落日革命という歴史のイベントに名前を残した主だった人物のその後について、後世の史書をまとめるとこうなる。
パラシオンの合議制を裏で支えたエルンストは、ブランデル本国にて、統一歴四七二年に父リカルド八世の後を継ぎエルンスト二世として即位した。民衆に歩み寄り、飴と鞭を使い分けた柔軟な施政により、後に公平王と讃えられることになる。その王妃オルトリンデ一世も、夫ともとに積極的に国内の民意を汲むことにやぶさかではなかったという。ブランデルとロクスヴァの交易に絡んだ政略結婚であったと伝えられているが、二人の間に波風のたつことはなかったらしい。エルンストが組織した特命隊「新フィアナ騎士団」は、即位により拘束の多くなったエルンストに代わり、国内外での耳目となって彼を助けたという。この組織の頭目の称号は「団長代理」であったと伝えられ、その理由は定かではない。
そのオルトリンデの兄ディートリヒは、父前ロクスヴァ公爵譲りの寛大にして豪放な性格をもって民衆を感化し、異教徒インギー族との和解を達成した。この事件で、グスタフ側に荷担したことが公になったカイル公爵らが失脚したのちには、すすんで、エルンストとともにパラシオン会議を支える姿勢を見せた。名をテオドラとも伝えられる花街出身の公妃とは、周囲を混乱のるつぼに落としながら、劇的としか言い様のない情熱を持って結ばれたという。一子を残し早世してしまうが、周囲のすすめに関わらず、そののち彼は再び妻帯しなかった。
その部下にして、ブランデルとロクスヴァ、パラシオンを中継する任務を帯びるライナルト・アイゼルと結ばれた、極西ヨナ生まれの傭兵・ナヴィユは、夫ともにパラシオンに留まり、モイラのよき友人として、またパラシオン会議の特命書記として、参与ヒュバート・アクター、あるいはパラシオンと長く友好関係にあったネリノー小王国王姉クローディア・ナイルとはひと味違う、軽妙な弁舌の論客として内外に名を馳せた。時々城下に降りて、吟遊詩人のまねごとをすることもあったらしい。彼女の作になるとされる騎士物語の数編が伝えられている。
そして。
統一暦四七二年、「パラシオン会議」はパラシオン小王国の意志決定最高機関であるとの宣言が出された。その宣言書に、モイラが、その場に集った庶民や騎士より忠誠を捧げられたときに答えた言葉がのこっている。いわく、
「私はその忠誠を受けることは出来ません。今のように自発的にしろ、それまでのように多発的にしろ、それでは、あなた達がたくさんの血と涙の上に手に入れたものを私が奪い取ることになってしまいます。
あなた達のその「誓い」は、この空の玉座にこそ捧げられるべきです。
何もありません。でも、いつもいらっしゃいます。この空の玉座に」
モイラは、「会議」を守護し、パラシオンからオーガスタを監視する傍らで、新しい芽のふく土壌を育むことを己の使命とし、実行した。
「王は民を縛る綱ならず、民を掬う網ならず、まさに名のみ牙をむきて、剣たるべし鎧たるべし」
先のエピソードにつけても、この言葉につけても、感じられるのは己の唱える象徴王論を貫くその姿勢である。事実本人はその器にないと、再三の、エルンストやディートリヒ、あるいはパラシオン会議の求めにも応じず、女王として即位することはなかったらしい。
だが、パラシオン会議を初めとする、反オーガスタの民衆にとって、彼女がアレックスに続く華麗なる領袖であったことは間違いなく、モイラの名は「パラシオンの暁の薔薇」として長く讃えられることになる。
彼女の人気はオーガスタに留まらず、ブランデルでも清楚にして誇り高い風貌と滋味ある人柄が高く評価されている。
モイラは、落日革命以後の冬の数カ月を過ごしたブランデル北方・離宮ディアドリーをこよなく愛し、以来毎冬逗留したという。その時には必ずナヴィユが伴い、二人はエルンスト一家と思い出話に花を咲かせたという。
大きな流れとして、パラシオン会議の唱える民衆の政治は、すぐに、オーガスタ全土で受け入れられたわけではなかった。
