放課後。
世界が静かになるこの瞬間を、俺は心待ちにしていた。
図書室のスポットライトは夕日。贅沢すぎる。
「……ふぅ」
椅子を引く音すら音楽のように聞こえる。
誰もいない教室、誰にも邪魔されない自由時間──ソロ活だ。
ゲームをやるわけでもなく、勉強するわけでもない。
ただ、ぼーっと窓の外を眺めて、青春をちょっぴり皮肉りながらダラダラ過ごす。それこそが、俺のゴールデンタイム。
「――ねぇ」
んん。雑音が聞こえるな。至福のひと時。珈琲を口に含み、仕切り直す。
苦いな。微糖だよね? これ。
新商品の缶コーヒーは買うとハズレが多い気がする。
「牧島くん」
……裾を引っ張れる。俺は黙って振り払う。だが、微動にしない。金縛りかな?
「牧島くん、いる……よね?」
ごくり。
ぴしっ──と空気が裂けた。
後ろから聞こえたのは、天使のような声。
のどが渇く。これは、恐怖だ。ああ、恐怖に違いない。
俺は知っている。この世には天使に化けたハニートラッパーが存在することを。
「人違いです……」
「学生証と顔写真一致してる」
「はっ! いつの間に!」
振り返ると、そこには隣の席の図書委員、相木ひとみ。
おっとりした雰囲気に、ふわふわの三つ編み。手には分厚い本と紅茶のポット。
「なにしにきた?」
「今日も、一緒に読書……しよ……?」
そう言いながら、上目づかいで俺を見つめる。
視線が合うと、きゅっと眉を下げて、少しだけ頬を染めた。
「……だ、だめかな……?」
言葉の終わりと同時に、彼女はスカートの裾をちょこんとつまみ、ぺこりと首をかしげる。
なぜかその動作が「撫でていいよ」と言ってるように見えてしまうのが悔しい。
ぐっ……!
誘っているのか!? またしても俺を
やめろ。やめてくれ。その眼鏡こしの上目遣い。
なんて澄んだ瞳、じゃない。っぶねー。つい一目惚れするところだった。
いや、ちょっと待て。ここで気を緩めてはならない。俺は騙されないんだからな!
「悪い、今日は予定があるんだ。……また今度な」
「……うん、そっか。残念」
俯くひとみ。
罪悪感が走るが、ここで情に流されては敗北だ。これは戦争なんだ。
──そう、俺の「ソロ活」を守る戦い。
が、その30分後。
俺は図書室のソファで、紅茶とスコーンを出されながら読書していた。
「……な、なぜこうなった」
え? さっきまでのカットはどこにいった?
「ねえ牧島くん……このお話、最後泣いちゃうんだよ……」
「そ、そう……ネタバレやめてよね」
近い。近い。いいにおい。口にしたらセクハラだ。
ごまかすように紅茶の香りを楽しむ。何くつろいでんだ俺は。
すると、
「近いぞ」
「ただ……一緒に読書したかっただけ……」
その笑顔がまた、無垢すぎて逆に疑わしい。
警戒心を持つべきなのに、胸の奥が妙に落ち着いてしまうのはなぜなんだ。
気がつけば、ページをめくる手が二人分。俺の肩に、彼女の髪がふわりと触れる。
気づかぬうちに、彼女のペースに巻き込まれていた。
暖かいお茶に砂糖を溶かされるように、じんわりと。
俺の青春は、そんな一人の少女によって、少しずつ、確実に攻略されていくのかもしれない。
心地よい空気に身を委ねたその瞬間――
背後から、氷のような声が飛んできた。
「アンタ、私とのコスサボっていい度胸ね?」
「っ! く、苦しい」
ポキポキと骨が軋む音が聞こえる。無論、俺からだ。
キめられている。もうノックダウン寸前。
ぐい、と背後から首元に腕が回される。
細いのに、驚くほど力強い。
密着した彼女の肌はひんやりとしていて、夏の夕方でも一瞬で背筋が伸びるような冷たさだった。
銀髪のウィッグがふわりと頬にかかる。
さらさらと柔らかく、まるで極上のシルクのような手触り――って、それどころじゃない!
制服の袖越しに伝わる腕の圧は本物だ。筋は細いのに、しなやかなバネのような緊張感がある。
香るのは、どこか涼やかなミントの香水。鼻先がツンとするのに、なぜか心臓がドクドクとうるさい。
彼女の声は相変わらず低くて冷たい。けれど、耳元で囁かれると、逆らう気力がすり減っていく。
コスプレ界のカリスマ、風間麻衣先輩。その本気の拘束技に、俺はすでに白旗寸前だった。
「次の撮影、協力してもらうから。……覚悟、しなよ?」
……と思ったそのときだった。
「ふたりとも、公然わいせつ罪で通報します」
「え、詩織っ!? なんでここに!?」
いつの間にか教室の扉が開いていて、そこには白石詩織。学年委員長であり、理系の申し子、俺の人生最大の天敵が仁王立ちしていた。
眼鏡の奥から放たれるジャッジメント光線。手には分厚い教科書と、なぜか理科室の白衣。
「放課後の教室で男女が密着している現場を押さえました。言い逃れはできません」
「いやいや、これはちが……む、無言で記録用カメラを構えないで!」
白石詩織。表向きは風紀の守護神。だがその実、理系の研究と美学にしか興味がなく、恋愛には極度に鈍感な天然属性。
「それより牧島くん。前に話した、あの3Dバイオモルフォ研究の被験者、まだ募集してるの。……君、協力してくれるって言ってたわよね?」
「す、すりー? 何それ、言ってないだろ!」
肩をがっしと掴まれ、詩織の眼鏡がキラリと光る。
「大丈夫。全身タイツ着用で済むわ。羞恥心の閾値も研究対象だから」
「絶対やだ!! 中学時代の文化祭で滑った芸を思いださせるな!」
その瞬間、俺は理解した。この世界には「守るべき自由」より、「抗えない女子力」が多すぎるということを。
さらに。
がらり。
図書室の奥の棚から、本の陰からぬっと顔を出した少女が一人。
「……誰だ!?」
いや、見覚えがあった。
その長い黒髪と、ずれたマスク。冬でもないのにマフラー巻いて、誰とも話さずにひとりで居場所を転々とするあの一年の子。
「み、水瀬……さん?」
「……知らない。名前、そんなだったかも」
「自分の名前だろ!?」
水瀬玲(仮)。学校に住んでるんじゃないかという都市伝説すらある、正体不明のミステリアスガール。話しかける者は誰もいない。彼女が口を開いたのを、今日初めて聞いた。
「……君の声、落ち着く。眠れる。……ここ、隣、座っていい?」
「席ないから!」
「なら膝の上でいい」
こうして俺の「ソロ活」は――
読書委員の癒し系、コスプレカリスマの先輩、理系委員長、そして謎の幽霊に囲まれ、静かに、しかし確実に、崩壊していく。
青春はポストアポカリプス。