「隊長、早急に復帰の手配をお願いします」
神谷初は防犯カメラの映像を見つめ、体が止まらぬ震えに襲われていた。
「神谷悠真がそんなに君を愛しているのに、君を行かせると思う? 君が突然消えたら、彼は狂ってしまうかもしれないぞ。初、本当に諦められるのか?」
電話の向こうの男の声には、隠しきれない驚きがにじんでいた。
結婚して六年。
円満な家庭を築き、一人の息子をもうけ、夫である神谷悠真は妻を命のように慈しみ、彼女をこの上なく溺愛していた。
「もう…彼のことはどうでもいい」
神谷初は携帯電話をぎゅっと握りしめ、声はかすれながらも揺るぎない決意をにじませた。
「わかった!我々は 確かに君の力は必要だ。一ヶ月後、迎えの車を手配しよう。その時、神谷初はこの世から完全に消える。二度と誰にも見つけられないように」
「…はい」
神谷初は携帯をしまった。
防犯カメラの画面には、くっきりとした輪郭の二人が、絡み合い、甘ったるい喘ぎ声、ささやき声…。毎夜、別荘のあらゆる場所で欲望のままに耽っていた。
心臓が鋭く痛み、目が刺すように疼き、抑えきれない涙が溢れ出した。
十年もの間、共に過ごし、制服からウエディングドレスへと歩んできた愛する人が、自分を裏切るなんて、夢にも思わなかった。
しかも相手は、息子の家庭教師だった。
様々なコンドームが床一面に散らばり、そのいくつかは引き出しの中にあった、真っ赤な表紙の婚姻届の上にまで押しつけられていた。
息子を産んで以来、彼女の体は弱り、再び妊娠することは難しくなっていた。
彼女はもう一人、女の子が欲しくて、神谷悠真とはそれ以来、コンドームを使ったことは一度もなかった。
しかし映像の中の彼は、次から次へとそれを使い、まったく節制を知らなかった。
神谷悠真、よくもそんなことができたものだ!
パソコンの画面に、ダイアログボックスがポップアップした――神谷悠真のLINEが常にログイン状態だった。
【航が、これからは初さんを“ママ”って呼んで、私は“マミー”って呼ぶんだって。あなたは、パパ?】
ダイアログの下に、即座に返信が表示された:愛しい妻に決まっている。
神谷初は、その刺すような「愛しい妻」という文字を眺め、オフィスチェアに崩れ落ちた。
細い指が拳を握りしめ、爪が手のひらを刺し、血が滴り落ちるのも構わなかった。
しかし、手の痛みなど、心の痛みに比べれば取るに足らない。
彼女は自分を奮い立たせて冷静になり、吐き気を催すほど嫌らしい何千もの曖昧なメッセージを、一つ一つ読み終えた。
いつからこっそり関係を持ち始めたのか? それとも、どんな策略をめぐらして彼女を弄んだのか?
神谷初の胸は悲しみでいっぱいだった。
神谷航が生まれてから、彼は浮気を始めていた!
丸五年も!
神谷初は過去の一つ一つの思い出を辿りながら、神谷悠真が璧な演技をしていたことに気づいた。
床に倒れたウェディングフォトは、あのコンドームの山よりもなお彼女の目を刺した。
彼女は息子の神谷航を思い出した。今日は幼稚園の親子行事の日で、今頃は望月美香が彼と一緒に参加しているはずだ。
神谷航が今、望月美香とじゃれ合い、彼女を「マミー」と呼んでいる光景を想像するだけで、神谷初の心は引き裂かれるように苦しかった。
あの子は、彼女がお腹に宿し、身を削って育て上げた我が子だ!