落日革命の折、それぞれの小王国を逐われた為政者達は、アレックス死亡後の民衆の失望と混乱に乗じて膝元での革命運動を粛正、「現状」に戻すことに勤めた。その結果、パラシオン以外のほとんどの小王国では阿鼻叫喚が続けられたのである。度をました小国王たちの行動を監視すべき王都、すなわちグスタフは、時として酸鼻きわまりない報告を受けながら、関するところなく酒色に溺れたらしい。そして生涯后をたてなかった。宮殿の者はうわさし、それは後世に定説として残る。人非人と後ろ指指されたグスタフだったが、モイラに関しては本気だった部分があったらしい、と。
そういう時に、良心の芽の確実に育っている例もいくつかある。ハイランドでは、ロクスヴァ遠征軍に制圧されたのち、パラシオン会議発足に合わせて、会議の決定に恭順する姿勢を見せた。民衆は経済的に辛酸をなめさせられていた現況であるところの時のハイランド小国王一家を、軍隊との間の相当量の流血とひきかえに弾劾、幽閉させることに成功し、以後長くパラシオンを宗主と仰いだ。
ネリノーでは、小国王の心境変化に伴う、為政者側の権利を縮小させる改革に、臣下は一斉に反発した。実務部隊にとっては、体質を変化させると言うことがどんなに難しいことなのかと言うことを分かっていたのである。国の中枢は小国王派と旧態派にわかれ長く争った。だかついには、反体制分子と通じた小国王自らが、パラシオン会議の後押しを受けて国の統治権を国民に解放してしまう。混沌の時間を経たのち、オーガスタの国土の中心という立地から商業が発達し、それはやがて商人を中心にした市民自治を確立するににいたった。なおブールでも同様の動きがあったらしいが、ブール王はあの日宮殿を辞去してから老衰の床につき、その良心が定着するのを見届けることもなく崩御した。家臣たちは旧態のどれを新しくする事もなかった。
そしてパラシオンも、パラシオンの「現状」を保持しつづけていた。パラシオン会議は、ブランデルと(陰からの)ロクスヴァの支援のもとに、落ち着いた政情が保たれた。堪えかねてパラシオンに逃げて来た人々を暖かく受け入れた。モイラはそういう人々を、手ずから慰めて回ったと言う。
パラシオンは、それだけで一個の国と言えるだけの勢力を保持するようになった。未開発の原野ばかりだった西部を中心に避難民が入植された。グスタフは何度か、(モイラの釘さしも忘れて)パラシオンに向け、ほとんど武力介入とも言える恭順を求める特使を派遣したが、それも、革命に共鳴して本国を出奔した下級貴族や騎士達によって退けられたのである。
それでも、オーガスタ安定には、落日革命から実に二十年以上の歳月を待たねばならなかった。オーガスタからの圧力に対抗するために、パラシオン会議では革命に共鳴して本国を出奔した下級貴族や騎士達からなる騎士団を組織として擁するようになった。モイラの名を取り「暁の薔薇騎士団」と呼ばれる。パラシオン会議の宣言と同時に公式に結成されたこの騎士団は、初代の団長を、宣言の日にパラシオン騎士位を返上した同騎士団団長ジャーヴィス・パラス・ロクサーナが勤めたのを皮切りにして、統一暦四九〇年代からの、ある騎士が団長を勤めている間、最も繁栄したと言う。
アーウィン・E・E・デア・マクーバル・パラシア。
その出自は、落日王アレックスの甥、すなわちモイラの息子である。
この頃の団員名簿には、貴賎の別なく、若い革命家の名前が並んでいる。ブランデル王子バルトロミーオ・ルーク、ロクスヴァ公子テオドーレ・シルヴィウスなどの名もあり、後世に、模範的騎士の見本市ともいわれ、多くの冒険活劇、あるいはロマンスの題材となることはよく知られるところである。
そして。
「落日革命」に比して、俗に「曙光革命」と呼ぶ。ユイーツ統一歴四九四年、グスタフの首級が、オーガスタ宮殿中庭バルコニーにあげられた。前にあげたような騎士達を前にして、グスタフの最期は、玉座の間を右往左往した挙げ句、革命を求める民衆の何本もの槍に背中を許すと言う呆気無いものだったと言う。アーウィンはそれから「解放者」と讃えられることになり後世通称としてこのる。
アーウィンの友人でもあるパラシオン会議参与ヨシュア・アイゼルが残した例の私的な手記の断片に、その後のアーウィンと母モイラについてこんな記録がある。
