アレは、夢だったのかな。とても甘くて、不思議で、少し怖かった。
でも……あんなに“幸せ”だと感じたこと、今まであっただろうか。
首筋に、うっすらと触れた指先。
何もなかった。傷も、痕も。
けれど、記憶の中のあの温度は確かに残っていた。
ベッドの上で、ワタシはしばらく毛布を抱きしめていた。
時計を見ると、朝の七時を少し過ぎたところ。
いつもなら、キッチンからパンを焼く香りがしてるはずなのに、今日は静かだった。
……ああ、そうだ。二人とも、今日はもういないんだった。
「定例の教会ブロック集会」――
地域ごとの信徒たちの“連帯”のためのもの。
そのために、昨夜から二人とも地方へ出張していた。
だから、この家には、今日一日、ワタシだけ。昨夜のことは、何も言えなかった。
あの“夢”のこと。
――いや、夢だと思いたいのか、そうであってほしいのか、自分でも分からない。
でも、あの人の金色の目は、あの声は、私の心をすべて見透かして、優しく抉ってきた。
「この街に吸血鬼が紛れ込んでいるらしい」
出かける前に、お父さんがぼそっとそんなことを言っていた。
教会の上層部からの情報だと。最近、いくつかのブロックで“信仰心の揺らぎ”が目立ち始めてる、とか。
その時は笑ってしまいそうだった。
そんなの、漫画や映画の中の話じゃないか。
でも、――もし本当にいたとしたら。
もし本当に、“あの人”が……。
ワタシは、首元をもう一度触れた。
何もなかった。やっぱり。
でも、鼓動だけは、早くなっていた。
そして、ワタシの中で、何かが確かに変わってしまっているのを感じていた。
神様。あなたは、昨日も見ていたのですか?
あの礼拝堂で起きたすべてを。
ワタシが、あなたではない“誰か”に身を委ねてしまったことを。
なのに、どうして――ワタシは今、こんなにも心が穏やかで、満たされているんでしょう。
その日、学校の授業は――なぜか妙に、簡単に思えた。
普段なら引っかかってしまう歴史の年号や英語の文法も、まるで子供の頃に戻って、算数の「1+1」を教わっているかのように、頭の中にすっと、答えが浮かんできた。
「……あれ?」
自分でも、少し気味が悪くなるほどだった。でも、悪い気はしなかった。
むしろ、ずっと前から自分がこうだったような、そんな錯覚すら覚えていた。
体育も同じだった。いつもは苦手で、すぐに息が上がって、鈍くて重かった身体が――今日は、まるで違っていた。
ボールを避けたタイミング。走ったときの足の運び。
誰かに操られているみたいに、体が勝手に動いて、思い通りに跳ねて、受けて、滑った。
……けれど。
それと引き換えに、妙な違和感が一つだけ残った。日差しが、刺さるように痛かった。
肌がじりじりと焼けるようで、目の奥まで光が染みて、涙が出そうになった。
いつも通りの、春の日差しのはずなのに。まるで、誰かに「これは違う」と告げられているようだった。
教室に戻って、ふと隣の席を見ると――そこにいるはずの、あの人の姿はなかった。
エリザさん。
今日は「家の都合でお休み」だそうだ、と担任が言っていた。
机の上には、教科書もノートも置かれていない。
まるで最初からそこには誰も座っていなかったように、ただ風だけが窓から吹き抜けていた。
「……っ!」
そのとき、後頭部に“くしゃっ”という音が響いた。
「ひーなーたーちゃん、読んでね~?」
クシャクシャに丸められた紙くずが頭にぶつかった。振り返るまでもない。
声で分かる。
百合子。そして、彼女の取り巻きの二人。
廊下の裏、掃除用具入れの前。いつもの呼び出し場所が、紙に走り書きされていた。
いつもと同じ、はずだった。
……でも。心の中のどこかが、いつもとは違っていた。
怒りでも、怖さでもない。もっと――冷たく、澄んだ感情。
「……行く理由、あるかな」
