中年の男が刀の柄を握り締め、潜む獣のようにゆっくりと近づいてくる。
月明かりに冷たく輝く刃が、男が手を上げた瞬間、闇夜を切り裂いた。
「篠宮初音! 死ね!」
刃が振り下ろされる刹那、篠宮初音は咄嗟に身をかわした。
だが、手にしていたスマートフォンが掌から滑り落ち、歩道橋の端を越えて落下し、地面で耳を劈くような砕ける音を立てた。
「初音?!」 電話の向こうで九条天阔はかすかな悲鳴と、その後の切断音だけを聞いた。
必死に掛け直すが、受話器から返ってくるのは冷たい「おかけになった電話は現在…」のアナウンスだけだった。
心臓が一瞬止まり、続いて激しく鼓動を打つ。
天阔はスマホを掴むと外へ飛び出した。
ドア枠にぶつけてスマホの画面に蜘蛛の巣状のひびが入ることなど構っていられない。
初音に何かあったに違いない!
「車だ! すぐに用意しろ! 川を跨ぐあの歩道橋だ!」 廊下にいたボディーガードに向かって天闊は叫んだ。
その声が震えていた。
歩道橋の上で、篠宮初音は眼前の凶暴な目つきの男を見つめ、背中を手すりに預けてようやく体勢を保った。
「あなたは誰? なぜ私を殺そうとするの?」
男は答えず、またも刃を突き出してきた。
動作はそれほど敏捷ではないが、死んでもいいという執念が込められており、加えて刃物を手にしているため、初音はあわただしくかわすのが精一杯だった。
「渡辺健太を知っているか?」 男の声は紙やすりが木を擦るように、かすれて耳障りだった。
渡辺健太?
初音の胸が締めつけられる。
あの自分を刺した男だ。
当時、健太が人を傷つけた後、九条天阔と東雲たくまが協力して刑務所送りにし、渡辺家も完全に没落した。
父親は借金で首が回らなくなり、落ちぶれた野良犬のように暮らしていると聞いていた。
「あなたは彼の父親?」 男の顔に見覚えのある輪郭を見て、初音は即座に理解した。
「そうだ! 何か文句があるか!」 渡辺の父親の目は血走って恐ろしいほどだった。
「お前たちが息子を牢屋に入れて、俺の家を潰した。今日こそ命で償わせてやる!」
刃が再び初音の心臓を狙って突き出される。
初音は後ろに反り返って避け、刀の峰が鼻先をかすめた。
後ろに反り返る勢いを利用して飛び上がり、男の手首を蹴り上げた。
折りたたみナイフが「カチャン」と地面に落ち、遠くへ滑っていく。
「私を殺したって、あなたも生きられないわ! 守りたい人はいないの?」 初音は男の目を見据え、理性を呼び戻そうとした。
渡辺の父親は蹴られて二歩後退したが、目に映るのは狂気だけだった。
「俺にはもう何もない! 死ぬなら道連れだ!」 狂った牛のように突進し、初音を歩道橋から突き落とそうとした。
初音は身をかわすと同時に男の腕を掴み、逆方向へ捻った。
痛みで渡辺の父親がうつむいた隙に、素早く膝で背中を押さえつけ、床に落ちていた自分の靴紐で彼の手首を縛り上げた。
一連の行動を終えて、初音はようやく手の平が冷や汗で濡れていることに気づいた。
通行人にスマホを借りて連絡を取ろうとしたその時、一台の黒いセダンが猛スピードで橋の下に停まり、九条天闊がよろめくようにして歩道橋へ駆け上がってくるのが見えた。
「初音!」 スーツの上着ははだけ、ネクタイはよれよれだった。
初音が無事なのを見た瞬間、天闊の足取りがふらついた。
初音が口を開こうとした途端、天闊にぎゅっと抱きしめられた。
「怖かった… 本当に怖かった…」
腕の力が強すぎて痛むほどだったが、天闊の背中は震えていた。
「大丈夫、本当に大丈夫よ」 初音は天闊の背中を軽く叩き、声が詰まりそうになった。
パトカーのサイレンが近づいてくるまで、天闊は初音を離そうとしなかった。
それどころか、初音を警察の前に立たせようとはせず、自分の上着で彼女の肩を包み込み、前に立って盾となった。
まるで我が子を守る猛獣のように。
「通報したのは私です」 初音が天闊の背後から顔を出し、近づいてきた警官に言った。
警察署で事情聴取を受ける間も、天闊は初音の手を離さなかった。
指先は冷たかったが、力強く握りしめていた。
まるで手を離せば、彼女が消えてしまうかのように。
警察署を出た時は、空が薄明るくなり始めていた。
車が九条天闊のマンションの前に停まると、天闊はすぐに初音をドアに押し付けて深く口づけた。
そのキスには、恐怖の余韻と、再び手に入れたものへの切実な思いが込められており、二人とも息が上がるまで続いた。
「初音」 天闊は初音の額に自分の額を寄せ、目には血走った赤い筋が浮かび、声はかすれていたが揺るぎない意志があった。「僕と結婚してくれませんか?」