『パラシオンに帰還の後、アーウィンは母上であるモイラ王女に一連のできごとを報告し、その勝利を捧げた。王女には、犠牲者への聖印の後莞爾としてお言葉のあり、のたまわく「多くの理不尽の上に、この勝利はあるのです。奢ってはなりません。かのオーガスタをわれわれの明日としてはならないのです」と。
その後アーウィンは、会議の決定を王女に報告した。すなわち、王女をパラシオン王に推薦することである。民意によって王に封ぜられれば、いかに王女にもご看過はできまい、と。しかし王女は、「私にはそんな大事なお役目は勤まりません」と頑として御辞退のあった由、会議としてはやむなしと、御再考を願うことは断念せざるを得ない』
その他、二三の記事以外、アーウィンと身辺については歴史は堅く口を閉ざす。後世に伝えられる彼の冒険活劇は各地に残された英雄伝説が仮託されたものに過ぎず、伝承・巷説と考えられるものをいっさい排除した場合、アーウィンの父系の系図をたどることすらできない。自然消滅を装い巧妙に、あるいは不自然なまでに作為的に、その話題は敬して遠ざけられ、モイラの物語として伝わるものの中には、落日革命のくだりのあと、突然として時代の下り、アーウィン数歳のエピソードが始まってしまうものすらある。現在はたくさんの異本が伝えられるモイラの物語が、初めは一つのものであったことは、物語の中で永遠に華麗で可憐なるモイラに魅せられた大勢の長年の研究によって明らかになっていることだから、どうもこの作為は物語の最初の作者によって施されたものであるらしい。荒唐無稽な冒険物語の様相も強いアーウィンの伝承に比べ、モイラの物語りは、作者の取材も丁寧になされた一代記と位置付けてもあながちいいすぎではない代物で、それどころか、アーウィンの存在を認めながら、その父親の事について認めない作者の姿勢には、この母子を、ユイーツ大陸全土とモノ大陸の一部で信じられている「ユイーツ一神教」の、「神」と彼を処女懐胎したという「神の母」に投影してるフシが伺えなくもない。モイラ物語の最初の作者は、聖母子像でも描く画家のように「聖なるモイラ」を表現したかったのかもしれない。
とにかく、「彼」がモイラの配偶として系譜にも残っていないと言うことは「負の奇跡」とでも言わねばなるまい。アーウィンの父親については今日にいたってもその出自に紛糾している。パラシオン会議参与ヒュバート・アクターが父親であろうとの説は有力視されているが、二人の肖像と伝わっているものは全くといっていい程にておらず…アーウィンはむしろ母モイラや伯父であるアレックスに似ているようだ…、確実な決め手はない。過去にモイラが、落日革命の後、療養のためしばらくブランデル王国に渡っていたと言う史実とモイラ王女の侍女アグネス・ブロイの作(それも現在は疑問視されているが)という回想録の中にときに名を出すということで、ブランデル人ベンヤミーノ・デア・モーナが、との説もあるが、著者アグネス・ブロイは、アーウィンの出生前後のことについては「かねてよりお心のあった方との間にお子さまをあげられた」とだけ述べ、それ以上の事はかたくななまでに言及をさけようとしている。そのこともあり巷説には、かの落日王アレックスが、美貌の妹に魅入られた果ての不義の産物とするが、その他、アレックスに関わる逸話群からそのような「引け目」は伺えないし、アーウィン誕生とアレックス死去の年とには、一二年程度だが決定的な年次的ずれもあり、あくまでも巷説とするのが妥当であろう。
結局、アーウィンの父親については、最後に引用する、モイラと、ヨシュアの母ナヴィユ・エイルから聞いたという短い記事のみが、今現在、確認される全てであるようだ。
『アーウィンの戦いの方法は、御父君に生き写しであるそうだ。すなわち、下馬はせず、特殊槍パルチザンのみを用い、適宜構えを変えることにより自在に戦況に対応する。母は、アーウィンにはまだ、戦闘能力はそれとして、精神的にこなされていない点があると語る。すなわち、今のアーウィンと同じ頃の御父君に同じく、王女に最も親しきものとしての矜持と家族愛との確執は、御父君がそうであったようにうまく立ち回ることができていないとか。母は時に、王女とともにいるアーウィンを可哀相な程に揶揄する。「ほら、そんなところは坊やそっくりだ」と言って笑う。
