闇と手をつなぐように彼と結ばれたのは、まもなくのことだった。
「朱珠が来て十年になったね」
毎年一度、彼が告げる事実がないと、朱珠は今も自分が十六歳のように思えてならない。
「今夜、花見に行こうか」
いろりを挟んでほほえんだ青慈は、優しく言った。
彼は空になった鉄鍋を土間に運び、朱珠の分の器も片付けてくれる。
いつものように静かな朝が始まっていた。朱珠は座敷に移り、そこで繕い物を始める。彼はそのまま板間に残り、写本を始めた気配がしていた。
彼はとても綺麗な字を書く。彼が書き写して配る本は、村の人々の知識と、何よりの楽しみと聞いている。
それに比べると朱珠の繕い物は平凡で、彼と自分の衣をどうにかまかなえるくらいだ。
けれど彼は朱珠がここに来たときから、板間ではなく、日当たりがよく、庭の見える座敷を朱珠だけの部屋として与えてくれた。
朱珠がふと顔を上げると、彼は手を休めて朱珠を見ていた。朱珠が首を傾けると、彼は何も言わずに満足そうにうなずいて、自分の仕事に戻る。
庭を見れば、陽光の中で小鳥が遊んでいる。
昨日と同じ時を辿るようにして、二羽のつがいが寄り添っていた。
朱珠は十年前、神の里と呼ばれるここに嫁いできた。
家々も周囲を囲む山の光景も、淡い光に満ちた穏やかな土地だ。
そこに住む人々さえ優しく穏やかなのは、青慈がそうするように言ってくれたからだろうか。朱珠はここに来て誰にも、荒い声をかけられたことがなかった。
日中、繕い仕事をしていても少しも疲れない。だから気が付けば一日が終わっている。
朱珠は太陽が沈んだ後、青慈に手を引かれてようやく外に踏み出した。
「朱珠、少し歩くよ」
歩み始めた二人を、消えかけた影が追っていく。
去年も同じように、夜桜を見に行った。彼にとって、それは毎年欠かせない祝い事だった。
うかがうように顔を上げると、彼はまた朱珠を見ていた。目が合うとほほえんで、歩く速さを緩めてくれる。
少し歩くと彼は言うが、目的の桜まではほんの半刻もない。けれど彼は毎年、この二人で手を取って歩く時をゆっくりと重ねる。
それは朱珠が十年前、泣きながらここを歩いて来た自分を忘れるまで続くのだろう。
あの日、朱珠は島を離れてきた寂しさで泣いてばかりだった。島の人たちに受けた仕打ちは今思うと酷いものだったのに、それでも帰りたいとさえ思った。
「顔を上げて、朱珠」
消えた影を追っていた朱珠は、彼の声に顔を上げる。
そこに夜桜が枝葉を広げていた。闇に溶けるような漆黒の幹、そこから伸びる枝には笑みをこぼすような花が爛漫と咲く。
「ごらん。僕と生まれを共にした樹は、異界にも続いている」
彼は愛おしそうに幹を撫でて、朱珠の手もその幹に添えさせる。
朱珠が目を閉じると、そこに生まれ育った島が見える。けれどそこに人はほとんどいない。祭りの夜から島には病が流行って、ほとんどの人々が亡くなってしまった。
朱珠の心が痛むのは、まだ故郷を惜しむ心が残っているから。
青慈はふいに朱珠の手をつかんで、それを自らの頬に当てる。
「僕は残酷かな?」
朱珠は首を横に振って笑いかける。
「いいえ。誰よりお慕いしています。……あなた」
あの日、闇が渡るように優しい化け物がやって来たとき、朱珠は彼と運命を共にした。
消え失せるままだった自分は今も化け物になって生き続け、いつか彼と新しい命をもうける。
祝福のように降り注ぐ花びらの中、朱珠は夫となったひとの頬に唇を寄せた。