十数分後。
神崎は電話を切ると、取り囲んでいた部下たちを見回した。
「ウソでしょ?あいつが本当に……?」
水原が口を開いた。
今回のアルトロン株式会社の件、彼女がやっとの思いで繋げられたのは副社長まで。
それに対して――
真野遥香は、社長の愛人という噂の“飾り”にすぎない存在。
まさかあの羽賀会長に、直接会っていたなんて……ありえない。
神崎は、困惑しながらも首を横に振った。
「いや……アルトロンが提案を受け入れたって、先方から正式に連絡があった」
一瞬、静まり返る営業一課。
……が、次の瞬間には一同、歓声と笑い声が爆発する!
「待って、それっておかしくない?」
水原が喜びの渦を断ち切るように口を挟む。
「真野遥香って、外部と通じてうちのデータに手を出したんじゃなかった?ならどうしてわざわざ案件を取り返すのよ?」
「そりゃおまえ、社長に警察送りにされるのが怖くなったからだろ」
神崎の助手である岸田崇が鼻で笑った。
「今や彼女、社長に捨てられた身だぜ。後ろ盾もないなら、問題なんて起こせないだろうよ」
「……言われてみれば」
水原は納得したように頷いた。
「部長、これからどうします?」
岸田が杉原に尋ねる。「彼女、今も会議室で待ってますけど」
失ったと思っていた大型案件が戻ってきた――
神崎の顔は緩みっぱなしだった。
「たぶん、俺に謝ってほしいんだろうな」
うきうきした様子で言う。
「ちょっと待ってくださいよ!あのデータ漏洩、彼女の仕業じゃないですか!」
岸田が鋭い口調で反論。
「そうよ、部長。謝る必要なんてないですって!」
水原も怒りを露わにする。
営業一課は、社内でも特に結束の強いチーム。
仲間を外部から責められるのを何よりも嫌う。
そうして、全員が神崎を先頭に会議室へと向かった。
◇
「確認とれた?」
遥香はスマホを見ながら、顔を上げずに言った。
神崎は頷いた。
「……真野さん、これで少しは汚名返上ってところでしょうか」
遥香の指が止まり、ゆっくりと彼を見た。
「汚名……? 私、何か悪いことしました?」
「データの件、シラを切るつもりか!」
岸田が声を荒げる。
他のメンバーも続いて、彼女を責め立てた。
だが――
遥香は笑みを浮かべたままだった。
「皆さん、本当に仲がいいのね」
「営業一課は一心同体よ!」
水原は腕を組み、胸を張った。
「じゃあ、座ってちょうだい」
遥香がテーブルを軽く叩いた。「提案書に、いくつか修正を入れてあるの。説明するわ」
「ちょっと待ってよ!あたしたちの案を勝手に修正したってわけ!?」
水原が噛みつくように言う。
あの提案は、彼女を中心に半年かけて仕上げたものだ。
それを――無断で?
「でもね、その“修正案”で、羽賀会長は首を縦に振ったのよ」
遥香はやわらかく微笑みながらも、言葉には重みがあった。
水原は言葉を失う。
「みんなの結束力は素晴らしいわ。でも、ここは会社。
会社にとって何が一番大事か、言うまでもないわよね?
午後三時まで、あと四時間。ずっと対立するつもり?」
「……」
やがて、全員が渋々ながら席に着く。
遥香は無駄なく、資料を開き、修正点の説明を始めた。
最初こそ誰もが反発気味だったが――
気づけば、東大や一橋大卒のエリートたちが、真剣な顔でノートを取り始めていた。
途中、疑問点があれば、手を挙げて質問するほどに。
さらに――
遥香があらかじめ手配していたサンドイッチとコーヒーが届くも、休憩時間はなし。
皆、片手で食べながら、真剣に議論を続けた。
午後1時、ミーティング終了。
「そろそろ時間ね。杉原部長、ご出発の準備を」
遥香はノートパソコンを閉じ、立ち上がる。
「えっ、真野さんも一緒に来るの?」
岸田が驚いたように言った。
「もちろんよ」
遥香が視線を向ける。
その美しさ、特に目の印象が強すぎて、岸田は思わず背筋が凍った。
「でも彼女は……その、立場的に……」
岸田がしどろもどろに言いかけた瞬間。
「データの問題は、営業一課の内部から起きたことよ」
遥香は冷静に、だが断言するように遮った。
「私が同行しない理由なんて、どこにもないわ」
あまりにもストレートな物言いに、誰もが黙る。
「ふざけんなよ、証拠でもあるのかよ!」
岸田が怒鳴った。
……が、その場で異論を挟んだのは、神崎だった。
彼は遥香の説明を通じて、考えを改め始めていた。
かつては、社長の愛人だから――と色眼鏡で見ていたが、
遥香の入れた修正はどれも細やかで、しかし確実に提案書の完成度を高めていた。
「羽賀会長を納得させたのはさんなんだ。契約締結の場に彼女がいるのは、当然だろう」
「部長……まさか、うちの誰かが“内通者”だって、信じるんですか?」
水原が驚いたように問いかける。
遥香はその会話にもう興味を示さなかった。
「15分後、地下駐車場で集合」
彼女は背を向けたまま会議室を出た。
……その後ろ姿は、どこまでもクールだった。
◇
オフィスに自分の席を失った遥香は、その足でコンビニへ。
水を一本買い、バッグから薬ケースを取り出す。
中には、きっちり分けられた葉酸や妊婦用のビタミン、カルシウムのサプリメント。
一気に口に入れ、水で流し込んだ。
最近、胃が受けつけなくなっている。
今日の昼のサンドイッチだって、好物のはずなのに、
鮭の匂いに吐き気がして、まったく食べられなかった。
「真野さん?」
振り返ると、森田司と何人かの同僚たちが立っていた。
薬ケースを仕舞いながら、遥香は微笑んだ。
「体調悪いんですか? 薬なんて……」
森田が心配そうに尋ねる。
「貧血気味で。医者に勧められて、ビタミンと鉄分を飲んでるだけです」
「そうなんですね…。って聞いてくださいよ!白石秘書ってば、もう本当にポンコツで……」
女性スタッフの一人が、疲れ切った顔で愚痴をこぼす。
「慣れてないだけよ。きっとそのうち落ち着くわ」
遥香が優しく宥めた。
「まあ、それはそれとして!聞いたよ、真野さん!
一部の案件、奪還したんですって!?」
「今からアルトロンに向かうところです」
遥香が頷くと、彼らの目がさらに輝く。
「さすが真野さん!」
森田が親指を立てる。
少し話して、遥香は店を後にする。
レジ前で、彼らの買った品の分をざっと見て、
3,000円札を出して、まとめて精算しておいた。
彼らにはずっと優しくしてもらっていた。
社長との関係で退職の話が出たときも、
それを理由に、彼らに多くの迷惑をかけてしまった。
せめてものお礼のつもりだった。
後でレジで支払い済みだと知った森田たちは、また「遥香ロスだ〜!」と泣き崩れていたという。
◇
会社に戻ったときも、彼女たちは遥香の話で持ちきりだった。
「真野さんってさ、苦いもの苦手だったよね。あんなにお薬を飲むなんて、つらいだろうな……」
「飴、買ってきてあげようかな」
――その会話を、ちょうど霜月修介が耳にする。
彼が出てきたタイミングだった。
「……社長」
森田が慌てて直立する。
他のメンバーも、背筋を伸ばして頭を下げた。
「社長――」