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第7夜 さようなら。

 エリザがふいに姿を見せた。


「日向ちゃん、すっかり“馴染んだ”みたいね。この学校も……あなたのおかげで、随分と“愛”に満ちた場所になってきたわ」


 どこか嬉しそうに微笑みながら、でもその瞳の奥は、少しだけかげっていた。


「でもね、日向ちゃん……あなたには、まだ“超えなきゃいけない壁”があるの」


 “壁”――それは何なのか、聞かなくてもわかっていた。ワタシは、出張から帰ってきた両親に会うため、二日ぶりに家へ戻ることにした。


 けれど、久しぶりに戻った家は――もう、安らぎなんてひとつも感じられなかった。


 そこは、ただの“敵地”だった。


 玄関に足を踏み入れた瞬間から、空気が重い。祈りの声、厳しい視線、神の名を騙る“清らかな”言葉の刃。


 ワタシの存在を否定するためだけに積み上げられた、“正義”の城壁。この家には、もう“ワタシ”の居場所はない。

 けれど――だからこそ、ワタシはここを乗り越えなきゃいけない。


 愛を知らずに、神の名を振りかざしてきた人たちに。ワタシは今度こそ、真正面から向き合わなきゃいけない。


 父は何かを検索していた。ワタシが脱いだ上履きの裏に黒い染みを見つけたその瞬間から、彼の目の色が変わっていた。


 そして見つけた――“吸血鬼 退治 方法”。


 画面の向こう側で、まるでそれが当然のことかのように、「家族が吸血鬼になったときの対処法」が並んでいた。


 十字架。

 聖水。

 杭。

 焼却。


 何の感情も込められていないその単語たちが、ワタシの“存在”を簡単に断罪していた。

 それだけじゃなかった。


 父の表情。そこには、学校で見せたこともない――凍りつくほど冷たい“悪”への憎悪があった。その視線が今、ワタシに向けられている。


「……お前は、もう“人間”じゃない」


 母は震えていた。でも、それは“悲しみ”じゃない。

 “神を信じた自分”が裏切られたことへの、恐怖と怒り。


「あなたは……私たちの子じゃない。神の加護を裏切った化け物!」


 ああ、わかった。――そうか。“もう、巣立ちの時なんだ”。


 ワタシは、血の繋がりに縛られていた。愛されたいと思っていた。


 でも、それはただの幻想だった。

 ワタシが本当に手に入れた“家族”は、あの学校で、夜の中で、血で繋がれた眷属たちだった。


「今のワタシは、“神”なんかじゃなくて……“愛”のために、生きてるの」


 父が木の杭を振り上げた。

 母が聖水の小瓶を投げようとした。

 ワタシの頬を、一筋の血が流れ落ちた。


 それは、涙だった。赤くて、温かい……さよならの血涙。


「……ワタシは、“悪”なんだって」


 小さく呟いた声が、部屋の中に沈んでいく。誰も返事をしなかった。もう、ワタシは“子供”ではないらしい。


 ――なら、いいよ。


 次の瞬間、ワタシの爪が喉を裂いた。母の声も、父の怒鳴りも、もう聞こえない。

 あるのは、ただ流れる“温かさ”。


 父の頬を伝う赤い液体。母の胸元から溢れる、暗い紅。


 それが床にぽたぽたと滴り落ちる音が、まるで聖歌のようだった。


 ワタシはしゃがみこんで、その血をすくい、そっと指先で口に運んだ。


 ――ああ、これが……


「……これが、“愛”の味だったんだ……」


 鉄錆のような味。だけど、懐かしくて、甘くて、胸の奥がちくちく痛むような……まるでずっと欲しかったものを、ようやく手に入れたときの味。


 頬を伝う涙は、もう赤かった。


 血の涙。ワタシが“神”ではなく、“吸血鬼”として生きることを選んだ証。


 これでもう、迷わない。この世界に、帰る場所はない。


 でも、“行く場所”なら、ある。

 ワタシには、愛を欲しがる子たちがいる。


 エリザがいて、百合子がいて、桜がいて、牡丹がいて……そして、これから増えていく“家族”たちがいる。


 血を拭い、立ち上がる。夕闇のカーテンが静かに揺れる。


 部屋の窓が開いたままだったことに、今さら気づいた。

 そこから吹き込む夜風に、ワタシは少しだけ目を細める。


「……さようなら、パパ。ママ」


 もう呼ぶことはない。

 でも一度だけ、そう呼んで、ワタシは振り返らずにその家を出た。

 ワタシはもう、夜の住人。


 この血と引き換えに得たのは、憐れみでも、赦しでもない――“真の自由”と、“愛されること”だった。


「終わったみたいね」

「はい、お姉さま」


 ワタシはうなずく。


 胸にしまっていた牡丹ちゃんに踏みつけられて壊れた銀の十字架、 ワタシはそれを握り、地面に投げ捨てた。

 手にはまだジンジンと痛みがある、そうか……エリザを保健室に連れて行った時の火傷の痛み、こんなものだったんだ……ワタシはエリザと同じ痛みを感じれたことを嬉しく感じた。


「さようなら、パパ、ママ。さようなら、人間の日向」


 エリザは無言で燭台を倒した。倒れた燭台が床を打ち、蝋燭の火が装飾具に燃え移る。たちまち、ワタシの家――教会は業火に包まれていく。

 もう、誰も住まない。

 信仰も、祈りも、贖罪も、ここにはない。


 私は頷き、背中に生えたばかりの翼を広げる。まだ羽ばたくのはぎこちないけれど、それは確かな変化の証。


 空に舞い上がり、燃え盛る教会を見下ろす。消防隊も救急隊も慌てふためいて駆けつけているけれど、もうそこに戻る場所はない。


 この翼は、ただの力の象徴じゃない。これが私が人間でなくなった証明。完全な吸血鬼として、この夜の世界の住人になった合図。


「さようなら……」


 燃える教会を背に、ワタシは静かに呟いた。それは決別の言葉。


 娘ではなくなった自分が、かつての家族に告げる、最後の別れ。


 ワタシは、エリザと並んで飛ぶ。目指すのは、学園。

 あの場所こそが、これからワタシたちが築く「夜の家族」の、新しい愛の巣なのだから――。


 学園には、もう人間の頃の“ワタシ”はいなかった。

 生徒たちのほとんどが、百合子たち“夜の姉妹”を通じて、眷属となっていた。


 “昼”の時間に紛れて生きるふりをしながら、“夜”になると、孤独な迷子を探して彷徨う――そんな少女たちが、この街にはたくさん育った。


「……全部、任せたわね」


 ワタシがそう言うと、百合子は微笑んでうなずいた。


 桜と牡丹も並び、手を振ってくる。


 魔眼で操った教師に提出された、完璧に偽装された“転校届”。それをバッグにしまって、ワタシは彼女の手を握る。


「行きましょう、お姉さま。――次の夜が、私たちを待っている」

「ええ、日向。迷子は、どこにでもいるもの」


 コツ、コツ、と革靴の音を響かせながら、私たちは学園を背に歩き出した。

 街灯のない路地、誰も見ていない裏通り――


 そこから生えた漆黒の翼が、二人の背を包み、静かに広がる。


 風のない夜空に、ふわりと舞い上がったワタシたちは、手をつないだまま、灯りの絶えたこの街を見下ろした。


 そして――何も言わずに、そのまま夜の闇へと溶けていった。

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