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第15話 専務!?


霜月修介は、一度も立ち止まらず――

そのままエレベーターのほうへと歩いて行った。


彼が完全に姿を消すと、残された社員たちはようやく、ほっと胸を撫で下ろした。


「社長、どこ行くんだろ。白石秘書も連れてかないし、森田さんも行かないの?」


森田は声をひそめた。

「お迎えだよ。ロス嬢を」

「婚約者?」

「うん」

「……」

「はぁ、真野さんがちょっと気の毒だよね……」


誰かがぽつりとつぶやいた。

すると森田がピシッと表情を引き締めた。


「高橋、そういうのもう言うなよ。有象無象が聞いたら仕事飛ぶぞ?」

高橋は慌てて口をつぐんだ。


駐車場に着いた霜月修介はすっと車に乗り込んだ。


普段はあまり運転しない彼だが、

この車――ほとんどの時間は真野遥香が使っていたものだ。


今ではもう、彼女の私物はひとつも残っていない。

自宅と同じように。


けれど――

モノは片づけられても、「匂い」は消えていなかった。


この車内にはまだ、彼女特有の、あの淡い香りが残っている。

最初は、香水の香りだと思っていた。


だが時間が経つにつれ、霜月修介は気づいた。

――あれは香水じゃない。


シャワー上がりでも彼女は、あの香りを纏っていた。


薬……?

なにか病気でもしてるのか……?

なんで薬を……?


イライラする。


そんなことを考えていると、彼の車の前を数人が通り過ぎていった。

真野遥香と、営業部の神崎。そのほかのメンバーは見覚えがなかった。


彼らもすぐに、車内の霜月修介に気づいた。

みんな、目が泳ぐほど動揺している――

ただ一人だけ、違った。


真野遥香はふいとこちらを見て、

冷たい表情で、ほんのわずかに頷いた。


数日前よりも、さらに冷えた視線。

なぜか、霜月修介は思い出してしまった。

――赤城が言っていた。


「真野が、あんたに“いじめられた”って言ってたぞ」


胸のあたりがざわついた。

彼は無言で手を振り、外にいた全員に「どけ」と合図を送った。

神崎たちは、すぐに道を空けた。


霜月修介は車を発進させた。

ミラーに映る真野遥香に、どうしても視線が戻る。


――あんなに痩せてたか?

あんなに痩せてて、病気にならないほうが不思議だろ。


霜月の車が走り去ったあと、

神崎が小声で言った。

「真野さん、アルトロンとの契約戻ってきたんですね。社長、知ってたんですか?」

「はい。羽賀様と話してるとき、社長も一緒でした」

「……」


営業部の面々が顔を見合わせた。

その目に、微妙な色が宿る。


――つまり、真野さんを裏で支えてたのは社長……ってこと?

でも、噂じゃ捨てられたって……


水原は心の中で舌打ちした。

やっちまった。


――彼女、まだ“後ろ盾”いたんじゃん。あたし、調子乗るんじゃなかった。


真野遥香は、そんな周囲の空気に興味もない。

昨晩は眠れず、昼もほとんど食べられなかった。体調も優れない。


「真野さん、顔色悪いですよ?大丈夫ですか?」

水原が心配そうに尋ねる。


「大丈夫です」

彼女は短く答えて、さっさと車に乗った。


まだ午後四時前だというのに、契約はすべて完了。

驚いたのは神崎だった。


なんと、今回の契約金額――

アルトロン側からの提案で30%も増額されていたのだ。

その理由は、真野遥香が契約書の細部を修正したことにある。

完璧な内容で実現するには、それなりの投資が必要だった。


会議室を出たあと、

神崎が思わず親指を立てた。

「真野さん、マジで尊敬しますって!秘書ももうやめたんだし、いっそううちの営業部に来ません!?」

……と言ったところで、


「うちのアルトロンの営業部のほうが、よっぽどいいに決まってるだろ?」


後ろから響いた元気な声に、皆がギョッとして振り返る。

――誰だ、堂々と引き抜きに来てるやつは!?