彼女は車のキーを手に取って階下へ向かったが、女中たちのひそひそ話が耳に入った。
「あら、まあ、これは何ですの? 奥様の服の中にどうして?」
「破れた布切れみたいなもの、これが服なんて呼べます?」
「しっ、あの方のものですわよ」
「お部屋に戻しておきましょう」
「小狐…人妻の夫を誘惑するなんて、天罰が当たっても文句は言えませんね…」
神谷初は、女中たちが一階の客室のドアを開け、その透かしレースのネグリジェを望月美香の部屋に投げ入れ、その後で嘲笑の声が上がるのを、ただ呆然と見つめていた。
「奥様? 奥様!」
女中たちがリビングに立つ神谷初に気づき、慌てて逃げ去った。
冷たさが足の裏から頭のてっぺんまで駆け上がり、顔から血の気が引いた。
どうやらこの別荘全体で、騙されていたのは彼女一人だけだったのだ。
神谷初は放心状態で車を運転し、幼稚園へ向かった。
望月美香と神谷航が遊具広場でじゃれ合っているのが見えた。
「ママ、ぼくのマンゴータルトは?」神谷航は彼女が手ぶらなのを見ると、すぐに不満げに詰め寄った。
「忘れちゃったの、ごめんね。」神谷初の視線は望月美香に釘付けになり、目に冷たい光を宿していた。
「じゃあ早く買いに行ってよ!」神谷航が大声で駄々をこねた。「美香先生が、この何日かずっと食べたがってるんだって!」
「いいのよ、航。食べたかったら自分で買いに行くから」望月美香はお利口そうな顔をしていた。
神谷航は甘えるように笑った。
「美香先生が、あのお店はすごく有名で、ネットで話題の店で、三時間も並ぶんだって! ママが買いに行くべきでしょ」
「初さんに行かせるわけには…」
「うちのママはね、僕のために何かするのが好きなんだよ。やらせてあげないと、かえって不機嫌になるんだから」神谷航は得意げに言った。
その言葉を聞いて、神谷初は胸がつかえた。
そこに先生が近づいてきた。
「次は二人三脚です。保護者の方とお子様でご参加ください」
神谷初は微笑みながら手を差し伸べた。「航、ママと一緒にやろう」
「いやだ」神谷航はロープを奪うとしゃがみ込み、素早く自分と望月美香の足を縛り、振り返りもせずに言った。
「美香先生の方が合ってる」
「航、私がママよ。」神谷初は思わず神谷航の手を掴んだ。
すると神谷航は彼女の手を振り払い、金切り声をあげた。
「ママ、うるさいな! 僕のために、ママの立場を譲り渡すことくらいできないの?」
神谷初の胸が激しく痛んだ。「何て言ったの?」
彼女はこの子を産むために命を落としかけ、昼夜を問わず自ら世話をし、成長を見守ってきた。
なのに望月美香がたった三ヶ月世話しただけで、彼はそんなに偏愛するようになったのか?
「初さん、航君のためなら何でもするって言ってましたよね? それに、体操選手のママが欲しくない人なんている? 私は若くて元気だし、もっと可愛いし」望月美香は軽快な口調で言った。
「美香先生が手伝ってくれたら、絶対勝てるよ」
二人はハイタッチをして誓い合った。
望月美香は神谷航の手を握り、神谷初に向けて挑発的な眼差しを向けた。
神谷初は怒りで全身が震えた。
「私の妻にそのような無礼、どういうおつもりですか」
冷たい声が背後から響いた。
三人が同時に振り返ると、神谷悠真がスーツをビシッと決め、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
そして初の手をぎゅっと掴んだ。
彼は望月美香を睨みつけた。
「お前は航の世話役に過ぎない。これ以上無礼を働いたら、即刻神谷家から出ていけ!」
「私の妻に謝れ!」
望月美香は一瞬にしてうつむき、肩をわずかに震わせ、恐れおののいた様子で神谷航の手を離した。
「ご、ごめんなさい、初さん。もう二度としません」
神谷初は神谷悠真の手を振りほどき、心の中には冷たい虚無だけが広がっていた。
今、彼女が望むのは、たった一つ。自分の息子を取り戻すこと。
神谷航を連れて行くつもりだった。
ところが神谷航が突然逆上した。
「パパ、どうして美香先生を叱るの? 先生が言う通りだよ、ママは本当にバカで年寄りなんだもん!」
彼は望月美香の肩を持ち、神谷初をまるで価値のないもののように貶した。
これは本当に彼女の実の息子なのか?
神谷初の声は震えた。
「彼女がそんなに好きなの? 彼女にママになってほしい?」
神谷航は口をとがらせ、ふくれっ面で言った。
「そうだよ!」
彼は望月美香の手を引っ張り、スタートラインへと走り出した。
二人は肩を並べ、楽しそうに笑いながらフィールドを駆け抜けていった。
神谷初は彼らの後ろ姿を見つめ、心が粉々に砕け散った。
「初、子供はまだ小さいんだ。そんなに怒るなよ。体が壊れる。望月の件は、母と相談して、できるだけ早く追い出すから」神谷悠真が低い声で慰めた。
神谷初は、優しさの極みのような彼のまなざしを見つめた。それはまるで心臓に流れ込む毒薬のようだった。
彼女の心は、痛みでいっぱいだった。
父子共に望月美香を選んだなら、彼女は誰も要らない。
彼女は神谷悠真を押しのけ、背を向けて去った。
一ヶ月後、彼女はこの世界から消え去る。