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第3夜 変わっていく……ワタシ

 アレは、夢だったのかな。とても甘くて、不思議で、少し怖かった。


 でも……あんなに“幸せ”だと感じたこと、今まであっただろうか。


 首筋に、うっすらと触れた指先。

 何もなかった。傷も、痕も。

 けれど、記憶の中のあの温度は確かに残っていた。


 ベッドの上で、ワタシはしばらく毛布を抱きしめていた。

 時計を見ると、朝の七時を少し過ぎたところ。


 いつもなら、キッチンからパンを焼く香りがしてるはずなのに、今日は静かだった。


 ……ああ、そうだ。二人とも、今日はもういないんだった。


 「定例の教会ブロック集会」――


 地域ごとの信徒たちの“連帯”のためのもの。

 そのために、昨夜から二人とも地方へ出張していた。


 だから、この家には、今日一日、ワタシだけ。昨夜のことは、何も言えなかった。


 あの“夢”のこと。


 ――いや、夢だと思いたいのか、そうであってほしいのか、自分でも分からない。


 でも、あの人の金色の目は、あの声は、私の心をすべて見透かして、優しく抉ってきた。


「この街に吸血鬼が紛れ込んでいるらしい」


 出かける前に、お父さんがぼそっとそんなことを言っていた。


 教会の上層部からの情報だと。最近、いくつかのブロックで“信仰心の揺らぎ”が目立ち始めてる、とか。


 その時は笑ってしまいそうだった。

 そんなの、漫画や映画の中の話じゃないか。


 でも、――もし本当にいたとしたら。


 もし本当に、“あの人”が……。

 ワタシは、首元をもう一度触れた。


 何もなかった。やっぱり。


 でも、鼓動だけは、早くなっていた。


 そして、ワタシの中で、何かが確かに変わってしまっているのを感じていた。


 神様。あなたは、昨日も見ていたのですか?