神崎はイラッとしながら、声の主を確認した瞬間、ビクッと肩をすくめた。

「羽賀会長!? どうしてここに…!?」

「私の会社だぞ? 来るの当然じゃねぇか」


そう言いながら羽賀正一は真野遥香の前まで歩いてきた。

「真野さん、青波はもう辞めたのかい?」

「ええ。辞表はもう出しました」


彼の人懐っこい笑顔は、どこか祖父を思い出させた。

「ちょうどいい! うちでは企画を担当する専務が空いててな。やってくれ!」


……専務?

その場の全員が、一斉に絶句した。


神崎も青ざめたが、会長相手に堂々と人を奪うことなどできるはずもない。

ただただ、真野遥香の返答を待つしかなかった。


彼女は穏やかに微笑んだ。

「羽賀様、お気持ちはありがたく頂戴しますが……私は、東京を離れるつもりです」

「まあまあ、今すぐ決めんでもいい。うちは東京だけじゃない、支社は世界中にある。どこだろうと、君が望めば仕事はあるからな」


そう言って、彼は彼女に名刺を差し出した。

しかも――プライベート用の。


「ありがとうございます、羽賀様。しっかり検討させていただきます」

彼女が受け取ると、羽賀はそのまま別の会議室へと入っていった。


「真野さん、東京を離れるって……本当?」

水原が尋ねた。


霜月修介の件はともかく、

半日だけでも一緒に働いてみて思った――

この人、ただの秘書じゃない。仕事ができるし、一緒にいて快適だ。

神崎が本当にチームに迎えるなら、自分も大歓迎だと思っていた。


「はい」

昨晩、ようやく決心した。


霜月修介のこと、自分は何もわかっていなかった。

何かあったときに備えて――

お腹の赤ちゃんのためにも、ここに留まるわけにはいかない。



営業部、任務完了。全員が意気揚々と帰社。


神崎はすでに祝勝会の準備にノリノリだが――

「……その前に、まだ片づけてないことがありますよね?」


真野遥香のひと言で、空気が凍りついた。

そう、“あの件”だ。


「真野さん、もう契約取ったんだから、今日は祝おうよ~」

岸田が軽く笑って誤魔化す。


「そちらの営業部の祝賀会に、私が混ざるわけにもいきません。先に済ませたいんです、こちらも」

真野遥香の表情は崩れない。


「真野さん……その、もう水に流しても……」

水原が口を挟もうとしたとき、彼女が全員を見渡した。


「皆さんの言いたいことはわかります。チームワーク、大切ですよね。“家族みたいに”って。でも――」

彼女の瞳が一瞬、鋭く光った。

「“家族”を守るために、私をスケープゴートにした時点で、その家族ごっこ、終わってますよ。私は黙って泣き寝入りなんてしません。やった人、責任取ってもらいます」


神崎の顔が引きつる。

一言も汚い言葉は使っていないのに――

営業部全体が、ぶん殴られたような気分だった。


実は彼も思っていた。

――このトラブル、内部の誰かが原因なんじゃ……と。



「真野さん、あのデータ、あなたのサインがあったでしょ?

社長も“君の責任だ”って――!」

岸田崇が強気で言い放った、その瞬間。


「岸田さん」

真野遥香が彼を見据える。

「自分のやったこと、バレないと思ってた?」

「な、何言ってんだ! おまえ、頭おかしいのかよ!」


「3467からのスイス銀行口座――

あれ、あなたのお母さまの名義ですよね?」


――沈黙。


「先月の8日、9日、11日――

黒羽の鷲尾副社長がその口座に6回、合計300万ドルを送金してます」


真野遥香は、穏やかに笑った。

「ちなみに、8日は私がデータを渡した日です。……偶然って、あるんですね」


――黒羽コーポレーションは、アルトロンのこの企画で、青波と最も競り合っていた企業だった。



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