霜月修介は、一度も立ち止まらず――
そのままエレベーターのほうへと歩いて行った。
彼が完全に姿を消すと、残された社員たちはようやく、ほっと胸を撫で下ろした。
「社長、どこ行くんだろ。白石秘書も連れてかないし、森田さんも行かないの?」
森田は声をひそめた。
「お迎えだよ。ロス嬢を」
「婚約者?」
「うん」
「……」
「はぁ、真野さんがちょっと気の毒だよね……」
誰かがぽつりとつぶやいた。
すると森田がピシッと表情を引き締めた。
「高橋、そういうのもう言うなよ。有象無象が聞いたら仕事飛ぶぞ?」
高橋は慌てて口をつぐんだ。
駐車場に着いた霜月修介はすっと車に乗り込んだ。
普段はあまり運転しない彼だが、
この車――ほとんどの時間は真野遥香が使っていたものだ。
今ではもう、彼女の私物はひとつも残っていない。
自宅と同じように。
けれど――
モノは片づけられても、「匂い」は消えていなかった。
この車内にはまだ、彼女特有の、あの淡い香りが残っている。
最初は、香水の香りだと思っていた。
だが時間が経つにつれ、霜月修介は気づいた。
――あれは香水じゃない。
シャワー上がりでも彼女は、あの香りを纏っていた。
薬……?
なにか病気でもしてるのか……?
なんで薬を……?
イライラする。
そんなことを考えていると、彼の車の前を数人が通り過ぎていった。
真野遥香と、営業部の神崎。そのほかのメンバーは見覚えがなかった。
彼らもすぐに、車内の霜月修介に気づいた。
みんな、目が泳ぐほど動揺している――
ただ一人だけ、違った。
真野遥香はふいとこちらを見て、
冷たい表情で、ほんのわずかに頷いた。
数日前よりも、さらに冷えた視線。
なぜか、霜月修介は思い出してしまった。
――赤城が言っていた。
「真野が、あんたに“いじめられた”って言ってたぞ」
胸のあたりがざわついた。
彼は無言で手を振り、外にいた全員に「どけ」と合図を送った。
神崎たちは、すぐに道を空けた。
霜月修介は車を発進させた。
ミラーに映る真野遥香に、どうしても視線が戻る。
――あんなに痩せてたか?
あんなに痩せてて、病気にならないほうが不思議だろ。
霜月の車が走り去ったあと、
神崎が小声で言った。
「真野さん、アルトロンとの契約戻ってきたんですね。社長、知ってたんですか?」
「はい。羽賀様と話してるとき、社長も一緒でした」
「……」
営業部の面々が顔を見合わせた。
その目に、微妙な色が宿る。
――つまり、真野さんを裏で支えてたのは社長……ってこと?
でも、噂じゃ捨てられたって……
水原は心の中で舌打ちした。
やっちまった。
――彼女、まだ“後ろ盾”いたんじゃん。あたし、調子乗るんじゃなかった。
真野遥香は、そんな周囲の空気に興味もない。
昨晩は眠れず、昼もほとんど食べられなかった。体調も優れない。
「真野さん、顔色悪いですよ?大丈夫ですか?」
水原が心配そうに尋ねる。
「大丈夫です」
彼女は短く答えて、さっさと車に乗った。
まだ午後四時前だというのに、契約はすべて完了。
驚いたのは神崎だった。
なんと、今回の契約金額――
アルトロン側からの提案で30%も増額されていたのだ。
その理由は、真野遥香が契約書の細部を修正したことにある。
完璧な内容で実現するには、それなりの投資が必要だった。
会議室を出たあと、
神崎が思わず親指を立てた。
「真野さん、マジで尊敬しますって!秘書ももうやめたんだし、いっそううちの営業部に来ません!?」
……と言ったところで、
「うちのアルトロンの営業部のほうが、よっぽどいいに決まってるだろ?」
後ろから響いた元気な声に、皆がギョッとして振り返る。
――誰だ、堂々と引き抜きに来てるやつは!?
