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第2夜 はじめての……

 保健室のベッドに、エリザさんは静かに横たわっていた。


 先生は外に出ていて、ワタシたちだけの空間。包帯を巻こうとしていたワタシに、彼女はふと声をかけた。


「……手、貸して。少し冷えてるの」


 そっと指を重ねてくる。

 その肌はやはりひどく冷たくて、でもどこか落ち着く温度だった。

 まるで雪の中の静けさをそのまま閉じ込めたみたいだった。


「包帯……もう少し短く切りますね」


 ワタシはハサミを手に取った。

 刃が少しだけズレたのは、わざとだったのか、それとも――


「……あっ」


 右手の人差し指、刃先が掠めて、赤い血がにじんだ。


「ご、ごめんなさいっ!」


 慌てて止血しようとすると、エリザさんがその手を取った。


「大丈夫。……見せて?」


 彼女はそう言って、ワタシの指をそっと唇に近づけた。


 次の瞬間――


「え……?」


 ちゅっ、と音を立てて、彼女が私の指を口に含んだ。

 ぬるりとした舌の感触。吸い込まれるような熱。


 脳の奥で、痺れるような何かが走る。


「ん……」


 小さな声が、喉から漏れた。

 気づけば目を閉じていた。

 吐息が震えて、身体の奥が、じわじわと熱を持っていく。


 初めてだった。

 誰かに触れられて、こんなふうに――


「……ありがとう。やっぱり、甘いわね」


 彼女は微笑んだ。瞳の奥で、なにか獣のような光が揺れていた。

 ワタシはただ黙っていた。何も考えられなかった。


 数日後。


 百合子のいじめは、ある日を境に急に失速した。

 教室で椅子を引こうとして自分で転び、ドリンクをかけようとして自分に浴び、悪口を言いかけて自分の口が止まらなくなった。

 そしてある日、彼女は突然泣き出して、「なんで私ばっかり」と叫んで職員室に連れていかれた。


 その様子を、エリザさんは静かに見つめていた。


 ワタシは怪我をした百合子の膝にそっとハンカチを差し出した。

 汚れた血を拭いてあげた、つもりだった。

 彼女はワタシに同情されたと思ったのが屈辱だったのか、ハンカチを奪い取ると、ゴミ箱に叩き捨てた。


 でも――


 放課後。誰もいない図書室の片隅で、そのハンカチを手にしたエリザさんが、くすりと笑っていた。


「美味しくないわ。やっぱり、全然味が違うわね。……愛された子の血は、いちばん堕とし甲斐があるのよ」


 そして、ゆっくりと、舌を這わせてその血を舐め取った。


 夜、礼拝堂。


 両親が日曜以外にも毎晩祈りに行くように言うから、私は仕方なく足を運んだ。


 小さな教会だった。けれど昔は、この場所が好きだった。


 ステンドグラスから差し込む光、祈りの声、十字架の前で眠るように静かになれる時間。


 ……でも今日は、違った。


 ステンドグラスに描かれた天使の顔が、無表情に見えた。

 微笑んでいたはずなのに、ガラスの奥で冷たく見下ろしていた。

 両手を広げたキリスト像は、誰にも触れないように思えた。


 祈るお母さんの背中は、何かに“許しを乞う”ように震えていた。

 まるで全員が、見えない糸に縛られて、操られる人形みたいだった。


 ワタシは、ひとりきりでベンチに座る。


「神様……あなたは、ほんとうにいるの?」


 祈るように問いかけても、返ってくるのは沈黙だけだった。


 あのとき――


 指を吸われたあの感触。身体が震えるほどの熱。

 私は生まれて初めて、“生きている”って感じた。


 なのに今は、ここにいても何も感じない。あるのは、冷たくて、作り物みたいな沈黙だけ。


 かつて「綺麗だ」と思っていたものが、全部、違って見える。


 お父さんの聖書朗読も、お母さんの讃美歌も、まるで「何かに謝ってる」ようだった。


「いい子でいなきゃいけない」

「正しい子でいなきゃいけない」

「神様に嫌われないように」――


 そうやって私は縛られてきた。


 でも――彼女は、そんなワタシを見てくれた。


 名前を呼んでくれた。笑ってくれた。触れてくれた。


 ワタシは、あの冷たい唇のほうが、この温かい教会より、ずっと“救い”だと感じてしまった。


 だから、怖かった。自分がもう戻れないところまで来てしまっている気がして……。


 礼拝堂の扉を開けた瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。

 こんな時間に、教室の裏手の礼拝堂に来るなんて。


 でも、ワタシはもう、何も疑わなかった。


 いつも通りの、百合子たちの「呼び出し」。

 持ってこいと言われたものは、今日も持っていなかったけど。中は、妙に静かだった。


 蝋燭だけが、ステンドグラスを赤く照らしている。

影が、天使の顔を歪めていた。


「……百合子さん?」


 返事は、なかった。代わりに、木の軋む音。

 誰かが奥の長椅子に座っている。


 いた。

 分厚いレンズの奥が反射して、瞳が見えない。


 クラスの隅にいつもいた、あの子――エリザさんだった。


「どうして……?」


 思わず声に出すと、彼女は静かに顔を上げた。

 頬に光が当たり、まるで蝋細工のような白い肌が浮かび上がる。

 その瞬間、私はなぜか、怖くなった。


「……来てくれて、嬉しいわ。影山さん」


 初めて、ワタシの名前を呼ばれた気がした。


「ねえ……あなた、傷だらけなのね」


 気づくと、ワタシのカバンから教科書がこぼれていた。

 破れたページ。殴り書きされた中傷。切り裂かれたノート。

 エリザさんはそれらに指をすべらせて、微笑んだ。


 そして、そっとメガネを外した。


 その目は――本来の彼女の赤い瞳、ではなかった。


 金。溶けた金属のような、輝く金色。


 見つめられただけで、息が止まりそうになる。


「本当の私、見る?」


 その瞬間、空気が変わった。

 肌が、白ではなく蒼くなる。


 青白く、血の気を失った死人のように。

 けれど、そこには絶対的な「生」があった。

 あまりに美しく、あまりに冷たくて、ワタシは逃げることもできなかった。


「貴女……今、何を信じてる?」


 その問いに、ワタシは答えられなかった。

 神様の像がこちらを睨んでいる気がした。


 でも、助けてはくれなかった。

 いじめも、苦しみも、ずっと、誰も――


「貴女の血、少しだけ、いただいてもいいかしら」


 頷いてしまったのは、彼女の声のせいか。

 それとも、自分の中にある“渇き”のせいか。


 首筋に唇が触れた。

 チクリと、だけど痛みはすぐに溶けた。


 甘い熱が、喉から背中を伝って落ちていく。

 吸われているのに、ワタシは満たされていく。


 体が、熱い。震える。


 ……気持ちいい、なんて、思っちゃいけないのに。


 でも。


「――キレイな血ね。やっぱり、“愛された子の血”は違うわ」


 エリザ様が、口元を舐める。

 紅い唇に血の線を引いて、それを指先で拭って、舌で舐めた。


「堕ちていくのって、怖くないわよ。むしろ、気持ちいいでしょう? 影山日向さん」


 ワタシの名前を、また呼んだ。


 神様、ワタシ、たぶんもう戻れません。


 でも――この人は、ワタシを「見てくれた」。

 “ワタシだけ”を見て、名前を呼んでくれた。


それだけで、この人に、全部捧げてもいいって、思ってしまった。

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