ウィスリーが前かがみになって俺の顔を覗き込んできた。
「ご主人さま! お膝の上に座ってもいーい?」
「ん? 別にかまわんが……」
「やたっ。じゃあ、お邪魔します」
ウィスリーが俺の膝の上にちょこんと腰掛ける。
軽い。
少し押しただけで、どこかに飛んで行ってしまいそうだ。
尻尾が邪魔になるかと思ったが、横にどけてくれた。
「にへへー。後ろからぎゅってしててほしいな」
「何故だ?」
「ん。そうすれば、あちしも勇気が出せるかなって」
その言葉を聞いて、はっとする。
そうだ。
どれだけ元気に振舞っていたって、トラウマに繋がる過去を思い出すのは恐ろしいに決まっている。
それに、さっきからウィスリーのいつもの「あい!」という返事が一度もない。
小さく「ん」と困ったように頷いてばかりだ。
この子はまだ万全ではなかった。
それでも俺を不安にさせないように懸命に笑顔を浮かべてくれていたのだ。
いつものウィスリーを演じようとしてくれている。
だったら、俺がウィスリーの頼みを聞いてやらなくてどうする?
「んっ……」
首と肩回りを囲いこむように抱きしめるとウィスリーが小さく呻く。
そして、俺の腕を愛おしそうにぎゅっと握りしめた。
やわらかい。
ポニーテールが鼻の前に来て、くすぐったい。
ウィスリーのにおいがする。
さらに俺の体にウィスリーの尻尾が甘えるように巻きついてきた。
頭がクラクラする。
ウィスリーのすべてが欲しくなってくる。
いや、何を考えているんだアーカンソー。
ウィスリーはまだ子供なんだぞ?
しかし、年自体は十六歳で俺とそう変わらないわけで……。
なんだ、いったいどうなっている?
さっきから俺の思考回路がおかしいぞ。
俺はウィスリーにまで欲情する見境のないスケベ男だったのか……?
「えっとねー。何から話そうかなー」
声を弾ませるウィスリーにこちらを誘惑する意図がないのは明白だ。
純粋に話を聞いてもらおうとしている。
そうだ、無心になろう。
今こそ人の心がないと言われた俺の真価を発揮すべき場面だ。
「ま、まずは生まれたところからなんてどうだ?」
「えー、そんなとこからー?」
困っているというよりは面白がるようなウィスリーの声。
表情までは見えないが、笑ってくれていると信じたい。
「んっとねー。もう話したっけ? あちしの一族のこと」
「メルルから聞いた。
「そうそれ! 『さーびすどらごん』! だだっ広いお屋敷で暮らしてる竜人族の一族なんだー」
ウィスリーは自分の身の上話をゆっくり、ポツポツと語り始めた。
両親の顔は知らないこと。
血の繋がった家族はメルルだけだったこと。
子守専門の『お世話係』たちに育てられたこと。
同じ境遇の子供たちと一緒に遊ぶことが多かったこと、などなど。
俺は必死に耳を傾け続ける。
もたらされた情報に少しでも集中することで、肉体的接触による刺激を考えないようにした。
「お屋敷では寝るところと食べ物に不自由しなかったけど、あちしはいろいろ不満だったんだ。あーしろこーしろ。これはヒミツだ、あれもヒミツだ。いつかご主人さまにお仕えするんだから、その日のために毎日修行しろってうるさくって!」
プンスカと不満をアピールするウィスリー。
「そうだったのか」
「ん! なんでこんなことしなくちゃいけないの? って毎日考えてた。いつかご主人さまのお役に立つためだって言われてたけど、よく知らない誰かに従うなんてあちしはそんなのまっぴらごめん。だからいつかこんなところ出て行って、自由になるんだって。それでいろんなことしてた。バケツをわざとひっくり返したり、壁にラクガキしたり。楽器を鳴らしながら屋敷中を走り回ったりね! ひどいときは窓に石を投げて割ったりもしたよ。でも、アレはやりすぎだったかなぁ……」
