首筋に残る感触と、身体の奥に残る熱の名残を抱いたまま、ワタシは茫然と床に座り込んでいた。
足は震え、唇は乾いて、心臓の鼓動がまだ収まらない。
けれど――それ以上に、喉が、ひどく渇いていた。
――水……じゃ、ない。
普通の飲み物では満たされない、得体の知れない渇き。
口の中が空っぽで、舌がざらついている。
ただの脱水とは違う。もっと、こう……「血が欲しい」と言ったら、きっと本当にそうなのだろう。
そのとき。
「……あら」
エリザが、くすりと笑った。
床にしゃがみ込んだワタシを覗き込むようにして、肩をすくめる。
「やっぱり、喉が渇いたでしょう? 最初はそうなるの。わらわの血が、あなたの中で目覚める時、身体が“欲する”のよ」
ワタシは戸惑いながら唇を舐めた。
渇きはますます強まり、まるで喉の奥で何かが蠢いているようだった。
「……血、を……?」
その言葉を口にしたとたん、背筋がゾクッとした。
だけどエリザは、なぜかそこで――ふいに、軽い調子でウィンクした。
「ふふっ、安心して。いきなり人を襲えって言うつもりはないわ。ね、代わりに……トマトジュースでいいなら、飲む?」
ワタシは目をぱちぱちと瞬いた。
「……え?」
エリザは立ち上がり、まるで友達が家に遊びに来た女子高生のように冷蔵庫へ歩いていく。中を覗き込んで、肩越しに微笑んだ。
「吸血鬼って、そういうイメージあるでしょう? 血の代わりにトマトジュース飲んでるみたいな、マンガとか、アニメとかで」
そして彼女は、真っ赤なパックを取り出して振ると、手渡してきた。
その動きがあまりにも自然で、先ほどまでの威厳と妖艶さがどこかへ消えていた。
「……ぷっ……何それ……」
ワタシは、笑ってしまいそうになる自分に気づいた。
口元が緩んで、それを慌てて抑える。そして小さな牙を口の中に感じた。
渇きは変わらないのに、心が少しだけ、軽くなっていた。
「エリザ様、そういうとこ、ズルいです」
思わず口に出たその言葉に、彼女は眉を上げ、わざとらしく首を傾げて見せた。
「そう? 可愛いあなたに“笑ってほしい”って思っただけよ。……人間だった頃の名残かしらね」
その言葉が、また少し、胸に沁みた。
部屋の中、灯りはつけなかった。代わりに揺らめくキャンドル。百均で買ったくせに、案外ムードが出る。
エリザは、相変わらずだ。窓際に腰かけて、分厚い本を読んでる。
タイトルは『世界の拷問史』と『魔女裁判のすべて』。……いやいやいや。重くない? 夜に読む本?
「エリザ様、それほんとに面白いんですか」
「ええ、とても。なにせ――これは、わらわの昔話なの」
さらっと、とんでもないことを言う。
そういうとこ、嫌いじゃないけど、びっくりするからやめてほしい。
「ほんとに……あったんですか、こんなこと」
「あるどころか、わらわがその“証拠”よ」
蝋燭の炎が、彼女の金の瞳を照らす。吸い込まれそうな、でもどこか冷たい光。
「わらわがいたのは、そうね……十四世紀。黒死病が流行っていた頃」
「ヨーロッパの……?」
「ええ。当時、わらわはとある領主の娘だった。父は信仰深く、民のために祈りを捧げていた。……でも、病は止まらなかった」
「……まさか」
「“清らかな処女を神に捧げれば、村は救われる”って、そう言われたのよ。まさか、ね。ほんと笑っちゃうわ。生贄よ、生きたままの」
彼女の声には、怒りも憎しみも、もはやなかった。
あるのは、冷えた氷のような諦念。
「そのとき、救ってくれたのが“あの方”。今はもう、この世にはいない、真祖の吸血鬼。彼が、わらわを救い、眷属に誘った。でも……わらわは眷属にはならなかったの。血を分けられずとも、こうして永く生きることを選んだ。わらわ自身が、真祖になることを」
息を呑んだ。もう、言葉なんて出てこなかった。
「信仰も、家族も、何もかもに裏切られたのよ、日向ちゃん」
「……ワタシは」
返せなかった。
彼女と同じ経験はしてないけど。……それでも、わかる。
誰かに信じてもらえない、救ってもらえない、あの孤独。
「でも、貴女にはまだ道がある。決めるのは、これから」
次の日。
喉が、渇いていた。ただの水じゃダメ。ジュースでも、ミルクでも。血、じゃなきゃダメ。
それでも、ワタシは学校に行った。
日傘を差して、マスクをして、長袖のカーディガンを着て。
この季節には明らかに浮いてるけど、そんなのどうでもいい。
百合子に呼ばれた。
ついていくと、いつもの取り巻き二人組がいた。
……太いのと、細いの。今まで名前なんて興味なかったけど、今ならわかる。細いほうが桜。太いほうが牡丹。たぶん、どこかで聞いてたんだろう。
「やーん、今日のカゲちゃん、暑そうじゃん? 日傘って、何? 貴族の真似?」
「ははっ、いや吸血鬼のコスプレじゃね?」
「ウケる!」
うるさい。ほんと、うるさい。でも、聞いてあげる。今日は少し、優しい気分だから。
「……なに?」
「これ。お守りってやつ?」
桜が、ワタシの首元に手を伸ばした。
銀の十字架――小さい頃、両親からもらったもの。
泣いて泣いて、死にたいって思ったとき、それでも外さなかった、ただ一つ。
それを、引きちぎられる。
「やめて……それは……」
「これがあるからさ、アンタちょっとだけ強がってたんでしょ? 心の支え? 笑わせんなよ」
牡丹が、にやっと笑った。
ぐしゃっ。
その太い足が、十字架を踏みつぶす。
鈍い音がして、銀が砕けた。
一瞬、時が止まったようだった。
「フッ……フフフ、ハハハ、アハハハハハハハッ!! アーッハッハッハハハハハハ!!」
……ワタシは、笑った。
喉の奥から、震えるような声が漏れて、やがてそれは笑いに変わった。
――ああ、そうか。
やっと。これで、切れたんだ。
「なに笑ってんのよ」
牡丹が、怒りに任せて殴ろうと手を振り上げた。
でも、ワタシはその手を掴む。ぎゅうっと、優しく、でも逃さないように。
「ん、なに――」
そのまま、牙を突き立てた。甘い、熱い、命の味。
牡丹の身体が震え、みるみるうちに痩せていく。
無駄な肉が削ぎ落ち、美しい輪郭だけが残る。
血を吸われた牡丹は、半分吸血鬼のような状態になり、百合子と桜に襲い掛かろうとした。