。


「……いや、別に」

修介はそれを聞くなり、無言でドアを閉めた。


ソファに向かうと、一度躊躇し、別の窓際のソファに腰を下ろす。


やがて。

窓の向こう、夜空に大きな花火が打ち上がる。


杉原俊也のバースデーパーティーの花火だ。


だが、修介の視線は別のものを見つめていた。

カーペットの上に、ひとつのパールのイヤリング。


彼女がつけていた、あれだ――



その頃。

真野遥香は部屋に戻ると、ドレスを脱ぎ捨て、すぐにバスルームへ向かった。


ぬるめのシャワーが肌を流れる。

だが、心の汚れは、どうしても落ちない。


――あのあと、誰かが霜月修介の相手をするのだろう。

たとえば、白石紗月。


きっと今ごろ、ようやく望みが叶ってるんじゃない?


想像してしまったその瞬間――

強烈な吐き気に襲われた。


彼に触れられた場所を、力いっぱいこすった。

赤くなるまで、洗っても、洗っても、洗いきれない。


バスルームを出ると、スマホには着信履歴が。


杉原俊也から二件、小野葵から四件。


葵には「今シャワー浴びてた」とLINEを返す。

そして、少し迷ったあと、杉原俊也に電話をかけ直した。


「……遥香さん!窓のそばに行って!今から花火始まるから!」


疲れていた。

でも――彼の声に、静かに「ありがとう」とだけ返した。


「今、窓際にいる?」

「……はい、いますよ」

「よし、始めて!」


遥香は思わず立ち止まる。


――まさか。

彼、私が見てるのを待ってたの?


ヒュンッ――

ドンッ!


夜空に大輪の花火が広がる。


「遥香さん、どう? きれいでしょ?」


胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。


「……はい、すごく、綺麗…ありがとう、俊也くん」


少し間を置いて、思い出したように言った。


「……それと。お誕生日、おめでとうございます」


「ありがとう」

彼の声は、笑っていた。


二十歳の誕生日。

夢見ていた場所ではなかったけど、今、彼は心から幸せだった。

――童話の中の、お姫様のような彼女。


その笑顔が、最高のプレゼントだった。


遠く離れた場所で。

杉原家の両親が、息子を見守っていた。


「なんかさ、俊也が変な女と仲良くしてるって噂、聞いたんだけど……」

母・杉原佳子は、眉をひそめる。


父・杉原大輝は、さして気にした様子もなく笑う。

「男なんて遊んでなんぼ。どうせ政略結婚すれば落ち着くって」


佳子は黙ったまま、心の中で夫を罵倒していた。


――このダメ親父が。息子まで腐らせる気か。



パーティーが終わり、港には葵の車が迎えに来ていた。


一番に会場を後にしたのは、霜月修介だった。


車に向かう途中、ふと視線の先にあの車が見えた。

――あのナンバー。


前にも見た。

あの時、真野遥香を会社に迎えに来ていた車。


運転席には、痩せた中年男性。

スマホでショート動画を観ていた。


「霜月さま?」運転手の森田が声をかけた。


修介は短く頷き、無言で車に乗り込んだ。


――もう、終わったんだ。


詩織と遥香を、混同するのはもうやめる。

過去の幻に、縛られるのも。


霜月修介の車が港を離れる。


その直後。

小野葵に寄りかかる遥香が現れた。


「加藤さん、そのレザーかっこいいじゃん!」葵が軽口を飛ばす。


「え? ああ、これ? 娘が誕生日にくれて……」

照れたように頭を掻く運転手。


「……遥香ちゃぁん、なんか苦しいぃぃ……」


葵は、完全に酔っていた。


「よしよし、車乗れば少しは楽になるから」


遥香が彼女をなだめながら、車に押し込む。

シートベルトを締めて、反対側のドアに回ろうとしたその時――


「遥香さーん!」


振り返ると、ジャージ姿の男が、乱れた小さな巻き髪を揺らしながら、彼女に向かって走ってきた。


――杉原俊也だった。


去る前に、遥香は礼儀として、俊也に感謝のメッセージと別れの挨拶を送った。

俊也が彼女の前に走り寄り、腰を曲げて膝に手をつけ、息を切らして言葉が出なかった。


「俊也くん、どうして…」


「……あ、あの、僕のこと……“俊也”って、呼んで」

杉原俊也はやっとのことで言った。




真野遥香は彼の可愛らしい様子に笑ってしまった。

「はいはい。俊也」


俊也は少しの間静かになったが、やがて立ち上がりながら言った。


「送りに来た」


彼は身長が高く、立ち上がったまま真野遥香を見下ろす形になった。

真野遥香は思わず笑いながらも戸惑った。


「はいこれ――」


差し出された紙袋。

袋には彼の家の宝石会社のロゴがついていた。

「僕の誕生日パーティーのお返し」


「これ、受け取れません!」

真野遥香は言ってから、杉原俊也に少し近づき、声を低くして言った。

「私、勝手にお邪魔しただけなのに、何も用意してないし……」


杉原俊也は笑いながら言葉を遮った。

「大丈夫だよ、誕生日プレゼントは後ででいいから」


少し間を置いて、何かを思い出したように彼は付け加えた。

「それと、約束してた食事も――ちゃんとね!」


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