「……ひょっとして……」
喉が渇く。口の中がカラカラで、言葉を出すのもやっとだった。
「エリザ……」
彼女の瞳がすっと細まった。
期待と、愉悦と、ほんの微かな残酷さが混ざったような、そんな笑み。
ワタシは震える声で、続きを吐き出す。
「エリザベート……? エリザベート・カーミラ……?」
足元が崩れそうだった。
まるで教会の祭壇に立つ石像が、いきなり動き出してこちらを見てきたような、現実が否定される感覚。
ワタシが名前を言い終えるより先に、彼女はクス、と喉の奥で笑った。
「ご名答。……まさか日本の女子高生に、そんな名前を呼ばれる日が来るとはね」
天井のシャンデリアが揺れた気がした。
目の前の空気が、急に重たく濃くなる。
「信じられないかしら?信じたくないかしら? でもあなた――もう気づいているはずよ。この世界が、ただ“信仰”だけでは守ってくれないことに」
彼女の一歩ごとに、ワタシの常識が剥がれていく。
さっきまでの空想が、今では現実の檻になっていく。
「……そんな、はず……」
ワタシは否定した。けれど、手の指先はまだ十字架の火傷の痛みを覚えていた。それが答えだった。
ワタシの中の“信仰”は、もう――触れることさえできない。
「あなたの血が、あなたの心が、すでに答えている。――ようこそ、日向。私の夜へ」
そして彼女は、ワタシの名を、まるで愛おしい恋人の名を囁くように、口にした。
「ひなた、ちゃん――」
その一言で、ワタシはきっともう、戻れなくなった。
部屋の隅に置かれた、色褪せた額縁。ふとした好奇心だった。
プリントを届けに来た――ただそれだけのはずだったのに。
視線が吸い寄せられるように、その写真に重なってしまった。
和装に洋傘を差し、じっとこちらを見つめている少女。
写真の中の時間は、明治初頭。――けれど、その姿は……
「……うそ……」
ワタシの声が震えた。
「ひょっとして、エリザ……」
その名を呼びかけた瞬間、背後で扉が音もなく閉じる。
「気になったかしら?」
背中が凍りついた。振り向くと、そこにいたのは、もはや“エリザ”ではない、“エリザベート・カーミラ”。
彼女は、写真の少女と寸分違わぬ顔で――まるで時すら喰らって永遠に囚えたような、微笑を浮かべていた。
「それは、わらわがこの国に来た頃のものよ。あの忌々しいエクソシストどもから逃げるためにね。文明の遅れた、野蛮で退屈な島国だと思っていたけれど――」
彼女はくす、と口元を抑え、それからわざとらしく、官能的な舌を這わせて笑った。
「女の子だけは、別だった。この国の娘たちは、涙も、絶望も、苦しみも、どこよりも甘く、熟れていて――いちばん、美味しかったわよ」
ワタシは、声を失った。
心臓が、何か冷たいものに締め上げられる。
だけど、震える指先はなぜか――その額縁に、もう一度、そっと触れてしまっていた。
彼女が生きた時間。
彼女が踏んできた“罪”。
そして、ワタシが踏み込もうとしている“夜”。
すべてが静かに、そして抗えないほどに魅力的だった。
「……良い表情ね」
エリザの声が、甘やかに揺れる。まるで胸元にそっと手を添えられるような、ひどく私的で、優しい響き。
「わらわは、そういう少女が好きなのよ。愛に満ちて、信じて、裏切られた娘。その苦い気持ちが――最高のスパイスになるの」
金色の瞳が、ワタシを捉えて離さない。もはや逃げられないと、身体の奥で理解する。
それでも、ワタシの足は一歩も動かず、声も出せず――ただ、見上げるだけ。
「さあ、もう分かったでしょう?」
彼女の手が私の胸元へと伸び、まだ赤く腫れた十字架の火傷を、爪でなぞるように撫でる。
「あなたは、すでに人間じゃないの。夜に選ばれ、血によって目覚めた」
彼女の口元に浮かぶのは、慈しむような、そして少しだけ獲物を見るような――支配と愛が混ざった笑み。
「闇の貴族、真祖たるわらわ――エリザベート・カーミラの眷属なのよ、日向」
その言葉が降り注いだ瞬間、胸の奥が灼けるように熱くなる。
それは確かに、怖かった。けれど同時に――今まで誰にも与えられなかった「特別」が、そこにあった。
ワタシを信じてくれなかった“神”ではなく、
ワタシをいじめる“人間”でもなく。
ワタシの存在すべてを見て、選んだ“彼女”。
その夜、ワタシは“神”に捨てられ、“闇”に愛された少女となった。
それからは、もう――否定することも、抵抗することも、できなかった。
人としての羞恥も、理性も、教会で学んだ「正しさ」すらも、この金の瞳の前では何の力もなかった。
ワタシは、自らの身体を差し出した。
制服の襟をそっと外し、首が見えるように肩を傾け、手をだらんと広げて、全てを委ねる。
エリザは、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「いい子ね……ほんとうに、いい子」
彼女の吐息が耳をくすぐる。
そして――唇がワタシの唇に、そっと触れた。
それは甘くて、哀しくて、震えるほど優しいキスだった。
「怖くない?」
「……ううん」
答えた自分の声が、あまりに静かで――それでいて、とても大人びていた気がした。
エリザの指が、ワタシの首筋をなぞる。人差し指が、細くて柔らかくて、だけど、心の奥を暴いてくるような温度。
何度も、何度も、愛おしむように肌を撫でられ、そのたびに胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「可愛いわね、日向。その血が、わらわの中に溶けていくのが楽しみよ……」
そして、次の瞬間――鋭い牙が、私の首に突き立てられた。
「……っ――あ……!」
全身を電流が走ったような衝撃。痛みとともに、身体の奥深くで何かが爆ぜる。
でも、それは決して「苦痛」ではなかった。
むしろ、熱く、甘く、自分の存在が彼女の中に融けていくような、この上ない快楽。
体が震え、脚が抜け、ただ、ただ、エリザに縋ることしかできなかった。
その夜、ワタシ・影山日向は、十字架を捨て、人間ではなくなった。
神を裏切り、血に染まり、闇の姫に抱かれて、名もなき救済の中で“生まれ変わった”。