空気が変わったのは、階段を三段目まで下りたあたりだった。
コンクリートの壁に囲まれた非常階段。非常灯が赤く、まるで警告灯のように足元を照らしている。
――この下に、幻のホームがある。
ダンジョン迷駅。その奥底にあるという、かつて使われなかったホーム。
路線計画の都合で封鎖され、誰にも知られずに眠っていた空間。
「ここです……名駅マニアの間では“幻のホーム”って呼ばれてます」
スマホを三脚にセットし、配信を再開する。
目の前には、広がる無人のプラットホーム。
だが線路はない。代わりに、うっすらと残されたレール跡の錆が、まるで傷跡のように床に浮かんでいた。
「なにここヤバ……」
「ホラースポット?」
「この配信、地味にすごくね?」
チャットが動く。視聴者は十人にも満たない。だが、食いつき方が違った。
「ここ、正式には存在が公表されていません。でも、昔の鉄道資料と照らし合わせると、ここの構造に一致する“影のホーム”があったという記録があるんです」
和樹の声は、少しだけ熱を帯びていた。
彼にとって、ここはただの“探索ポイント”じゃない。
「名駅って、どんどん形を変えてきました。増築しては、また取り壊して。でもその中には、“消されるはずじゃなかった歴史”が確かにある。ここもその一つです」
彼は、柱に手を添えた。
古びたタイルに、うっすらと指の跡のような模様がある。それは、ただのシミかもしれない。けれど和樹にとっては、“誰かがそこにいた証”だった。
「この人、ヤバいくらい駅愛あるな」
「いやほんと尊敬する」
「ダンジョン探索じゃなくて、文化保存じゃん」
「すみません。……たぶん、僕は宝を探してるわけじゃないんです。ただ、“あったもの”を、なかったことにされたくない。それだけなんです」
静かなホームに、和樹の声が響く。
それは実況でもあり、祈りでもあった。
「伝わった」
「アーカイブ、保存しておいてくれ」
「この回、神回ってことにしていい?」
画面の片隅に、視聴者数「十五」の表示が出る。
数字は少ない。けれど、彼の“想い”に反応したコメントが、確かにそこにあった。
その日、和樹は帰り際に、幻のホームをもう一度振り返った。
誰もいないはずなのに、どこか“見送られている”ような感覚があった。
カメラを止め、静かに帽子のつばを下ろす。
「……また来ます」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
けれどホームの天井に残された小さなサビが、静かに共鳴するようにきらめいた。