「お前、なぜここにいる?これは初の専用席だ。お前が座る場所じゃない」
神谷悠真は眉をひそめ、まるで望月美香が本当に彼の限界に触れたかのように見えた。
望月美香はその勢いで地面に跪き、泣きながら訴えた。
「初さん、お願いです。私を追い出さないでください」
リアウィンドウが下り、神谷航が窓から首を突き出して、むっとした口調で言った。
「ママ、どうして婆ちゃんに美香先生の悪口を言ったの?」
神谷初は泥だらけの地面に跪き、咲き誇る白い花のように可哀想に見える望月美香を見た。
望月美香が航を連れてここに現れた目的は、彼ら親子の絆を引き裂くためだ。
「航、ママに大声で話してはいけない。君のママが簡単に人の悪口を言うはずがない」
神谷悠真の声が聞こえ、神谷初が顔を上げると、彼のいつもの深い眼差しが待っていた。
もし真実を知らなければ、感動したかもしれない。
しかし今、神谷初にはただ荒唐無稽に映る。
「ママが言わなかったら、婆ちゃんはどうして美香先生を追い出すの? 絶対ママだよ!」
神谷航は依然として目を覚ましていなかった。
「ママが教えたよね、証拠もないのに人を疑っちゃダメだって」神谷初は我慢強く言った。
神谷航は口をとがらせて言い返した。
「じゃあ、婆ちゃんに美香先生を追い出さないでって言ってよ。そうしたら信じるから」
美香先生はとても優しい。パパだって好きなくせに、ママ以外に誰が彼女を告発するんだ?
神谷初は、息子が望月美香のために自分にそんな要求をしてくるとは思わなかった。
彼女は彼を甘やかしすぎたのだ。
彼女の愛を盾に好き放題させてきたせいだ。
「航、これは婆ちゃんが決めたこと。誰にも変えられない。ママにそんな無理なお願いをしてはいけない」
神谷悠真は一見神谷初をかばっているようだが、実は神谷航に方法を教えていた。
「じゃあ、僕が自分で婆ちゃんにお願いする! パパ、本家に行こう!」神谷航は望月美香の手を引いて後部座席に登ろうとし、望月美香は半ば渋りつつ車に乗った。
初は息子と望月美香がまるで母子のように仲むつまじい姿を見て、心の中で繰り返した。
すぐに自分はここを離れる、この子とはもう関係ない、と。それでも胸はまだうずくように痛んだ。
凍りついた指が引っかけられ、初が我に返ると、神谷悠真が優しく言った。
「航の言葉を気にしないで。大したことじゃない。望月美香が母に解雇されたら、全て元通りになる」
元通り?
ありえない!
「お母さんから電話があった。みんなで本家に戻ろう。ここから本家は近い。全身ずぶ濡れだ。すぐに着替えないと」
母親は生前、神谷悠真の母、神谷律子と親友だった。
母親の墓がこの墓地に安置されたのは、神谷律子が親友を弔いたかったからだ。
母親が亡くなって以来、彼女は神谷家の世話を多く受けてきた。特に律子は彼女を実の子のように大切に扱ってくれた。
神谷悠真の裏切りは、神谷家の両親とは関係がない。
そう思うと、初は神谷悠真の手を振りほどいた。
「車は私が運転するわ」
望月美香が座った場所は、汚らわしい。
彼女は道端のパナメラに向かって歩き出した。神谷悠真は彼女に傘を差しかけながらぴったりとついてきて、彼女を車に乗せた。
神谷の本家に到着したすぐ、
「初、全身ずぶ濡れじゃないか!」神谷律子が使用人に傘を差し掛けられて迎えに出て、神谷初を抱きしめた。
「悠真は? どうして一緒に帰ってこないの?」
彼女は慌てて使用人にお湯と飲み物の準備を命じ、初を抱きながら二階へ向かった。
神谷律子の心配そうな眼差しを見ると、神谷初は思わず目頭が熱くなった。
もし律子が神谷悠真が自分を裏切ったことを知ったら、どれほど悲しむだろう。
初は彼女を心配させたくなかった。「…彼は後から来ます」
神谷律子は彼女をなだめて二階へ上がらせた。
「まずはお風呂に入って、温まりなさい」
初が着替えて出てくると、神谷律子は彼女の手を取った。
「いい子よ、悲しまないで。何があったか、ママは知っているわ。あなたはママの宝物。誰にもあなたを悲しませる権利なんてないの」
「あなたがどうしたいか、ママは何でも応援するわ」神谷律子は力強く言った。
彼女の慈愛に満ちた眼差し、揺るぎない庇護の思いに、神谷初の心の中に溜まっていた悔しさが決壊した洪水のように溢れ出た。
彼女は、律子がどんなに自分を可愛がってくれても、一番大切なのはやはり神谷悠真だと思っていた。
たとえ彼が裏切ったことを知っても、ただ悲しむだけで、最後には神谷家のため、悠真のために、彼女の悔しさを飲み込むだろうと。
まさか律子が自分の味方をしてくれるとは思わなかった。
神谷初は感動しながらも、自分の決意を伝えた。「ママ、私は彼と離――」
航が突然ドアを押し開け、神谷律子の脚に抱きついた。
「婆ちゃん、もう美香先生を『ママ』って呼ばないから。お願い、彼女を追い出さないで」
「お母さん、彼を甘やかさないで。」神谷悠真もすぐに部屋に入り、神谷初は父子を見ると、嫌悪のあまり顔を背けた。
神谷悠真はなおも彼女に近づき、手を伸ばして彼女の額に触れようとした。彼女は避けようとしたが、もう遅かった。
熱がないとわかると、神谷悠真は安堵の息をついた。
神谷律子は若夫婦の仲睦まじい様子を見て、電話で聞いた執事の話は事実ではなかったようだと思い始めた。
彼女は神谷初が書斎から出てくるところを目撃していなかったし、書斎の散らかりもどこかの女中がやったことだろう。
律子は辛抱強く叱った。
「航、どうして望月美香を『ママ』なんて呼ぶの? 初が君の本当のママよ。君を産むために、彼女の体はボロボロになった。天気は悪い時に腰が痛くてたまらなかったのに。どうして彼女の心を傷つける?