ワタシは紙を丸め直して、ゆっくりと手の中で潰した。
ワタシは、百合子からの呼び出しを――無視した。
無言のざわめきが教室に満ちていた。クスクスと笑う声。
何人かが私の方を見て、何か言いたげだった。
でも、私は一切応えず、席を立って職員室へ向かった。
「神良エリザさんの……住所、教えていただけますか?」
担任の先生は少し驚いた顔をしてから、「欠席連絡のついでなら」と教えてくれた。
届けるのは、今日配られたプリントと宿題の連絡だけ。ただ、それだけのつもりだった。
けれど、駅から一駅ぶん歩いた先にあったその屋敷は、まるで時間に取り残されたようだった。
蔦が絡まった石塀。
洋館のような重々しい玄関扉。
そこだけがまるで“異国”だった。
チャイムを押すと、古めかしい音が鳴った。誰も出てこない。……けれど、鍵は開いていた。
恐る恐るドアを押して中へ入ると、そこは静寂に包まれた別世界だった。
重厚な家具、蝋燭立て、古書の匂い。空気が外とは違っていて、鼻の奥がツンとした。いわばワタシの家の教会と真逆の環境、でも今はそれが落ち着いて感じる。
その時、廊下の脇に並んだ額縁の中に――私はそれを見つけた。
色褪せた、セピア色の写真。
明治の頃の服装をした人々が写っていた。
おかっぱ髪の女の子が、写真の端にいた。
やけに白い肌、細い体、そして、赤い目。目が合ったような気がした。
心臓がひとつ、跳ねた。
……エリザ、さん?
その顔は、今、ワタシの知っている“あの人”と、まったく同じだった。
服が違う。
時代が違う。
でも――顔だけは、何ひとつ変わっていなかった。
その瞬間、背後で「カツ……カツ……」と階段を下りてくる音がした。
私は反射的に振り返る。そこにいたのは、彼女だった。
あの、分厚いメガネも制服もなく、代わりに黒いドレスに身を包んだ彼女が、蝋燭の炎の中から現れた。
肌は陶器のように白く、その瞳は――金色に、輝いていた。
「ようこそ、日向さん。貴女が来てくれると、信じていたわ」
ワタシの手は、無意識に首元へ伸びていた。
――十字架。
この家に来るときも、学校に行くときも、ずっと私を守ってくれた、信じる心の証。
けれど、それに触れようとした瞬間。
「――あぐっ……!」
ビリッ、と。焼けつくような痛みが、指先から脳に突き刺さった。
火傷……違う。もっと、深い場所が焼かれていく感覚。
ワタシの中の“何か”が否定され、拒絶され、壊れていくような……
「……もう、そんなもの、握れない身体になっているのよ?」
エリザさん――違う、もう“エリザ”ではなかった彼女は、金色の瞳を細めて、艶やかに微笑んでいた。
「可愛いわね……信じていたものに裏切られるって、どんな気持ち?」
ワタシは口を開きかけて、何も言えなかった。
指はまだじんじんと痛い。
でも、それ以上に――ワタシの胸の奥の、奥の奥が、ザラザラと軋んでいた。
「でも、ね。痛みだけじゃなかったでしょう?」
ゆっくりと歩み寄ってくる彼女。漆黒のドレスが蝋燭の光を吸い込んで、影を引いていた。
「今日の授業。いつもより、理解できたでしょう? 体育だって、身体が軽かったはずよ。それに……陽射し、ちょっと痛かったでしょう?」
ワタシの目が見開かれる。どうして、そんなことを――?
「それが、“変化”よ。貴女の中で、わらわの血が息づいてる。もう、普通の人間じゃなくなっているの」
ワタシは後ずさった。でも足は、床に縫い止められたように動かなかった。
「怖い? ううん、本当は……嬉しいんでしょう?」
エリザの指が私の頬に触れる。氷のように冷たいのに、熱が走った。
「だってあなた、自分の人生に“意味”を探してたもの。神様に祈っても、誰にも助けてもらえなかった。だったら、わらわが――あなたの神様になってあげる」
彼女の声が、甘く、毒のように、ワタシの耳を溶かしていった。