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第13話 屈辱


最近の真野遥香は、ついてないことばかりだった。


けれど――

昨夜、杉原俊也の花火と、さりげない気遣いに、ほんの少しだけ救われた気がした。


彼女は迷った末に、彼から差し出された紙袋を受け取った。


「ありがとう。ちゃんと誕生日プレゼント、選んで渡すわ」

「うんっ!」

杉原俊也は元気よく頷いた。


そのとき。


車内の酔っ払いが、自分でシートベルトを外し、窓の方へ這うように顔を押しつけてきた。


「うわっ……」

杉原俊也はびっくりしたようで胸を押さえて一歩引いた。


「大丈夫大丈夫!友だちなの。ちょっと酔ってるだけだから」

遥香が慌てて説明する。


「わかった…!じゃあ、またね!」

杉原俊也は手を振り、「連絡、待ってるから!」


「うん、またね」


遥香は車の反対側に回って、小野葵を座席に戻した。


「イケメン〜!超イケメン!あの子、うちに連れて帰って飼う〜!」

葵はとろんとした目で叫んでいる。


「はいはい、どこにイケメンいんのよ。酔っ払ってるだけでしょ」

遥香はそう言って、しっかりシートベルトを締めた。


「加藤さん、お願いします」

遥香の声に応え、加藤は手際よくエンジンをかけると、見事なハンドルさばきでターンを決める。


窓の外、杉原俊也はまだその場に立っていた。

淡い水色の瞳が、澄んだ光をたたえて笑い、遥香に手を振っている。


黒いベンツSUVは、颯爽と港を離れていった。


杉原俊也は、長く息を吐いた。


――よかった、間に合った!


彼は満足そうに笑いながら、ゆっくりと来た道を引き返す。


だが――

数歩進んだところで、突然行く手を遮られた。


「……え?」


見上げると、白石紗月が険しい顔で立ちはだかっていた。

実のところ、紗月は内心爆発寸前だった。


霜月修介が、彼女を放り出して先に帰った。

車も運転手も残してはいたが――


それでも、紗月にとっては屈辱以外の何物でもなかった。


悔しさのあまり下船したとき、ちょうど真野遥香がベンツSUVに乗り込もうとしているのが目に入った。


その車……見覚えがある。

霜月修介のガレージにも、まったく同じ型の車があったはず。


――あれは修介の車よ、絶対!

怒りに任せて走り出そうとした瞬間。


「遥香さーん!」


背後から誰かが叫ぶ声がした。


振り返れば、なんと――

杉原家の御曹司、杉原俊也が、息を切らしながら遥香のもとに駆け寄っていた。


何を話していたかまでは聞こえなかったが、

彼が手渡したのは、間違いなく「杉原ジュエリー」の紙袋。


――あのブランドのジュエリーなんて、最低でも数十万円からよ?

しかも、杉原家の若様が自ら手渡していたなんて!


遥香は霜月修介と縁を切って、今度は杉原俊也?

――どこまでふしだらなの!


白石紗月は怒りに震え、今すぐ彼女の正体を暴いてやると、杉原俊也の前へ立ちはだかった。


「杉原様……」

涙声まじりに語りかける。


しかし、杉原俊也はきょとんとして答えた。

「えっと……どなたですか?」


一瞬、紗月は固まった。


えっ、私と真野遥香ってちょっと似てるのに……その反応なに?


「杉原様、真野遥香に騙されないでください!」


その一言に、杉原俊也の顔つきが変わった。

「……あなた、何者ですか?遥香さんの悪口を言うつもりなら、聞く気はありません」

そう言って、彼は歩き出そうとした。


――何それ!?この子、ほんとに噂通りのお坊ちゃまなの!?


修介がいなければ、ターゲットをこの子にしてたかもしれないのに。

でも……予備の駒としてキープしとくのも悪くないわね?


「ねえ、杉原様。真野遥香って、霜月修介に囲われてたんですよ?もう五年も!」


その言葉に、さすがの杉原俊也も足を止める。


紗月は続ける。


「彼女、お金のために自分を売ったんです。最近、修介様に飽きられて捨てられたら、すぐあなたに近づいて――」


「……それで?」


「え?」


「それで何ですか?」


紗月は呆然とした。


「僕はね、人のことを噂なんかで判断しないんです。

ましてや、僕が好きになった人のことを」


それだけ言って、杉原俊也は彼女を無視して歩き去った。

紗月は、その場に立ち尽くすしかなかった。


――どうして、あんな女が?


霜月修介も、杉原俊也も。


挙げ句の果てには、あの赤城雅人まで、どこか彼女を庇っている。



真野遥香は、小野葵を家まで送り届けたあと、自宅に戻って着替えを始めていた。


アルトロン株式会社との契約がまとまりかけており、最後のサインの場に同席する必要があったからだ。


クローゼットの扉を開けたとき――

遥香は一瞬、動きを止めた。


彼女は霜月修介の家にはほとんど行かないが、

彼は頻繁にここに来ていた。


最初は泊まることもなかった。

でも、少しずつ一緒に夜を過ごすようになり――


やがて、週末を共に過ごすことも増えていった。


ミシュランのフルコースにも飽きて、

この部屋では、彼女が作る家庭料理を好んで食べていた。


そのせいか、この部屋には彼の私物が散らばっていた。


下駄箱には、彼の革靴やスニーカー、スリッパ。

バスルームには、髭剃りやボディソープ。

クローゼットの半分は、彼のスーツで埋まっていた。


こうして見ると――

まるで、ふたりで暮らしていたかのようだった。


「……早く、新しい部屋探さなきゃ」


そう呟きながら、彼のスーツから一番遠い場所にある自分のスーツを選び、着替え始めた。



青波グループ会社。営業一課。


神崎蓮とそのチームは、金曜の華やかさとは無縁のどんよりとした空気に包まれていた。


「おまえら何しけた面してんだよ!一件逃したくらいで、営業やめるつもりか!?」

神崎が帰社するなり、腕を組んで怒鳴った。


「だって……真野さんの件が納得いかないんすよ……」

「そうですよ!もう美容でも消せないクマできちゃってますから!」


みんなが口々に不満をぶちまける。


「慌てんな。社長はあの女に三日だけ猶予を与えた。

でも結局、案件が飛んだなら、もうアウトだ。責任は逃れられん!」


そのとき――


「誰が“逃れられない”って?」


ひんやりした声が、部屋に響いた。


全員が一斉に入り口を振り返る。

立っていたのは、大きなカールの髪に、書類とノートパソコンを抱えた真野遥香だった。


「ちょっとアンタ、私の案件ぶち壊しておいて、よくここに来れたわね!?」

目の下のクマが深刻な水原美奈が、今にも飛びかかりそうな勢いで怒鳴る。


「落ち着いて!暴力は犯罪だよ、美奈!」

同僚たちが止めに入る。


遥香は表情ひとつ変えずに言った。


「誰が、案件が飛んだって言ったの?」


「は?副社長本人が言ってたのよ!?目の前で提案書、顔に投げつけられそうになったのよ!?」

水原美奈は叫ぶ。


遥香は書類ファイルを持ち上げて見せる。


「あらそう?でも羽賀会長の秘書から、さっき正式に連絡があったわ。今日の午後三時、契約のサインに立ち会ってくれって」


「は、羽賀会長!?」


「羽賀って……もしかしてあの――!?」


水原美奈の顔が、引きつったまま、固まった。


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