婆ちゃんは、誰にもママの心を傷つけさせない。望月美香は君に間違った呼び方を教えた。だから出ていってもらわなければならない」
神谷航の目には涙が浮かび、満面の悔しそうな表情だった。
ママが自分を産むと決めたのはママ自身なのに。
なんでママが受けた苦しみのせいで自分が責められなきゃいけないんだ。
でも婆ちゃんとパパの睨む視線を前に、神谷航は反論できなかった。
「初、安心しなさい。望月は私の遠縁の親戚だけど、航を悪く教えたんだ。必ず罰を与えて、即刻出ていかせるわ」
初は律子を見て、彼女が望月美香を追い出そうとしたのは、神谷悠真の裏切りを発見したからではなく、今朝幼稚園で起きた出来事が原因だと初めて理解した。
それだけで彼女がこれほど怒るなら、真実を知ったらどれほど激怒するかわからない。
でも、神谷航がばったりと初の前に跪き、彼女の手を握った。
「ママ、お願い。婆ちゃんに美香先生を追い出さないで。一ヶ月後は僕の誕生日。ずっと何が欲しいか聞かれてたよね。僕は何もいらない。ただ美香先生にずっと一緒にいてほしいだけ。ママ、約束を破らないで」
神谷初は彼のまだ幼さの残る顔を見つめ、お願いしながらも傲慢な態度を崩さない様子に気づいた。
望月美香に利用されていても、自分への敬意のかけらもないのは、彼自身の選択だ。
たとえ将来真実を知って後悔しても、自業自得と言うほかない。
それでも彼女は神谷航に最後のチャンスを与えようとした。
「神谷航、これが本当に君が一番欲しい誕生日プレゼントなのか?」
「うん」
「後悔しない?」
「しない!」神谷航は力強くうなずいた。「僕はただ美香先生にずっと一緒にいてほしいんだ」
「わかった。それなら、君の願いを叶えてあげる」
初は手を彼の手から離した。
「一ヶ月後、君はそのプレゼントを受け取れるよ、神谷航」
その時には、彼女はここを離れ、もう誰も望月美香を邪魔することはできない。
航は自分を見ようとしない神谷初を見て、心が針で刺されたように痛んだ。
彼は小さい頃から、ママにフルネームで呼ばれたことはほとんどなかった。
どんなに怒っても、一度も。
でも今、三度も呼ばれた。
しかし、ママがこれまで常に自分の言いなりだったことを思い出し、そのわずかな不快感は忘れてしまった。
ママは今怒ってるけど、そのうち機嫌は直るよ。いつもそうだった。
神谷航は立ち上がり、神谷律子に叫んだ。
「婆ちゃん、ママも許したんだから、僕は美香先生を『ママ』って呼ばないよ。彼女を追い出さないで」
神谷律子は神谷初が確かにそれ以上何も言わず、神谷悠真がそばで世話を焼き、彼女がおとなしく従順な様子だったので、事態が収束したと思った。
「君のママが望月美香を追い出さないと言っても、婆ちゃんは許してない」
「今日から、婆ちゃんが別の人を君の世話役に手配する」
「そう決めた」
神谷律子は初の目の前で、望月美香を解雇し、すぐに給料を清算して神谷から追い出した。
神谷航がどれほど騒いでも無駄だった。
神谷律子がこれほど断固として彼女の味方をしてくれるのを見て、初の心に温かいものが流れた。
一ヶ月後に彼女がこうしてひっそりと去ったら、彼らはどれほど心配し、悲しむだろう。
初は、その時必ず彼らにメッセージを残して、心配しないように伝えようと思った。
これから一ヶ月は、望月美香の姿を見ずに済むと思うと、心がずいぶん軽くなった。
神谷律子を心配させないために、彼女は神谷悠真と神谷航と一緒に家に帰ることにした。
車が邸宅を出た途端、初の携帯が鳴った。望月美香からのメッセージだ。
【初さん、名門の御曹司の家で、嫁に子供ができないと、姑がこっそり息子に愛人を世話するって話、聞いたことある?】
【初さん、あなたが一番信頼していた人に共謀して騙されてるなんて、本当に気の毒に思うわ】
【今、私がどこにいるか当ててみて?】
神谷初はメッセージ画面を閉じ、SNSを開いた。望月美香が高級なチューリップの写真を投稿していた。神谷邸のものだ。
神谷初は顔を上げ、運転席の神谷悠真に直接命じた。
「引き返して。本邸に戻る」