最近の真野遥香は、ついてないことばかりだった。
けれど――
昨夜、杉原俊也の花火と、さりげない気遣いに、ほんの少しだけ救われた気がした。
彼女は迷った末に、彼から差し出された紙袋を受け取った。
「ありがとう。ちゃんと誕生日プレゼント、選んで渡すわ」
「うんっ!」
杉原俊也は元気よく頷いた。
そのとき。
車内の酔っ払いが、自分でシートベルトを外し、窓の方へ這うように顔を押しつけてきた。
「うわっ……」
杉原俊也はびっくりしたようで胸を押さえて一歩引いた。
「大丈夫大丈夫!友だちなの。ちょっと酔ってるだけだから」
遥香が慌てて説明する。
「わかった…!じゃあ、またね!」
杉原俊也は手を振り、「連絡、待ってるから!」
「うん、またね」
遥香は車の反対側に回って、小野葵を座席に戻した。
「イケメン〜!超イケメン!あの子、うちに連れて帰って飼う〜!」
葵はとろんとした目で叫んでいる。
「はいはい、どこにイケメンいんのよ。酔っ払ってるだけでしょ」
遥香はそう言って、しっかりシートベルトを締めた。
「加藤さん、お願いします」
遥香の声に応え、加藤は手際よくエンジンをかけると、見事なハンドルさばきでターンを決める。
窓の外、杉原俊也はまだその場に立っていた。
淡い水色の瞳が、澄んだ光をたたえて笑い、遥香に手を振っている。
黒いベンツSUVは、颯爽と港を離れていった。
杉原俊也は、長く息を吐いた。
――よかった、間に合った!
彼は満足そうに笑いながら、ゆっくりと来た道を引き返す。
だが――
数歩進んだところで、突然行く手を遮られた。
「……え?」
見上げると、白石紗月が険しい顔で立ちはだかっていた。
実のところ、紗月は内心爆発寸前だった。
霜月修介が、彼女を放り出して先に帰った。
車も運転手も残してはいたが――
それでも、紗月にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
悔しさのあまり下船したとき、ちょうど真野遥香がベンツSUVに乗り込もうとしているのが目に入った。
その車……見覚えがある。
霜月修介のガレージにも、まったく同じ型の車があったはず。
――あれは修介の車よ、絶対!
怒りに任せて走り出そうとした瞬間。
「遥香さーん!」
背後から誰かが叫ぶ声がした。
振り返れば、なんと――
杉原家の御曹司、杉原俊也が、息を切らしながら遥香のもとに駆け寄っていた。
何を話していたかまでは聞こえなかったが、
彼が手渡したのは、間違いなく「杉原ジュエリー」の紙袋。
――あのブランドのジュエリーなんて、最低でも数十万円からよ?
しかも、杉原家の若様が自ら手渡していたなんて!
遥香は霜月修介と縁を切って、今度は杉原俊也?
――どこまでふしだらなの!
白石紗月は怒りに震え、今すぐ彼女の正体を暴いてやると、杉原俊也の前へ立ちはだかった。
「杉原様……」
涙声まじりに語りかける。
しかし、杉原俊也はきょとんとして答えた。
「えっと……どなたですか?」
一瞬、紗月は固まった。
えっ、私と真野遥香ってちょっと似てるのに……その反応なに?
「杉原様、真野遥香に騙されないでください!」
その一言に、杉原俊也の顔つきが変わった。
「……あなた、何者ですか?遥香さんの悪口を言うつもりなら、聞く気はありません」
そう言って、彼は歩き出そうとした。
――何それ!?この子、ほんとに噂通りのお坊ちゃまなの!?
修介がいなければ、ターゲットをこの子にしてたかもしれないのに。
でも……予備の駒としてキープしとくのも悪くないわね?
「ねえ、杉原様。真野遥香って、霜月修介に囲われてたんですよ?もう五年も!」
その言葉に、さすがの杉原俊也も足を止める。
紗月は続ける。
「彼女、お金のために自分を売ったんです。最近、修介様に飽きられて捨てられたら、すぐあなたに近づいて――」
「……それで?」
「え?」
「それで何ですか?」
紗月は呆然とした。
「僕はね、人のことを噂なんかで判断しないんです。
ましてや、僕が好きになった人のことを」
それだけ言って、杉原俊也は彼女を無視して歩き去った。
紗月は、その場に立ち尽くすしかなかった。
――どうして、あんな女が?
霜月修介も、杉原俊也も。
挙げ句の果てには、あの赤城雅人まで、どこか彼女を庇っている。
◇
真野遥香は、小野葵を家まで送り届けたあと、自宅に戻って着替えを始めていた。
アルトロン株式会社との契約がまとまりかけており、最後のサインの場に同席する必要があったからだ。
クローゼットの扉を開けたとき――
遥香は一瞬、動きを止めた。
彼女は霜月修介の家にはほとんど行かないが、
彼は頻繁にここに来ていた。
最初は泊まることもなかった。
でも、少しずつ一緒に夜を過ごすようになり――
やがて、週末を共に過ごすことも増えていった。
ミシュランのフルコースにも飽きて、
この部屋では、彼女が作る家庭料理を好んで食べていた。
そのせいか、この部屋には彼の私物が散らばっていた。
下駄箱には、彼の革靴やスニーカー、スリッパ。
バスルームには、髭剃りやボディソープ。
クローゼットの半分は、彼のスーツで埋まっていた。
こうして見ると――
まるで、ふたりで暮らしていたかのようだった。
「……早く、新しい部屋探さなきゃ」
そう呟きながら、彼のスーツから一番遠い場所にある自分のスーツを選び、着替え始めた。
◇
青波グループ会社。営業一課。
神崎蓮とそのチームは、金曜の華やかさとは無縁のどんよりとした空気に包まれていた。
「おまえら何しけた面してんだよ!一件逃したくらいで、営業やめるつもりか!?」
神崎が帰社するなり、腕を組んで怒鳴った。
「だって……真野さんの件が納得いかないんすよ……」
「そうですよ!もう美容でも消せないクマできちゃってますから!」
みんなが口々に不満をぶちまける。
「慌てんな。社長はあの女に三日だけ猶予を与えた。
でも結局、案件が飛んだなら、もうアウトだ。責任は逃れられん!」
そのとき――
「誰が“逃れられない”って?」
ひんやりした声が、部屋に響いた。
全員が一斉に入り口を振り返る。
立っていたのは、大きなカールの髪に、書類とノートパソコンを抱えた真野遥香だった。
「ちょっとアンタ、私の案件ぶち壊しておいて、よくここに来れたわね!?」
目の下のクマが深刻な水原美奈が、今にも飛びかかりそうな勢いで怒鳴る。
「落ち着いて!暴力は犯罪だよ、美奈!」
同僚たちが止めに入る。
遥香は表情ひとつ変えずに言った。
「誰が、案件が飛んだって言ったの?」
「は?副社長本人が言ってたのよ!?目の前で提案書、顔に投げつけられそうになったのよ!?」
水原美奈は叫ぶ。
遥香は書類ファイルを持ち上げて見せる。
「あらそう?でも羽賀会長の秘書から、さっき正式に連絡があったわ。今日の午後三時、契約のサインに立ち会ってくれって」
「は、羽賀会長!?」
「羽賀って……もしかしてあの――!?」
水原美奈の顔が、引きつったまま、固まった。