神様って……本当にいるのかな。
子どものころは、信じてた。
小さな十字架のネックレスを握って、両手を合わせれば、どんなことでも神様は見ててくれて、助けてくれるって。
でも。じゃあ、どうしてワタシは、いまもこんなふうに――
机の中には、破られた教科書。ノートにはマジックで汚く書き殴られた言葉たち。
「クリスちゃん」「偽善者」「影なのに日向w」「矛盾ちゃん」
……誰も見てない。いや、見てるのに、見て見ぬフリをしてる。
右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい――って、お母さんは言った。「敵を愛しなさい、それが主の教えです」って。
だからワタシは、反撃しちゃいけない。
泣くのも、怒るのも、悪い子のすることだって、ずっと言われてきた。
でも。神様は、ワタシが毎日殴られて、蹴られて、笑われて、それでも笑ってやり過ごしてるのを――どこで見てるの?
教室の角で、みんなの背中が見えないフリをしてる間に、ワタシの心の中では、黒いものがどろどろと渦を巻いてる。
だけど、親には言えない。ワタシは「愛されてる」から。
いい子でいなきゃ。
期待に応えなきゃ。
神様のために、我慢しなきゃ。
でも……ワタシ、限界かもしれない。
そんな夜、ワタシはパソコンで調べていた。
「十字軍 略奪」「新大陸 キリスト教 先住民 虐殺」「キリシタン大名 領民 イエズス会」「硝石 奴隷 布教」
胸が苦しくなった。
教会では聞いたことのない、けれど、教科書には小さく載っている“現実”。
神の名のもとに、人が殺されて、売られて、燃やされて……祈る人の手が、血にまみれていた。
……神様って、なに?
そのとき、背後で「カチッ」と音がした。
ドアが開いて、お父さんが立っていた。
顔が怒りで引きつっていて、なにか言いかけて、それでもすぐに引き返していった。
嫌な予感がして、電源を落としたときには、もう遅かった。
次の日の夜、リビングで、お父さんに正座させられた。
「お前……これはどういうつもりだ」
机の上には、プリントアウトされた検索履歴の紙。
お母さんは黙って椅子に座り、唇を噛んでいる。
「神様を冒涜する気か? あの人たちが、何のために命を賭して布教してきたのか、お前はわかってるのか!」
声を荒らげるお父さんに、なにも言い返せなかった。
ただ……心の中で、何かが音を立てて崩れていった。
信じなさい。
疑うな。
従いなさい。
それだけを強いられてきた。
……でも、ワタシが苦しんでいることを、神様も、両親も、本当に見てるの?
それでも「信じろ」って、言うの?
その日の朝も、机の中にぐしゃぐしゃのプリントと、濡れた雑巾が入っていた。
椅子には瞬間接着剤。教科書はまた破られていて、ノートには「偽善者」「聖女気取り」と黒いペンで書かれていた。
それでもワタシは、笑わなきゃいけなかった。
「おはよう」って言って、誰にも返されない声を毎朝続けているのは、きっとワタシくらいだ。
一時間目のあと、廊下で百合子が待っていた。
背後には、髪の毛がぼさぼさの“太いの”と、無言で笑ってる“細いの”。
「ひーなーたーちゃん、昨日言ったよね?」
口元を歪めて、百合子が言う。
「ボーイスカウトの寄付金、アンタの家で集めてるんでしょ。まだ集計前なんでしょ。だったら、ちょっとくらい消えてもバレないよね?」
ワタシは何も言えなかった。
言ったら、何倍にもなって返ってくるって、もうわかってる。
「持ってこないと……また、アレだよ?」
アレ。
それは、トイレの中で水浸しにされた上靴。
体育倉庫に閉じ込められたこと。
通学路で、自転車に蹴りを入れられたあの夜。
何も言わずにうつむいていると、百合子の手がワタシの肩を叩いた。
「わかってんじゃん。じゃ、放課後、期待してるね♡」
クラスに戻ると、誰も目を合わせてくれなかった。
みんな、聞こえてた。わかってた。でも誰も、助けてくれなかった。
黒板の前では先生が授業の準備をしていたけれど、ワタシの机の上のノートの落書きに気づくことはない。
教室の隅――窓際の、一番後ろの席。
そこには、今日もあの子がいた。
分厚い本の表紙には「魔女裁判の真実」。
眼鏡をかけた病弱そうな女の子が、頬杖をついて、本の影に顔を隠している。
寝ているのか、読んでいるのか、わからない。けれどそのとき、確かに視線を感じた気がした。
まるで、何かを楽しんでいるような、そんな目で。
体育の時間。
グラウンドの白線の上を、ワタシはただ走っていた。
走っているというより、逃げていたのかもしれない。
誰にも追われていないのに、誰かに見られているような気がして。
遠くの空は青くて、やけに明るい。
その光が、やたらと冷たくて眩しくて、泣きたくなった。
「……倒れたーっ!」
誰かの叫びで、足が止まった。見れば、校舎側のベンチ。
体育に参加せず、保健の許可をもらって見学していた“あの子”が、倒れていた。
名前を覚えている人が何人いるのかも怪しいほど、教室ではいつも黙って本を読んでる子。
「誰か。神良さんを保健室に連れてってー!」
「誰かって……えー、日向でよくない? クリスチャンだし、優しいし〜」
笑い混じりの声とともに、ワタシは背中を押された。
……なんで、ワタシなの。
でも、言えない。
断るとまた「冷たい」「偽善者」「裏の顔がある」と言われるのが怖い。
ワタシは小さく頷いて、彼女のもとへ駆け寄った。
顔色が悪い。肌が白いのに、さらに血の気が引いている。
まるで、死んだ人みたい――いや、それ以上に静かで、美しかった。
「……大丈夫ですか?」
返事はない。意識はあるみたいだけど、虚ろな目で空を見ていた。
脇に手を回し、支えるようにして立たせた。
ふらつく身体。ひどく冷たい。まるで氷。
ワタシは首からかけていた十字架が邪魔になって、ついエリザさんの胸元に当たってしまった。
その瞬間、ビリッと何かが弾けた。
「っ……!」
彼女の肌に、赤く火傷のような跡が浮かぶ。
ワタシは慌てて十字架を握った。
金属が少し熱を持っていた。
なんで……?
「ご、ごめんなさい。金属アレルギー……?」
言いながらも、どこかおかしいと感じていた。普通、あんなに一瞬で、あんな跡はつかない。
けど、それを追求する理由なんて、わたしにはなかった。
それよりも――
抱えた彼女の身体から香る、どこか甘ったるい匂いに、息が詰まる。
冷たいのに、体温を奪われていくような錯覚。
彼女の髪が風に揺れたとき、一瞬だけ、こちらを見た。
視線が、絡んだ。瞳が笑っていた。
……ワタシを、知っているような目だった。
そして、彼女は小さくささやいた。
「ありがとう、助かるわ。……優しいのね、貴女」
声はとろけるように甘くて、でもどこか底のない井戸みたいだった。
私は何も言えずに、保健室の扉を開いた。