 あの礼拝堂で起きたすべてを。

 ワタシが、あなたではない“誰か”に身を委ねてしまったことを。


 なのに、どうして――ワタシは今、こんなにも心が穏やかで、満たされているんでしょう。


 その日、学校の授業は――なぜか妙に、簡単に思えた。

 普段なら引っかかってしまう歴史の年号や英語の文法も、まるで子供の頃に戻って、算数の「1+1」を教わっているかのように、頭の中にすっと、答えが浮かんできた。


「……あれ?」


 自分でも、少し気味が悪くなるほどだった。でも、悪い気はしなかった。

 むしろ、ずっと前から自分がこうだったような、そんな錯覚すら覚えていた。


 体育も同じだった。いつもは苦手で、すぐに息が上がって、鈍くて重かった身体が――今日は、まるで違っていた。


 ボールを避けたタイミング。走ったときの足の運び。

 誰かに操られているみたいに、体が勝手に動いて、思い通りに跳ねて、受けて、滑った。


 ……けれど。


 それと引き換えに、妙な違和感が一つだけ残った。日差しが、刺さるように痛かった。


 肌がじりじりと焼けるようで、目の奥まで光が染みて、涙が出そうになった。


 いつも通りの、春の日差しのはずなのに。まるで、誰かに「これは違う」と告げられているようだった。


 教室に戻って、ふと隣の席を見ると――そこにいるはずの、あの人の姿はなかった。

 エリザさん。


 今日は「家の都合でお休み」だそうだ、と担任が言っていた。

 机の上には、教科書もノートも置かれていない。


 まるで最初からそこには誰も座っていなかったように、ただ風だけが窓から吹き抜けていた。


「……っ!」


 そのとき、後頭部に“くしゃっ”という音が響いた。


「ひーなーたーちゃん、読んでね~?」


 クシャクシャに丸められた紙くずが頭にぶつかった。振り返るまでもない。

 声で分かる。


 百合子。そして、彼女の取り巻きの二人。


 廊下の裏、掃除用具入れの前。いつもの呼び出し場所が、紙に走り書きされていた。

 いつもと同じ、はずだった。


 ……でも。心の中のどこかが、いつもとは違っていた。


 怒りでも、怖さでもない。もっと――冷たく、澄んだ感情。


「……行く理由、あるかな」


 ワタシは紙を丸め直して、ゆっくりと手の中で潰した。


 ワタシは、百合子からの呼び出しを――無視した。


 無言のざわめきが教室に満ちていた。クスクスと笑う声。


 何人かが私の方を見て、何か言いたげだった。

 でも、私は一切応えず、席を立って職員室へ向かった。


「神良エリザさんの……住所、教えていただけますか?」


 担任の先生は少し驚いた顔をしてから、「欠席連絡のついでなら」と教えてくれた。

 届けるのは、今日配られたプリントと宿題の連絡だけ。ただ、それだけのつもりだった。


 けれど、駅から一駅ぶん歩いた先にあったその屋敷は、まるで時間に取り残されたようだった。


 蔦が絡まった石塀。

 洋館のような重々しい玄関扉。

 そこだけがまるで“異国”だった。


 チャイムを押すと、古めかしい音が鳴った。誰も出てこない。……けれど、鍵は開いていた。


 恐る恐るドアを押して中へ入ると、そこは静寂に包まれた別世界だった。


 重厚な家具、蝋燭立て、古書の匂い。空気が外とは違っていて、鼻の奥がツンとした。いわばワタシの家の教会と真逆の環境、でも今はそれが落ち着いて感じる。


 その時、廊下の脇に並んだ額縁の中に――私はそれを見つけた。


 色褪せた、セピア色の写真。

 明治の頃の服装をした人々が写っていた。


 おかっぱ髪の女の子が、写真の端にいた。

 やけに白い肌、細い体、そして、赤い目。目が合ったような気がした。

 心臓がひとつ、跳ねた。


 ……エリザ、さん?

 その顔は、今、ワタシの知っている“あの人”と、まったく同じだった。


 服が違う。

 時代が違う。


 でも――顔だけは、何ひとつ変わっていなかった。


 その瞬間、背後で「カツ……カツ……」と階段を下りてくる音がした。


 私は反射的に振り返る。そこにいたのは、彼女だった。

 あの、分厚いメガネも制服もなく、代わりに黒いドレスに身を包んだ彼女が、蝋燭の炎の中から現れた。


 肌は陶器のように白く、その瞳は――金色に、輝いていた。


「ようこそ、日向さん。貴女が来てくれると、信じていたわ」


 ワタシの手は、無意識に首元へ伸びていた。


 ――十字架。

 この家に来るときも、学校に行くときも、ずっと私を守ってくれた、信じる心の証。


 けれど、それに触れようとした瞬間。


「――あぐっ……!」


 ビリッ、と。焼けつくような痛みが、指先から脳に突き刺さった。


 火傷……違う。もっと、深い場所が焼かれていく感覚。


 ワタシの中の“何か”が否定され、拒絶され、壊れていくような……


「……もう、そんなもの、握れない身体になっているのよ?」


 エリザさん――違う、もう“エリザ”ではなかった彼女は、金色の瞳を細めて、艶やかに微笑んでいた。


「可愛いわね……信じていたものに裏切られるって、どんな気持ち?」


 ワタシは口を開きかけて、何も言えなかった。

 指はまだじんじんと痛い。


 でも、それ以上に――ワタシの胸の奥の、奥の奥が、ザラザラと軋んでいた。


「でも、ね。痛みだけじゃなかったでしょう?」


 ゆっくりと歩み寄ってくる彼女。漆黒のドレスが蝋燭の光を吸い込んで、影を引いていた。


「今日の授業。いつもより、理解できたでしょう? 体育だって、身体が軽かったはずよ。それに……陽射し、ちょっと痛かったでしょう?」


 ワタシの目が見開かれる。どうして、そんなことを――?


「それが、“変化”よ。貴女の中で、わらわの血が息づいてる。もう、普通の人間じゃなくなっているの」


ワタシは後ずさった。でも足は、床に縫い止められたように動かなかった。


「怖い? ううん、本当は……嬉しいんでしょう?」


 エリザの指が私の頬に触れる。氷のように冷たいのに、熱が走った。


「だってあなた、自分の人生に“意味”を探してたもの。神様に祈っても、誰にも助けてもらえなかった。だったら、わらわが――あなたの神様になってあげる」


 彼女の声が、甘く、毒のように、ワタシの耳を溶かしていった。

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