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第72話

暁の光児童養護施設の奥に広い池があり、安全上の理由で周囲は金網で囲まれていた。


九条天闊はどういうわけか、その池のほとりに立っていた。


かつてない焦燥感が天闊を襲い、激しすぎて…


天闊は腰をかがめ、足元の小石を拾い上げ、力いっぱい池に向かって投げた。


小石は金網を越え、「ポチャン」と水に落ち、水しぶきを上げた。


続いて、もう一度「ポチャン」という音がした。


今度は彼の手によるものではなかった。


九条天闊はふと振り向き、篠宮初音を見つけ、目の中に一瞬喜びの光が迸った。


初音は自分を探しに来たのか?


天闊は何も言わず、ただ熱い視線で初音をしっかりと捉え、まるで溶かしてしまおうとするかのようだった。


篠宮初音は彼を見ず、遠くを見つめながら、静かに言った。


「快晴兄とはただの友達です。信じてもらえないかもしれませんが、彼は私にとって...兄のような存在です」


九条天闊は依然として沈黙を守った。


清風が吹き、篠宮初音の額の前髪を揺らし、彼女の視界をぼやけさせた。


しばらくして、天闊の低い声が、かすかに震えながら響いた。


「初音、俺に説明してるのか?」少し間を置き、さらに嗄れた声で続けた。


「初音...お前は本当に僕のことを何も感じていないわけじゃないんだろう?」


篠宮初音が答える前に、九条天闊は再び彼女を強く抱きしめた。


その力は、まるで彼女を自分の命に刻み込もうとするかのようだった。


篠宮初音は認めたい。


彼女は九条天闊に対して全く無感情ではなかったと。


ただ、この感情は複雑で判別しがたく、彼女自身も整理がつかない状態だった。


天闊を押しのけたいのに、力が入らない。


心を鬼にしたいのに、どうしてもできない。


天闊、私はあなたをどうすればいいの?


初音は天闊を押しのけず、代わりに両手でスカートの裾をしっかりと握りしめ、何かを必死にこらえているようだった。


「天闊」初音の声にはかすかな震えがあった。


「私...もう子供を産めないんです。そんな私でも、あなたは受け入れてくれますか?」


これは彼女の心の奥底にある最も深い傷であり、心の扉に掛かった錠だった。


これを外せなければ、初音は永遠に自分を閉じ込めたまま、誰にも心を開くことはできないだろう。


この言葉は、同時に九条天闊の心に消えない痛みとして刻まれた。


初音は東雲たくまが初音に与えた全ての傷を憎み、思い出すたびに殺意が湧き上がった。


そして何より、自分自身を憎んだ。


初音を守り切れなかった自分を、初音にこんな重い傷を負わせてしまった自分を。


「子供なんかどうでもいい、お前だけが大切だ」天闊は優しく初音の顔を両手で包み、細やかなキスを落としていった。


温かい唇が初音の額、眉間、まぶた、鼻先に軽く触れ、最後には彼女の柔らかい唇を優しく覆った。


篠宮初音は応えなかったが、抵抗もせず、両手は依然としてスカートの裾を握りしめ、体は微かに震えていた。


キスされた唇は誘うような深紅色に染まっていた。


天闊の指先が初音の唇を優しく撫でる。


初音の黙認は天闊を狂喜させた。


天闊は初音のうなじに手を回し、額を合わせ、息を交わらせた。


「初音、僕にチャンスをください。お前自身にもチャンスをやろう、いいか?」


あの時手を放した選択は、東雲たくまを解放すると同時に、彼女自身の心を完全に閉ざしてしまった。


今、本当に再び開こうとしているのか?


初音の心は完全に乱れていた。


九条天闊は追及せず、ただ静かに待った。


だが天闊はわかっていた。


答えがどうであれ、もう二度と手放すことはない、と。


どれだけ時間が経ったかわからない頃、温かい吐息が九条天闊の頬を撫で、篠宮初音の声がかすかに響いた。


「天闊先輩...今は答えられません...少し時間をください、いいですか?」拒絶されなかっただけで、また大きな希望がある。


「初音、俺の名前で呼んで...『天闊』って呼んでくれないか?」おおきな喜びが瞬時に九条天闊を包み込んだ。

天闊は数えきれないほど、初音が東雲明海を「明海」と親しげに呼ぶのを聞いてきた。


一方で自分に対しては、常に距離を感じさせる「天闊先輩」だった。


この嫉妬は、心の奥深くに埋められていた。


天闊は初音に「天闊」と呼ばれることを切望していた。


篠宮初音は口を開いたが、喉で言葉が詰まった。


「初音、僕を天闊って呼んで...聞きたいんだ」九条天闊の優しく甘い声には懇願の響きがあり、初音は拒むことができなかった。


「天闊...」初音はついにそう呼んだ。


九条天闊の目に広がった、心からの笑みを見て、篠宮初音の唇も自然と少し上がった。


天闊の喜びが、こんなにも自分に移るのだと気づいた。


彼女は彼を気にかけていたのだ。


時雨快晴は鋭く察知した。


九条天闊の自分に対する敵意が消えていることを。


理由は他ならぬ、初音が説明したからに違いない。


そして...初音の唇が少し腫れているように見えた。


キスされたような。


二人の間には微妙な空気が流れており、まだ関係が確定していないとしても、その日は遠くなさそうだった。


帰り際、九条天闊は自ら篠宮初音を送ると申し出た。


時雨快晴の立場を知った今でも、天闊は初音が快晴と多く接することを望まなかった。


初音の心の中で、時雨快晴の存在が自分を超えてしまうことを恐れていたのだ。


「初音、俺の車に乗る?それとも九条さんの車?」時雨快晴は篠宮初音を見て言った。


篠宮初音の視線は二人の間を行き来した。


初音にとって、どちらの車に乗っても構わなかった。


「天闊、やっぱり迷惑はかけられない...」最終的に、初音の視線は九条天闊の顔に止まった。


言葉を終えないうちに、天闊の目に失望と悲しみで満たされるのを見た。


「じゃあ、お願いします」心が柔らかくなり、言葉を変えた。


呼び方まで変わっていた。


時雨快晴は心の中で理解した。


二人の間には確実に何かが起こったのだろう。


「快晴さん、私は天闊の車で帰ります」時雨快晴は微笑んで頷いた。


「ああ、気をつけてね」


「快晴さんも」


別れを告げ、篠宮初音は九条天闊について彼の車に向かった。


今回の訪問で、九条天闊は自分で車を運転してきていた。


帰路は約2時間かかるため、篠宮初音は天闊の足の怪我を心配し、自分が運転すると提案したが、九条天闊に優しくも断固として拒否された。


帰り道は揺れるかもしれないが、九条天闊の心は安心そのものだった。


天闊はハンドルから右手を離し、篠宮初音の膝の上の左手にそっと覆いかぶせた。


二人の指はゆっくりと絡み合い、しっかりと結ばれた。

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