神崎はイラッとしながら、声の主を確認した瞬間、ビクッと肩をすくめた。
「羽賀会長!? どうしてここに…!?」
「私の会社だぞ? 来るの当然じゃねぇか」
そう言いながら羽賀正一は真野遥香の前まで歩いてきた。
「真野さん、青波はもう辞めたのかい?」
「ええ。辞表はもう出しました」
彼の人懐っこい笑顔は、どこか祖父を思い出させた。
「ちょうどいい! うちでは企画を担当する専務が空いててな。やってくれ!」
……専務?
その場の全員が、一斉に絶句した。
神崎も青ざめたが、会長相手に堂々と人を奪うことなどできるはずもない。
ただただ、真野遥香の返答を待つしかなかった。
彼女は穏やかに微笑んだ。
「羽賀様、お気持ちはありがたく頂戴しますが……私は、東京を離れるつもりです」
「まあまあ、今すぐ決めんでもいい。うちは東京だけじゃない、支社は世界中にある。どこだろうと、君が望めば仕事はあるからな」
そう言って、彼は彼女に名刺を差し出した。
しかも――プライベート用の。
「ありがとうございます、羽賀様。しっかり検討させていただきます」
彼女が受け取ると、羽賀はそのまま別の会議室へと入っていった。
「真野さん、東京を離れるって……本当?」
水原が尋ねた。
霜月修介の件はともかく、
半日だけでも一緒に働いてみて思った――
この人、ただの秘書じゃない。仕事ができるし、一緒にいて快適だ。
神崎が本当にチームに迎えるなら、自分も大歓迎だと思っていた。
「はい」
昨晩、ようやく決心した。
霜月修介のこと、自分は何もわかっていなかった。
何かあったときに備えて――
お腹の赤ちゃんのためにも、ここに留まるわけにはいかない。
◇
営業部、任務完了。全員が意気揚々と帰社。
神崎はすでに祝勝会の準備にノリノリだが――
「……その前に、まだ片づけてないことがありますよね?」
真野遥香のひと言で、空気が凍りついた。
そう、“あの件”だ。
「真野さん、もう契約取ったんだから、今日は祝おうよ~」
岸田が軽く笑って誤魔化す。
「そちらの営業部の祝賀会に、私が混ざるわけにもいきません。先に済ませたいんです、こちらも」
真野遥香の表情は崩れない。
「真野さん……その、もう水に流しても……」
水原が口を挟もうとしたとき、彼女が全員を見渡した。
「皆さんの言いたいことはわかります。チームワーク、大切ですよね。“家族みたいに”って。でも――」
彼女の瞳が一瞬、鋭く光った。
「“家族”を守るために、私をスケープゴートにした時点で、その家族ごっこ、終わってますよ。私は黙って泣き寝入りなんてしません。やった人、責任取ってもらいます」
神崎の顔が引きつる。
一言も汚い言葉は使っていないのに――
営業部全体が、ぶん殴られたような気分だった。
実は彼も思っていた。
――このトラブル、内部の誰かが原因なんじゃ……と。
「真野さん、あのデータ、あなたのサインがあったでしょ?
社長も“君の責任だ”って――!」
岸田崇が強気で言い放った、その瞬間。
「岸田さん」
真野遥香が彼を見据える。
「自分のやったこと、バレないと思ってた?」
「な、何言ってんだ! おまえ、頭おかしいのかよ!」
「3467からのスイス銀行口座――
あれ、あなたのお母さまの名義ですよね?」
――沈黙。
「先月の8日、9日、11日――
黒羽の鷲尾副社長がその口座に6回、合計300万ドルを送金してます」
真野遥香は、穏やかに笑った。
「ちなみに、8日は私がデータを渡した日です。……偶然って、あるんですね」
――黒羽コーポレーションは、アルトロンのこの企画で、青波と最も競り合っていた企業だった。