配偶殿下のお話をなさる時、王女のお顔は始終朗らかで穏やかであらせられる。御父君本人は、王女に対して臣下の礼を取ることを忘れないと言う誠実なお人柄であったらしいが、戦場では、御本人の職分にもとらない大功をいくつもあげられたそうだ。私もその武勇伝は、何度となく聞かされている。パルチザンの穂先が空を斬るたびに、その周りには、人と言わず馬と言わず、屍の輪ができ、然り乍ら、穂先の払い血の後には必ず聖印をきる、そういう方だったようだ。』
附記
以上の文章を擱筆してから、モイラ・アーウィン研究の第一人者であるところのブランデル王立図書館のジュリアーノ・L・デア・マルフィル・イダ・コナン卿の『「解放者」アーウィンのder(デア)称号』という珍妙な随想風の小論文が学会をにぎわした。
アーウィンには、ブランデルでの中級貴族称号「デア」が与えられている。これは、最近まで、幼少時のアーウィンが、モイラがパラシオン会議の活動をすすめる都合でブランデル王家で育てられいたということに基づくものと考えられていた。それを卿は「デア・マクーバル」という姓そのものとパラシオン王家での姓の継承方式に注目した。誕生した時点での王位継承権の順位によって、姓の付き方には違いが出る。アレックスとモイラの母はライナス家の出身であったが、王太子であるアレックスには王家の姓であるパラス姓が与えられ、モイラにはその母の出自を示すライナス姓が与えられている。つまりその時王位継承権第一位のものにだけ、パラス姓は与えられるのである。その後、同世代間で継承権の移動があれば、パラス姓もともに移動し得るものなのだ。
だがモイラは王家を自分より後に残そうとしなかったらしいことは、パラシオン共和国政府の古文書をひもとけばすぐわかることで、結局即位しなかった彼女の没後は存続していた傍系にパラス姓が引き継がれている。アーウィンは厳密に言えばアレックスの直系ではないのだから、モイラが王位につかない限りパラス姓を名乗れないのは当然の事であるし、と卿は解き、同時に「デア・マクーバル」姓にこだわる理由は別にあるとし、すなわち、アーウィンには生まれながらに「デア」称号のみでなく、血族により「デア・マクーバル」姓が与えられたのであり、そもそも「デア・マクーバル」姓を持ったアーウィンの血族であるブランテルびとこそ、誰あろうアーウィンの父、すなわちモイラの配偶(ヨシュア・アイゼルの手記での「配偶殿下」はあくまでも通称と考えられる。パラシオンの古文書にはその記録はないから、正確には「そう目されていた男」なのだ)である。と。
もちろん、卿の意見はいきなり信憑性の高いものではない。意見が真実か虚偽かの判断を統一させるには、この問題についてもっと長い時間をかける必要があるだろうと卿も述べている。だがアーウィンの父親をブランテルびとに設定できうるだけのものがブランテルには残っているとし、現に時代こそ当時の近過去に設定されてはいるものの、ブランデルには北方ディアドリーを舞台にした、城を守護する一騎士と、本名を明かされず「薔薇の姫」と呼ばれる貴婦人の一冬のロマンスが語り継がれている。「薔薇の姫」はブランデルびとではなく、本国で政争に巻き込まれ家族を失った心痛をいやすために、つてを頼って身を寄せていたということなっており、通称といいその設定はほかならぬモイラに仮託されたものと考えてよいだろう。姫はその後騎士の子を身籠りながら、その喜びを分かち合うことなく、春の訪れとともに忽然と消えて物語りは終わる。
こちらの物語の作者は伝えられていない。物語の主人公たる騎士の名も伝わっていない。通称として「六華の騎士」と呼ばれる。「六華」とは雪のことである。
物語りには「城を無垢に染める天使の翼よりこぼれ落ちた羽のように、高潔にし慈悲深く、また清く、雪融けが豊作を約束するごとくに誠実にして」と 伝えられる。 数々のモイラ伝承、アーウィン伝承に精通している卿にも、とうとうその出自までを明らかにはできないらしい。ただ、その彼は、モイラの仮託された優美な貴婦人「薔薇の姫」にまったく押されることもなく、立派な存在感を持って物語に生きている。