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第4夜 満たされた、愛

「……ひょっとして……」


 喉が渇く。口の中がカラカラで、言葉を出すのもやっとだった。


「エリザ……」


 彼女の瞳がすっと細まった。

 期待と、愉悦と、ほんの微かな残酷さが混ざったような、そんな笑み。


 ワタシは震える声で、続きを吐き出す。


「エリザベート……? エリザベート・カーミラ……?」


 足元が崩れそうだった。


 まるで教会の祭壇に立つ石像が、いきなり動き出してこちらを見てきたような、現実が否定される感覚。

 ワタシが名前を言い終えるより先に、彼女はクス、と喉の奥で笑った。


「ご名答。……まさか日本の女子高生に、そんな名前を呼ばれる日が来るとはね」


 天井のシャンデリアが揺れた気がした。

 目の前の空気が、急に重たく濃くなる。


「信じられないかしら?信じたくないかしら? でもあなた――もう気づいているはずよ。この世界が、ただ“信仰”だけでは守ってくれないことに」


 彼女の一歩ごとに、ワタシの常識が剥がれていく。

 さっきまでの空想が、今では現実の檻になっていく。


「……そんな、はず……」


 ワタシは否定した。けれど、手の指先はまだ十字架の火傷の痛みを覚えていた。それが答えだった。


 ワタシの中の“信仰”は、もう――触れることさえできない。


「あなたの血が、あなたの心が、すでに答えている。――ようこそ、日向。私の夜へ」


 そして彼女は、ワタシの名を、まるで愛おしい恋人の名を囁くように、口にした。


「ひなた、ちゃん――」


 その一言で、ワタシはきっともう、戻れなくなった。


 部屋の隅に置かれた、色褪せた額縁。ふとした好奇心だった。


 プリントを届けに来た――ただそれだけのはずだったのに。

 視線が吸い寄せられるように、その写真に重なってしまった。


 和装に洋傘を差し、じっとこちらを見つめている少女。


 写真の中の時間は、明治初頭。――けれど、その姿は……


「……うそ……」


 ワタシの声が震えた。


「ひょっとして、エリザ……」


 その名を呼びかけた瞬間、背後で扉が音もなく閉じる。


「気になったかしら?」


 背中が凍りついた。振り向くと、そこにいたのは、もはや“エリザ”ではない、“エリザベート・カーミラ”。

 彼女は、写真の少女と寸分違わぬ顔で――まるで時すら喰らって永遠に囚えたような、微笑を浮かべていた。


「それは、わらわがこの国に来た頃のものよ。あの忌々しいエクソシストどもから逃げるためにね。文明の遅れた、野蛮で退屈な島国だと思っていたけれど――」


 彼女はくす、と口元を抑え、それからわざとらしく、官能的な舌を這わせて笑った。


「女の子だけは、別だった。この国の娘たちは、涙も、絶望も、苦しみも、どこよりも甘く、熟れていて――いちばん、美味しかったわよ」


 ワタシは、声を失った。

 心臓が、何か冷たいものに締め上げられる。


 だけど、震える指先はなぜか――その額縁に、もう一度、そっと触れてしまっていた。


 彼女が生きた時間。

 彼女が踏んできた“罪”。

 そして、ワタシが踏み込もうとしている“夜”。


 すべてが静かに、そして抗えないほどに魅力的だった。


「……良い表情ね」


 エリザの声が、甘やかに揺れる。まるで胸元にそっと手を添えられるような、ひどく私的で、優しい響き。


「わらわは、そういう少女が好きなのよ。愛に満ちて、信じて、裏切られた娘。その苦い気持ちが――最高のスパイスになるの」


 金色の瞳が、ワタシを捉えて離さない。もはや逃げられないと、身体の奥で理解する。

 それでも、ワタシの足は一歩も動かず、声も出せず――ただ、見上げるだけ。


「さあ、もう分かったでしょう?」


 彼女の手が私の胸元へと伸び、まだ赤く腫れた十字架の火傷を、爪でなぞるように撫でる。


「あなたは、すでに人間じゃないの。夜に選ばれ、血によって目覚めた」


 彼女の口元に浮かぶのは、慈しむような、そして少しだけ獲物を見るような――支配と愛が混ざった笑み。


「闇の貴族、真祖たるわらわ――エリザベート・カーミラの眷属なのよ、日向」


 その言葉が降り注いだ瞬間、胸の奥が灼けるように熱くなる。


 それは確かに、怖かった。けれど同時に――今まで誰にも与えられなかった「特別」が、そこにあった。


 ワタシを信じてくれなかった“神”ではなく、

 ワタシをいじめる“人間”でもなく。

 ワタシの存在すべてを見て、選んだ“彼女”。


 その夜、ワタシは“神”に捨てられ、“闇”に愛された少女となった。


 それからは、もう――否定することも、抵抗することも、できなかった。


 人としての羞恥も、理性も、教会で学んだ「正しさ」すらも、この金の瞳の前では何の力もなかった。


 ワタシは、自らの身体を差し出した。

 制服の襟をそっと外し、首が見えるように肩を傾け、手をだらんと広げて、全てを委ねる。


 エリザは、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「いい子ね……ほんとうに、いい子」


 彼女の吐息が耳をくすぐる。


 そして――唇がワタシの唇に、そっと触れた。


 それは甘くて、哀しくて、震えるほど優しいキスだった。


「怖くない?」

「……ううん」


 答えた自分の声が、あまりに静かで――それでいて、とても大人びていた気がした。


 エリザの指が、ワタシの首筋をなぞる。人差し指が、細くて柔らかくて、だけど、心の奥を暴いてくるような温度。


 何度も、何度も、愛おしむように肌を撫でられ、そのたびに胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


「可愛いわね、日向。その血が、わらわの中に溶けていくのが楽しみよ……」


 そして、次の瞬間――鋭い牙が、私の首に突き立てられた。


「……っ――あ……!」


 全身を電流が走ったような衝撃。痛みとともに、身体の奥深くで何かが爆ぜる。

 でも、それは決して「苦痛」ではなかった。


 むしろ、熱く、甘く、自分の存在が彼女の中に融けていくような、この上ない快楽。

 体が震え、脚が抜け、ただ、ただ、エリザに縋ることしかできなかった。


 その夜、ワタシ・影山日向は、十字架を捨て、人間ではなくなった。


 神を裏切り、血に染まり、闇の姫に抱かれて、名もなき救済の中で“生まれ変わった”。

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