……よし、だいぶ落ち着いてきたぞ。
ウィスリーが大人しく座ってくれているので、新たな刺激がないのが幸いした。
「そうだな。窓を割るのはいけないな」
「うん、もうしない!」
「他には何をしたんだ?」
「他にはねー」
俺の質問に、次々とかわいらしい悪事を暴露していくウィスリー。
恥じるどころか、むしろ戦果を誇ってすらいるようだった。
「いたずらっ子だったんだな。今のウィスリーからは想像できない」
「うん! 自分も意外だって思ってるよー。あちし、こんなにいい子だったかなって今でもたまに思うんだ」
「ウィスリーはいい子だぞ?」
俺が頭を撫でてやると、ウィスリーはむず痒そうに笑った。
「にへへー。でもね、昔は違ったよ。誰かに迷惑ばっかかけてる悪い子だった。自分のことしか考えてなかったし、暴れてばっかだった。お屋敷のこと考えると今でも不満ばっか思い出すんだけどね、最近ちょっと思うんだ。あちし、追放されてトーゼンのいらない子だったんじゃないのかなって」
「そんなことは……!」
咄嗟にフォローしようとするが言葉が全部出てこない。
俺が言葉を探している間に、ウィスリーは首を横に振る。
「だってね。ご主人さまにお仕えして、いろいろがんばってたら昔の自分がバカだったなって思えてきたんだもん。ご主人さまのために尽くすのが、こんなに楽しくて幸せなんだって知らなかった。だからちょっと後悔してる。ちゃんと修行してたら、もっといっぱいお役に立てたのになって。ご主人さまはあちしを縛るんじゃなくって、解放してくれる人だって知ってたら、あちし……」
弱気になっていくウィスリーを強く抱きしめる。
「ご主人さま?」
「ウィスリーはもう気づいたんだろう? なら、いいじゃないか」
「そうだね。ご主人さまと同じだね……」
「そのとおり。過去より今だ。変わらないものなどない。今をないがしろにしなければ、必ず未来は良くなる。だから、ウィスリー。過去にいつまでも囚われる必要は――」
俺がそう言いかけたところで。
こてん、とウィスリーが脱力して俺の胸に寄りかかった。
「ん? どうしたウィスリー」
「ご主人さま……あちし、なんかヘンかも。どーしちゃったのかな? 頭と体がポカポカしてきて……」
「何?」
確かに肌も上気しているし、なんだか熱くて苦しそうだ。
心無しか息遣いも荒くなっている。
念のために額に触れてみるが……。
「熱はないようだ」
それでも体温はだいぶ高くなっている。
「ご主人さまぁ……」
ウィスリーが甘えるような声を出した。
巻き付いていた尻尾もぎゅうっと俺の体を締め付けてくる。
もしかしたら不安なのかもしれない。
「安心しろ。すぐに治してやるからな」
指を鳴らして
しかし、効果が現れない。
病気ではないようだ。
さらに立て続けに
まさかと思い
「馬鹿な……」
今更ながらに
つまり、信じがたいことにウィスリーは今が正常なのだ。
「メルル! すぐに来てくれ!!」
自分では対処できないと察した俺はすぐにメルルを呼んだ。
「どうされましたか、ご主人様っ!?」
「ウィスリーの様子がおかしいんだ」
「失礼します」
事情を察したメルルがすぐさまベッドに寝かせておいたウィスリーのもとに向かう。
メルルが容態を診てくれている間、俺は気が気ではなかった。
「大丈夫です。何も心配はいりません」
だから、メルルが笑顔でそう言ってくれたときは心の底から安心した。
「ウィスリーの身に何が起きているのか、わかるか?」
「もちろん。簡単ですよ」
困惑する俺を見たメルルがいつもとは違う、どことなく色気のある笑みを浮かべてこう
「ウィスリーも発情期に入ったんです」